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'''国策'''︵こくさく︶とは、[[権威主義]]国家において、[[政府]]が決めた[[政策]]を指す。[[国民]]は国策の是非を論じる必要も考える必要もなく、ただ従えばよい。
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'''国策'''(こくさく)とは、[[国家]]が決定する[[政策]]のこと。'''国家政策'''という語も同様の意味として用いられる。 |
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[[明治時代]]から[[終戦記念日|敗戦]]にかけての日本では、[[中国]]侵略が国策であった。[[植民地]]が持てない国は一人前扱いされない当時の国際常識に沿った日本政府の判断であったが、国民は賛否を論じる立場にはなく、[[召集令状]]が来ればただ[[戦場]]に赴けばよかった。
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=== 開国から大日本帝国憲法の日本 === |
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[[明治時代]]の[[日本]]においては、[[欧米]][[列強]]に[[植民地]]化されないことが究極の国策であった。特に幕府が結んだ[[不平等条約]]の改正は悲願であった。まず、[[版籍奉還]]、[[廃藩置県]]など制度の上から近代国家の体裁を整える必要があった。そして、[[大日本帝国憲法]]発布によって一応の完成を見た。また、産業を[[近代化]]する必要もあった。[[殖産興業]]が国策となり、[[富岡製糸場]]に見られるように各地に[[官営工場]]が設置された。[[鉄道]]や[[電信]]も開通した。[[富国強兵]]も国策で[[国民皆兵]]の近代的な[[軍隊]]が作られた。また、近代国家の建設と実現の為に[[帝国大学]]をはじめとする[[官立大学]]や各種[[軍学校]]などが順次作られ、国家を支える[[人材]]が国策で育てられた。
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軍閥政権の再来であった1932年の[[斎藤実内閣]]以降は国策法の制定がさらに進み、国策団体や国策法は1941年には、次のようなものがあった{{sfn|野田照夫|1941}}。
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* [[政治体制]]: [[大政翼賛会]]、医療保護法、改正[[治安維持法]]、[[予防拘禁#日本|予防勾禁]]、警察訓律、警察誓詞、大日本厚生体操、[[裁判所構成法]] |
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* 産業体制: [[蚕糸]]業統制法、私有財産制、食糧増産協議会、住宅営団法、貸家組合法、貸家組合、貸室組合、帝都高速度交通営団、[[漁業権|定置漁業]]、運用漁業、日本木材統制会社、鉄鋼統制会など各種[[統制会社]](のちの[[閉鎖機関]])、船舶保護法、[[帝国石油|帝国石油株式会社]]、東亜海運株式会社、[[日本証券|日本証券株式会社]]、農地開発法、農地開発営団、重要機械製造事業法、農業報国会、農地世襲制、原価基準協議会、交通政策要綱 |
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* 貿易体制: 輸出品及び輸出品用原材料配給統制規則、改正外国為替管理法、[[在米資金凍結令]] |
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* 金融体制: 国民貯蓄組合法、国民貯蓄組合、国民労務手帳法、国民更生金庫法、労働者年金保険法 |
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* 動員体制: [[国民学校令]]、養護訓導、祭務官、防備区域宣言、改正[[国家総動員法]] |
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現在の日本は、[[地下資源]]に乏しく狭い[[国土]]に多数の[[住民]]を擁するという比較的厳しい条件に対応した結果、主に高度な[[工業製品]]の[[海外]][[輸出]]によって得た[[利益]]で、国内で不足する[[鉱物]][[資源]]・[[食料]]・他の[[生活]]物資を輸入する、いわゆる[[貿易]]立国︵または[[加工貿易]]︶という国策を採用している状態といえる。このため、海外の貿易相手国とその周辺国の[[経済]]的・[[軍事]]的・[[政治]]的な安定が日本の国内の安定に直接つながるため、結果として[[平和主義]]が国策であるとも言える状態となっている。
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法律によって設立されている法人としては、[[日本弁護士連合会]]や[[損害保険料率算出機構]]などの[[民間法人]]、また、[[福祉医療機構]]や[[エネルギー・金属鉱物資源機構]]などの[[独立行政法人]]がある。 |
