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「地獄 (キリスト教)」の版間の差分

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[[File:Hell (detail) by Anonymous 16th Century 1 of 2 (582x800).jpg|thumb|A detail from [[ヒエロニムス・ボス]]'s depiction of Hell (16th century)]]

本記事では[[キリスト教]]における'''[[地獄]]'''(じごく、{{lang-en|hell}})を扱う。

'''地獄'''(じごく、{{lang-en|hell}})では[[キリスト教]]における[[地獄]]について詳述する。




[[]][[]][[]][[]]'''[[|]]'''{{lang|el|γεεννα}}[[]]'''[[|]]'''{{lang|el|δης}}2[[]][[]]"hell"[[]]2

[[]][[]][[]][[]]'''[[|]]'''{{lang|el|γεεννα}}[[]]'''[[ ()|]]'''{{lang|el|δης}}2[[]][[]] "{{lang|en|hell}}" [[]]2


最終的な永遠の地獄(ゲヘナ)と、不信仰な死者が最後の審判を待つ黄泉(ハデス)は区別されている。


2[[|]]2

2[[|]]2


== 概念 ==

== 概念 ==


[[]]<ref name="daijiten469"> 469[[]]52 </ref><ref name="maka526">[[1 ()|1]][http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/824360/1 ]526 - 529</ref><ref>pp.82-83</ref><ref>250251</ref>

[[キリスト教]]での地獄は一般的に、死後の刑罰の場所または状態<ref name="daijiten469">『キリスト教大事典 改訂新版』469頁、[[教文館]]、昭和52年 改訂新版第四版</ref>、霊魂が神の怒りに服する場所<ref name="maka526">[[マカリイ1世 (モスクワ府主教)|モスクワ府主教マカリイ1世]]著『[{{NDLDC|824360/1}} 正教定理神学]』526頁 - 529頁</ref>とされる。



他方、地獄を霊魂の死後の状態に限定せず、愛する事が出来ない苦悩・神の光に浴する事が出来ない苦悩という霊魂の状態を指すとし、この世においても適用出来る概念として地獄を理解する見解が[[正教会]]にある。この見解は[[ドストエフスキー]]の『[[カラマーゾフの兄弟]]』に登場するゾシマ[[長老 (正教会)|長老]]の台詞にもみえる。地獄を死後の場所に限定せず、霊魂の状態として捉える理解は、楽園が霊魂の福楽であると捉える理解と対になっている<ref name="IA187">[[府主教]][[イラリオン・アルフェエフ]]著、ニコライ高松光一訳『信仰の機密』[[ニコライ堂|東京復活大聖堂教会(ニコライ堂)]]187頁 - 191頁 2004年</ref>。

他方、地獄を霊魂の死後の状態に限定せず、愛する事が出来ない苦悩・神の光に浴する事が出来ない苦悩という霊魂の状態を指すとし、この世においても適用出来る概念として地獄を理解する見解が[[正教会]]にある。この見解は[[ドストエフスキー]]の『[[カラマーゾフの兄弟]]』に登場するゾシマ[[長老 (正教会)|長老]]の台詞にもみえる。地獄を死後の場所に限定せず、霊魂の状態として捉える理解は、楽園が霊魂の福楽であると捉える理解と対になっている<ref name="IA187">[[府主教]][[イラリオン・アルフェエフ]]著、ニコライ高松光一訳『信仰の機密』[[ニコライ堂|東京復活大聖堂教会(ニコライ堂)]]187頁 - 191頁 2004年</ref>。

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== 語義・訳語 ==

== 語義・訳語 ==

=== ギリシャ語における二つの語彙の概念差 ===

=== ギリシャ語における二つの語彙の概念差 ===

[[ギリシャ語]]においては、[[英語]]で"hell"と訳される語彙として、{{lang|el|γέεννα}}([[古典ギリシャ語]][[再建]]音:'''ゲヘンナ'''、[[現代ギリシャ語]]転写:'''ゲエンナ''')と、{{lang|el|ᾍδης}}([[古典ギリシャ語]][[再建]]音:'''ハデース'''、[[現代ギリシャ語]]転写:'''アディス''')の二つの語彙があり、両語彙とも[[旧約聖書]]・[[新約聖書]]に使われている<ref name="seishodai">『旧約新約聖書大事典』540頁、1261頁 - 1262頁 [[教文館]] ISBN 9784764240063</ref>。

