「伊東静雄」を編集中
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'''伊東 静雄'''(いとう しずお、[[1906年]]([[明治]]39年)[[12月10日]] - [[1953年]]([[昭和]]28年)[[3月12日]])は |
'''伊東 静雄'''(いとう しずお、[[1906年]]([[明治]]39年)[[12月10日]] - [[1953年]]([[昭和]]28年)[[3月12日]])は[[日本]]の[[詩人]]。[[長崎県]][[諫早市]]出身。 |
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京大の友人と同人雑誌「呂」を創刊し、毎号詩を発表した。保田与重郎を通して萩原朔太郎の知るところとなり、その詩を激賞された。作品に『わがひとに与ふる哀歌』(1935年)、『夏花』(1940年)など。 |
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== 人物 == |
== 人物 == |
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長崎県立大村中学(現:[[長崎県立大村高等学校]])から、[[佐賀高等学校 (旧制)|旧制佐賀高等学校]](現:[[佐賀大学]])を経て[[京都大学大学院文学研究科・文学部|京都帝国大学文学部]]国文科に学んだ。 |
長崎県立大村中学(現:[[長崎県立大村高等学校]])から、[[佐賀高等学校 (旧制)|旧制佐賀高等学校]](現:[[佐賀大学]])を経て[[京都大学大学院文学研究科・文学部|京都帝国大学文学部]]国文科に学んだ。 |
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卒業後は公立学校教員︵公務員︶となり大阪府立住吉中学校︵現‥[[大阪府立住吉高等学校]]︶教諭となった。終戦後は[[大阪府立阿倍野高等学校]]に転勤。詩作活動に耽る傍ら、[[地方公務員]]の教員としても勤務するという﹁二足の草鞋﹂ |
卒業後は公立学校教員︵公務員︶となり大阪府立住吉中学校︵現‥[[大阪府立住吉高等学校]]︶教諭となった。終戦後は[[大阪府立阿倍野高等学校]]に転勤。詩作活動に耽る傍ら、[[地方公務員]]の教員としても勤務するという﹁二足の草鞋﹂となり、生涯教職から離れなかった。
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旧制住吉中学時代には、『[[古事記]]』を教えていたことと、その流行を追わないスタイルから「コジキ」というあだ名をつけられていた名物教師だったというエピソードが残っている。 |
旧制住吉中学時代には、『[[古事記]]』を教えていたことと、その流行を追わないスタイルから「コジキ」というあだ名をつけられていた名物教師だったというエピソードが残っている。 |
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京大在学中には、文学部教授に旧制大村中学の先輩である[[朝永三十郎]]︵1965年[[ノーベル物理学賞]]を受賞した[[朝永振一郎]]の父親︶が、旧制住吉中学当時の教え子には、[[第三の新人]]の一人である[[小説家]]の[[庄野潤三]]や芥川賞候補作家の清水幸義、2008年[[ノーベル化学賞]]を受賞した[[下村脩]]がいた<ref>[http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20081010/01.shtml 下村氏ノーベル化学賞受賞] 長崎新聞 2008年10月10日閲覧</ref>。旧制大村中学の先輩に[[文芸評論家]]の[[福田清人]]、同学年に[[早稲田大学]]文学部教授で[[国文学者]]︵近代文学専攻︶の[[川副国基]]、[[國學院大學]]文学部教授となった古典[[中国文学]]者の[[蒲池歓一]]︵かまち かんいち︶がいる。
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京大在学中には、文学部教授に旧制大村中学の先輩である[[朝永三十郎]]︵1965年[[ノーベル物理学賞]]を受賞した[[朝永振一郎]]の父親︶が、旧制住吉中学当時の教え子には、[[第三の新人]]の一人である[[小説家]]の[[庄野潤三]]や芥川賞候補作家の清水幸義、2008年[[ノーベル化学賞]]を受賞した[[下村脩]]がいた<ref>[http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20081010/01.shtml 下村氏ノーベル化学賞受賞] 長崎新聞 2008年10月10日閲覧</ref>。旧制大村中学の先輩に[[文芸評論家]]の[[福田清人]]、同学年に[[早稲田大学]]文学部教授で[[国文学者]]︵近代文学専攻︶の[[川副国基]]、[[國學院大學]]文学部教授となった古典[[中国文学]]者の[[蒲池歓一]]︵かまち かんいち︶がいる。
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詩作は大学卒業の頃より始めた。1932年︵昭和7年︶、同人誌﹃呂﹄を創刊。のち﹃呂﹄を離れて、同人誌﹃コギト﹄に専念する。1935年︵昭和10年︶10月5日、処女詩集であり代表作﹃わがひとに与ふる哀歌﹄を発行し、[[萩原朔太郎]]から﹁日本にまだ一人、詩人が残っていた﹂と賞賛を受け一気に名声を高めた<ref>萩原朔太郎が編んだ﹃昭和詩鈔﹄︵冨山房百科文庫、復刻1977年︶にも収録された。</ref>。当時[[日本浪曼派]]の代表的な詩人としてその機関紙の同人でもあり、評論での[[保田與重郎]]と並び同時代に多大な影響を与えた。また日本古典文学やリルケの造詣の深さに由来した、浪漫的で日本的な叙事詩に耽美性を加えたその作風は、少年期の[[三島由紀夫]]にも多大な影響を与えた<ref>三島は十代後半に、生涯一度だけ大阪で会っている。1942年︵昭和17年︶の三島宛の葉書では﹁これからも沢山書いて、新しき星になつて下さい、それを信じて待ちます﹂と三島を励まし作品を評価している。しかし、戦後公開された日記の中では、三島のことを﹁俗人﹂﹁三島から手紙。面白くない。背伸びした無理な文章﹂などの酷評が残されている。また伊 |