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[[中華人民共和国]]では、[[改革開放]]︵かいかくかいほう、拼音: gǎigé kāifàng︶が、[[鄧小平]]の指導体制の下で、1978年12月に開催された[[中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議]]で提出され、国内体制の改革および対外開放政策がとられている。また幾何級数的な[[人口]]の増加に法規制を加えるため﹁[[一人っ子政策]]﹂も国策であった。
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== 関連項目 == |
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* [[利権]] |
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* [[特殊会社|国策会社]] |
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* [[国家プロジェクト]] |
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* [[国策捜査]] |
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==注釈== |
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;出典 |
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== 参考文献 == |
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* {{Citation|和書| author=野田照夫| year=1941| url =https://dl.ndl.go.jp/pid/1056763/1/58| title=時局新語辞典 : 百万人の常識| volume=| volume-title=続編| publisher=[[法学書院]] | page=| quote=| ref =harv}} |
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[[Category:国家]] |
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諸国の現状[編集]
開国から大日本帝国憲法の日本[編集]
明治時代の日本においては、欧米列強に植民地化されないことが究極の国策であった。特に幕府が結んだ不平等条約の改正は悲願であった。まず、版籍奉還、廃藩置県など制度の上から近代国家の体裁を整える必要があった。そして、大日本帝国憲法発布によって一応の完成を見た。また、産業を近代化する必要もあった。殖産興業が国策となり、富岡製糸場に見られるように各地に官営工場が設置された。鉄道や電信も開通した。富国強兵も国策で国民皆兵の近代的な軍隊が作られた。また、近代国家の建設と実現の為に帝国大学をはじめとする官立大学や各種軍学校などが順次作られ、国家を支える人材が国策で育てられた。 軍閥政権の再来であった1932年の斎藤実内閣以降は国策法の制定がさらに進み、国策団体や国策法は1941年には、次のようなものがあった[1]。 ●政治体制: 大政翼賛会、医療保護法、改正治安維持法、予防勾禁、警察訓律、警察誓詞、大日本厚生体操、裁判所構成法 ●産業体制: 蚕糸業統制法、私有財産制、食糧増産協議会、住宅営団法、貸家組合法、貸家組合、貸室組合、帝都高速度交通営団、定置漁業、運用漁業、日本木材統制会社、鉄鋼統制会など各種統制会社︵のちの閉鎖機関︶、船舶保護法、帝国石油株式会社、東亜海運株式会社、日本証券株式会社、農地開発法、農地開発営団、重要機械製造事業法、農業報国会、農地世襲制、原価基準協議会、交通政策要綱 ●貿易体制: 輸出品及び輸出品用原材料配給統制規則、改正外国為替管理法、在米資金凍結令 ●金融体制: 国民貯蓄組合法、国民貯蓄組合、国民労務手帳法、国民更生金庫法、労働者年金保険法 ●動員体制: 国民学校令、養護訓導、祭務官、防備区域宣言、改正国家総動員法日本国憲法の日本[編集]
現在の日本は、地下資源に乏しく狭い国土に多数の住民を擁するという比較的厳しい条件に対応した結果、主に高度な工業製品の海外輸出によって得た利益で、国内で不足する鉱物資源・食料・他の生活物資を輸入する、いわゆる貿易立国︵または加工貿易︶という国策を採用している状態といえる。このため、海外の貿易相手国とその周辺国の経済的・軍事的・政治的な安定が日本の国内の安定に直接つながるため、結果として平和主義が国策であるとも言える状態となっている。 法律によって設立されている法人としては、日本弁護士連合会や損害保険料率算出機構などの民間法人、また、福祉医療機構やエネルギー・金属鉱物資源機構などの独立行政法人がある。外国[編集]
大韓民国は反共が表向きの国策であるが、太陽政策を緊張緩和策としている。政府が共産主義に建前上は反対しているので、男性は入隊の義務を持つ。 中華人民共和国では、改革開放︵かいかくかいほう、拼音: gǎigé kāifàng︶が、鄧小平の指導体制の下で、1978年12月に開催された中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で提出され、国内体制の改革および対外開放政策がとられている。また幾何級数的な人口の増加に法規制を加えるため﹁一人っ子政策﹂も国策であった。関連項目[編集]
注釈[編集]
- 出典
参考文献[編集]
- 野田照夫『時局新語辞典 : 百万人の常識』《続編》法学書院、1941年 。