[[ギリシャ語]]においては、[[英語]]で "{{lang|en|hell}}" と訳される語彙として、{{lang|el|γέεννα}}([[古典ギリシャ語]][[再建]]音:'''ゲヘンナ'''、[[現代ギリシャ語]]転写:'''ゲエンナ''')と、{{lang|el|ᾍδης}}([[古典ギリシャ語]][[再建]]音:'''ハデース'''、[[現代ギリシャ語]]転写:'''アディス''')の二つの語彙があり、両語彙とも[[旧約聖書]]・[[新約聖書]]に使われている<ref name="seishodai">『旧約新約聖書大事典』540頁、1261頁 - 1262頁 [[教文館]] ISBN 9784764240063</ref>。



[[File:Valley of Hinom PA180090.JPG|right|thumb|200px|"地獄": [[ゲヘナ]]の語源となった「ヒンノムの谷」(2007年撮影)]]

[[File:Valley of Hinom PA180090.JPG|right|thumb|200px|"地獄": [[ゲヘナ]]の語源となった「ヒンノムの谷」(2007年撮影)]]

[[ゲヘナ|ゲヘンナ]]は原語では「ヒンノムの谷」の意である。この谷では[[アハズ]]王の時代に[[モレク|モロク]]神に捧げる火祭に際して幼児犠牲が行われたこと、[[ヨシヤ]]王の改革で谷が汚されたことがあり、町の汚物の捨て場とされた。このような経緯から、新約聖書ではゲヘンナは来世の刑罰の場所として考えられるようになった<ref name="daijiten383">『キリスト教大事典 改訂新版』383頁、教文館、昭和52年 改訂新版第四版</ref>。一方、[[ハデス|ハデース]]はギリシャ語の「姿なく、おそろしい」の意から派生したもので、ヘブライ語の'''[[シェオル]]'''に当たる。古代の神話では死者の影が住む地下の王国とされた<ref name="IA187" />。


[[|]][[]][[|]][[]]<ref name="daijiten383"> 38352 </ref>[[ ()|]]姿'''[[]]'''<ref name="IA187" />


以下に二つの語彙の概念差についての概要を述べるが、[[キリスト教]]内でも地獄に対する捉え方が[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]・神学傾向などによって異なる。教派ごとの捉え方の詳細については後述する。

[[キリスト教]]内でも地獄に対する捉え方が[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]・神学傾向などによって異なり、ゲヘンナとハデースの間には厳然とした区別があるとする見解と<ref name="seishodai" />、区別は見出すものそれほど大きな違いとは捉えない見解<ref name="maka526" />など、両概念について様々な捉え方がある。


ゲヘンナとハデースの間には厳然とした区別があるとする見解と<ref name="seishodai" />、区別は見出すもののそれほど大きな違いとは捉えない見解<ref name="maka526" />など、両概念について様々な捉え方がある。



厳然とした区別があるとする見解の一例に拠れば、ゲヘンナは[[最後の審判]]の後に神を信じない者が罰せられる場所であるとされる。一方、ハデースは死から[[最後の審判]]、[[復活 (キリスト教)|復活]]までの期間だけ死者を受け入れる中立的な場所であるとする。この見解によれば、ハデースは時間的に限定されたものであり、この世の終わりにおける人々の[[復活 (キリスト教)|復活]]の際にはハデースは終焉する。他方、別の捉え方もあり、ハデースは不信仰な者の魂だけが行く場所であり、正しい者の魂は「永遠の住まい」にあって[[キリスト]]と一つにされるとする<ref name="seishodai" />。