詩作は大学卒業の頃より始めた。1932年︵昭和7年︶、同人誌﹃呂﹄を創刊。のち﹃呂﹄を離れて、同人誌﹃コギト﹄に専念する。1935年︵昭和10年︶10月5日、処女詩集であり代表作﹃わがひとに与ふる哀歌﹄を発行し、[[萩原朔太郎]]から﹁日本にまだ一人、詩人が残っていた﹂と賞賛を受け一気に名声を高めた<ref>萩原朔太郎が編んだ﹃昭和詩鈔﹄︵冨山房百科文庫、復刻1977年︶にも収録された。</ref>。当時[[日本浪曼派]]の代表的な詩人としてその機関紙の同人でもあり、評論での[[保田與重郎]]と並び同時代に多大な影響を与えた。また日本古典文学やリルケの造詣の深さに由来した、浪漫的で日本的な叙事詩に耽美性を加えたその作風は、少年期の[[三島由紀夫]]にも多大な影響を与えた<ref>三島は十代後半に、生涯一度だけ大阪で会っている。1942年︵昭和17年︶の三島宛の葉書では﹁これからも沢山書いて、新しき星になつて下さい、それを信じて待ちます﹂と三島を励まし作品を評価している。しかし、戦後公開された日記の中では、三島のことを﹁俗人﹂﹁三島から手紙。面白くない。背伸びした無理な文章﹂などの酷評が残されている。また伊藤が三島を﹁吹けば飛ぶような小才子﹂と評したとの証言も明らかにされた。三島は﹃[[新潮]]﹄1966年11月号に﹁伊東静雄の詩 わが詩歌﹂で﹁あの人は一個の小人物だつた。それでゐて、飛び切りの詩人だつた﹂と述べ、三島に与えられた﹁俗人﹂という評価に抗しつつ、その世俗に汚れなかった繊細な魂と詩を哀悼、賞賛し、全集推薦の辞でも﹁伊東静雄氏は私のもつとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思ふ﹂と述べている。</ref>。1940年︵昭和15年︶には第二詩集﹁夏花﹂を刊行。1941年︵昭和16年︶には[[三好達治]]、[[中原中也]]、[[立原道造]]らとともに、詩同人誌﹁四季﹂に参加・交流。[[蓮田善明]]とも交流があり、蓮田が最後に出征する際、蓮田の乗った列車を[[大阪駅]]で見送っている。
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1943年︵昭和18年︶9月5日に第三詩集﹁春のいそぎ﹂を刊行。1947年︵昭和22年︶に第四詩集﹁反響﹂を刊行。1953年︵昭和28年︶3月12日、[[肺結核]]のため[[大阪府]][[河内長野市]]の国立病院長野分院︵現‥[[国立病院機構大阪南医療センター]]︶で死去<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]﹃作家の臨終・墓碑事典﹄︵東京堂出版、1997年︶35頁</ref>。死後まもなく﹁反響以後﹂が刊行された。戒名は文林院静光詩仙居士。
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1943年︵昭和18年︶9月5日に第三詩集﹁春のいそぎ﹂を刊行。1947年︵昭和22年︶に第四詩集﹁反響﹂を刊行。1953年︵昭和28年︶3月12日、[[肺結核]]のため[[大阪府]][[河内長野市]]の国立病院長野分院︵現‥[[国立病院機構大阪南医療センター]]︶で死去<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]﹃作家の臨終・墓碑事典﹄︵東京堂出版、1997年︶35頁</ref>。死後まもなく﹁反響以後﹂が刊行された。戒名は文林院静光詩仙居士。
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*『夏花』(1940年・[[北村透谷]]賞受賞) |
*『夏花』(1940年・[[北村透谷]]賞受賞) |
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*『春のいそぎ』(1943年) |
*『春のいそぎ』(1943年) |
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*『反響』(1947年)、復 |
*『反響』(1947年)、復刊 竹林館 2005年 |
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== 関連文献 == |
== 関連文献 == |
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;著作 |
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*『伊東静雄全集』(全1巻)、[[桑原武夫]]・[[富士正晴]]・[[小高根二郎]]編、人文書院 1961年、増補改訂版1966年 |
*『伊東静雄全集』(全1巻)、[[桑原武夫]]・[[富士正晴]]・[[小高根二郎]]編、[[人文書院]] 1961年、増補改訂版1966年 |
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*:『定本版 伊東静雄全集』[[人文書院]](全1巻)、1971年、新版1989年<ref>第7刷が最終。刊行後に判明した追補資料が別刷りで添付されている</ref> |
*:『定本版 伊東静雄全集』[[人文書院]](全1巻)、1971年、新版1989年<ref>第7刷が最終。刊行後に判明した追補資料が別刷りで添付されている</ref> |
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*『伊東静雄詩集』[[岩波文庫]] [[杉本秀太郎]]編、初版1988年 |
*『伊東静雄詩集』[[岩波文庫]] [[杉本秀太郎]]編、初版1988年 |
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**『伊東静雄詩集』 |
**『伊東静雄詩集』思潮社 [[現代詩文庫]]、初版1980年 |
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**『伊東静雄詩集』桑原武夫・富士正晴編、[[新潮文庫]] 復刊1994年 |