厳然とした区別があるとする見解の一例に拠れば、ゲヘンナは[[最後の審判]]の後に神を信じない者が罰せられる場所であるとされる。一方、ハデースは死から[[最後の審判]]、[[復活 (キリスト教)|復活]]までの期間だけ死者を受け入れる中立的な場所であるとする。この見解によれば、ハデースは時間的に限定されたものであり、この世の終わりにおける人々の[[復活 (キリスト教)|復活]]の際にはハデースは終焉する。他方、別の捉え方もあり、ハデースは不信仰な者の魂だけが行く場所であり、正しい者の魂は「永遠の住まい」にあって[[キリスト]]と一つにされるとする<ref name="seishodai" />。

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ギリシャ語から他言語に翻訳するにあたりこの二つの語彙をどのように処理するかについて、二つの語彙を当てて訳し分けるか、それとも同じ語彙を当てるか、いずれかの方策が各種各言語翻訳によって採られる事となっている。

ギリシャ語から他言語に翻訳するにあたりこの二つの語彙をどのように処理するかについて、二つの語彙を当てて訳し分けるか、それとも同じ語彙を当てるか、いずれかの方策が各種各言語翻訳によって採られる事となっている。




[[]]使[[]][[]]{{lang|el|Γέεννα}}{{lang|la|gĕhenna}}{{lang|el|δης}}{{lang|la|Infernum}}<ref>[http://la.wikisource.org/wiki/Biblia_Sacra_Vulgata_(Stuttgartensia)/Matthaeus Biblia Sacra Vulgata (Stuttgartensia)/Matthaeus]</ref>[[]][[]]使[[]]{{lang|el|Γέεννα}}{{lang|slv|Геенна}}{{lang|el|δης}}{{lang|slv|Адъ}}<ref>[http://www.lib.ru/HRISTIAN/BIBLIYA/new/mat.pdf {{lang|slv|Евангелие от Матфея}}] (PDF)</ref><ref>[http://www.slavdict.narod.ru/_0867.htm {{lang|slv|Полный церковнославянский словарь}}]</ref>

[[]]使[[]][[]]{{lang|el|Γέεννα}}  {{lang|la|gĕhenna}} {{lang|el|δης}}  {{lang|la|Infernum}} <ref>[http://la.wikisource.org/wiki/Biblia_Sacra_Vulgata_(Stuttgartensia)/Matthaeus Biblia Sacra Vulgata (Stuttgartensia)/Matthaeus]</ref>[[]][[]]使[[]]{{lang|el|Γέεννα}}  {{lang|cu|Геенна}} {{lang|el|δης}}  {{lang|cu|Адъ}} <ref>[http://www.lib.ru/HRISTIAN/BIBLIYA/new/mat.pdf {{lang|slv|Евангелие от Матфея}}] (PDF)</ref><ref>[http://www.slavdict.narod.ru/_0867.htm {{lang|cu|Полный церковнославянский словарь}}]</ref>



[[]][[]]"hell"''hell''17<ref>[[J.I.]] 使[[]]p.69</ref>

[[]][[]] "{{lang|en|hell}}"  "{{lang|en|hell}}" 17<ref>[[J.I.]] 使[[]]p.69</ref>


=== 日本語訳聖書における訳し分け ===

=== 日本語訳聖書における訳し分け ===

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| style="width:8%; text-align:center" | 聖書箇所

| style="width:8%; text-align:center" | 聖書箇所

| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[日本正教会訳聖書]]'''</small>

| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[日本正教会訳聖書]]'''</small>

| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[ラゲ訳聖書]]'''</small>

| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[我主イエズスキリストの新約聖書|ラゲ訳聖書]]'''</small>

| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[大正改訳聖書]]'''</small>

| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[大正改訳聖書]]'''</small>

| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[口語訳聖書]]'''</small>

| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[聖書 口語訳|口語訳聖書]]'''</small>

| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[新改訳聖書]]'''</small>

| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[新改訳聖書]]'''</small>

| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[新共同訳聖書]]'''</small>

| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[新共同訳聖書]]'''</small>

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== 聖書箇所 ==

== 聖書箇所 ==

旧約聖書においても新約聖書においても、地獄について記された箇所がある。

[[旧約聖書]]においても[[新約聖書]]においても、地獄について記された箇所がある。



新約聖書において地獄に言及される箇所として以下が挙げられる。[[口語訳聖書]]からの引用文は斜体としてある。

新約聖書において地獄に言及される箇所として以下が挙げられる。[[聖書 口語訳|口語訳聖書]]からの引用文は斜体としてある。

*ゲヘンナ(地獄、ゲエンナ)

*ゲヘンナ(地獄、ゲエンナ)


**[[]] 5:22'''' 

**[[]] 5:22'''' 
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**[[使徒行伝]] 2:27

**[[使徒行伝]] 2:27

**[[使徒行伝]] 2:31「''キリストの[[復活 (キリスト教)|復活]]をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。''」

**[[使徒行伝]] 2:31「''キリストの[[復活 (キリスト教)|復活]]をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。''」

**[[ヨハネの黙示録]] 1:18、6:8、20:13

**[[ヨハネの黙示録]] 1:18、6:8


**[[]] [[s:()#20:13|20:13]]'' ''

**[[ヨハネの黙示録]] 20:14「''それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 ''」

**[[ヨハネの黙示録]] 20:14「''それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 ''」



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[[アタナシオス信条]]で永遠の地獄を告白している。

[[アタナシオス信条]]で永遠の地獄を告白している。



=== ローマ・カトリック ===

=== カトリック教会 ===

[[Image:Hortus Deliciarum - Hell.jpg|thumb|200px|[[:en:Herrad of Landsberg|Herrad von Landsberg]]による[[装飾写本]]形式の百科事典『[[:en:Hortus Deliciarum|Hortus Deliciarum]]』([[1180年]]頃)に掲載されている地獄の絵]]

[[Image:Hortus Deliciarum - Hell.jpg|thumb|200px|[[:en:Herrad of Landsberg|Herrad von Landsberg]]による[[装飾写本]]形式の百科事典『[[:en:Hortus Deliciarum|Hortus Deliciarum]]』([[1180年]]頃)に掲載されている地獄の絵]]

==== 概要 ====


[[]][[|]][[]]<ref name="cateJP">310 - 312 2002/07  ISBN 9784877501013</ref><ref name="cateJP" /><ref>p.116</ref>

[[里脇浅次郎]][[枢機卿]]は、[[オリゲネス]]以来、地獄の永遠性を否定する思想を唱える者がいたが、正統の立場からは退けられたとしている<ref> 『カトリックの終末論』聖母文庫 </ref>。具体的に、トマス・アクィナスの護教大全144を引用して「刑罰は罪に、褒賞は善行に釣り合うものでなければならない。ところで、徳に対する褒賞は永遠の至福である。それで、至福から除外される罪も永遠でなければならない」とする正義の原理と、現世で国家に反抗すれば国民の権利を剥奪されると同じように、福者達の社会でも神に背いている状態の者は権利を剥奪される、ところで、神の国は永遠で「福者達と至福を目指す人達の社会は、究極目的と愛とによって成り立っているから、これに反対する者は、たとえ罪を犯す時間は短かったにしても、永遠に罰せられる」とする公正の原理から、地獄の苦罰は永遠であると説明している。<ref>里脇浅次郎『カトリックの終末論』聖母文庫、pp.79-80 </ref>また、地上にいるうちに回心をしなければもはや許される機会はなく、死と共に自我は魂に固定されてしまう、としてこうした説明を補っている。<ref>里脇浅次郎『カトリックの終末論』聖母文庫、pp.84 </ref>


プロセスとしては、人はまず死後、[[私審判]]として生前の行いや悔い改めの有無などから、裁かれる。そして、天国に上る者(+煉獄で清めを受ける者)と地獄に落とされる者とに分かれるが、両者は共に世の終わりに[[公審判]]として、肉体を復活させられたうえで再び裁きを受ける。ただし、公審判は私審判の控訴場ではなく、私審判での判決が変わることはないとされる。つまり、私審判で天国に上った者は公審判でも肉体が復活したうえで天国に住み、私審判で地獄に堕ちた者は公審判でも肉体復活の後、肉体を持ったまま永久的に苛まれるのである。<ref>里脇浅次郎『カトリックの終末論』聖母文庫、pp.27-39、pp.101-227 </ref><ref>『聖ピオ十世公教要理詳解』121-131、240-246</ref>