**『伊東静雄詩集』桑原武夫・富士正晴編、[[新潮文庫]] 復刊1994年 |
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**『伊東静雄詩集』[[林富士馬]]編、[[旺文社]]文庫 / 新装版〈小沢クラシックス・日本詩人選18〉[[小沢書店]]、1997年 |
**『伊東静雄詩集』[[林富士馬]]編、[[旺文社]]文庫 / 新装版〈小沢クラシックス・日本詩人選18〉[[小沢書店]]、1997年 |
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*『作家の自伝69 伊東静雄 詩集わがひとに与ふる哀歌/京都』久米依子編、<シリーズ・人間図書館>[[日本図書センター]]、1998年 |
*『作家の自伝69 伊東静雄 詩集わがひとに与ふる哀歌/京都』久米依子編、<シリーズ・人間図書館>[[日本図書センター]]、1998年 |
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*『近代浪漫派文庫35 [[蓮田善明]]/伊東静雄』[[新学社]]<ref>収録作品は、伊東静雄詩集(わがひとに与ふる哀歌/夏花/春のいそぎ/反響抄/反響以後/拾遺詩篇より)と、日記抄。</ref>、2005年 |
*『近代浪漫派文庫35 [[蓮田善明]]/伊東静雄』[[新学社]]<ref>収録作品は、伊東静雄詩集(わがひとに与ふる哀歌/夏花/春のいそぎ/反響抄/反響以後/拾遺詩篇より)と、日記抄。</ref>、2005年 |
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*『伊東静雄 青春書簡 詩人への序奏』<ref>16歳から23歳までの書簡133通と資料解説</ref>大塚梓・田中俊廣 編、本多企画、1997年 |
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=== 伝記 === |
=== 伝記 === |
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*小川和佑『伊東静雄論』五月書房 1973年 |
*小川和佑『伊東静雄論』五月書房 1973年 |
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*小川和佑『伊東静雄論考』叢文社 1983年 |
*小川和佑『伊東静雄論考』叢文社 1983年 |
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*田中俊廣『痛き夢の行方 伊東静雄論』日本図書センター 2003年 |
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*山本皓造『伊東静雄と大阪・京都』「ソフィア叢書5」竹林館 2002年 |
*山本皓造『伊東静雄と大阪・京都』「ソフィア叢書5」竹林館 2002年 |
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*永藤武『伊東静雄論・[[中原中也]]論』[[おうふう]] 2002年 |
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*米倉巌『伊東静雄 憂情の美学』 審美社 1985年 |
*米倉巌『伊東静雄 憂情の美学』 審美社 1985年 |
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*三宅武治『伊東静雄 その人生と詩』花神社 1982年 |
*三宅武治『伊東静雄 その人生と詩』花神社 1982年 |
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*[[城戸朱理]]『詩人の夏 [[西脇順三郎]]と伊東静雄』矢立出版 1994年 |
*[[城戸朱理]]『詩人の夏 [[西脇順三郎]]と伊東静雄』矢立出版 1994年 |
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*高橋渡『雑誌コギトと伊東静雄』双文社出版 1992年 |
*高橋渡『雑誌コギトと伊東静雄』双文社出版 1992年 |
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*溝口章『伊東静雄―詠唱の詩碑』 |
*溝口章『伊東静雄―詠唱の詩碑』土曜美術社出版販売 1998年 |
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*青木由弥子『伊東静雄 戦時下の抒情』土曜美術社出版販売 2023年 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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[[Category:20世紀日本の詩人]] |
[[Category:20世紀日本の詩人]] |
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[[Category:日本の中等教育の教員]] |
[[Category:日本の中等教育の教員]] |
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[[Category:地方公務員出身の人物]] |
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[[Category:佐賀大学出身の人物]] |
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[[Category:京都大学出身の人物]] |
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[[Category:長崎県出身の人物]] |
[[Category:長崎県出身の人物]] |