[[]] 3:9<ref name="cateJP" />713-14<ref name="cateJP" />

カトリック文学では、[[カトリック教会|カトリック]]教徒である14世紀イタリアの詩人[[ダンテ・アリギエーリ]]は、その大著『[[神曲]]』の中で、九圏から成る地獄界を描き、地獄のイメージを決定づけた。[[シェークスピア]]の[[ハムレット]]は[[告解]]のない死や、自殺者は地獄に落ちると理解している。


==== 永遠の苦罰 ====

里脇浅次郎枢機卿は、地獄の苦しみの主なものは火であり、これは単に比喩ではなく地上の火と似ている、と説明する。地上の火が大きな破壊力を持つように、地獄の火も同様で、それ自体が巨大な苦痛を与え、かつ激しい窮乏をもたらす、としている<ref>里脇浅次郎『カトリックの終末論』聖母文庫、pp.82-83</ref>

『[[公教要理]]』においては、私審判の後は霊魂が、公審判の後は霊魂と体の両方が恐ろしい印を身につけて永遠の苦しみを受ける、とされる。<ref>『聖ピオ十世公教要理詳解』246、251</ref>




[[]][[]][[]][[]]<ref name="cateJP">[[]]1033 - 1035 310 - 311[[]] ISBN 9784877501013</ref>[[|]]2541[[]]<ref name="cateJP" /><ref> 125 ISBN 9784877501532</ref>

[[]]調<ref></ref>

トマス・アクィナスも『神学大全』の中で同種の主張をし、さらに地獄においてもこの世で積んだ善徳に応じてその苦しみは和らげられる、とし、さらに地獄の人数が増えれば増えるほど、その苦しみも増していく、と説明している。ただし、「亡びた人々は、生きている人を亡びに誘うことはできない。それは悪魔のすることである」と、現世に対する亡者の介入の可能性を否定している。また、「地獄の火はそこに堕ちた者を自由勝手にさせないことを以って、大きな苦しみを与える。この者達は望むところにも、望む方法を以っても自由に行うことができない」と地獄の苦しみの一つとして、その不自由さを挙げている。<ref>『神学大全』創文社</ref>



[[里脇浅次郎]][[枢機卿]]([[1904年]] - [[1996年]])、著書『カトリックの終末論』の中で、[[オリゲネス]]([[182年]]? - [[251年]])以来、地獄の永遠性を否定する思想を唱える者がいたが、正統の立場からは退けられたとしている。また、地獄の苦しみの主なものは火であり、これは単に比喩ではなく地上の火と似ている、と説明する。地上の火が大きな破壊力を持つように、地獄の火も同様で、それ自体が巨大な苦痛を与え、かつ激しい窮乏をもたらす、としている<ref> 『カトリックの終末論』([[里脇浅次郎]]:著) 聖母文庫 ISBN 9784882161073</ref>

また、ローマ教皇庁から公認された奇跡である[[ファチマの聖母]]出現では、1917年7月13日、子供達の前に聖母が人々が大勢死後行くという地獄を見せたとされており、その一人であった少女[[ルシア・ドス・サントス|ルチア]](その後修道女に志願)の手記によると「ルチアとフランシスコと[[ヤシンタ・マルト|ヤシンタ]]は、その光の中に炎の大海を見ました。その炎の大海の中で、悪魔達と呪われた人々の霊魂とが、真っ黒になって、酷い絶望と苦しみの叫びを上げて暴れ狂っていました」、「その霊魂達は透き通った燃え盛る炭火のように真っ黒か褐色でした」と、具体的に火で炙られる光景が描写されている。<ref>アロイジオ・デルコル神父『ファティマの聖母』[[世のひかり社]]、p.20</ref>




[[]][[354]] - [[430]]調[[]]<ref></ref>

==== 地獄に堕ちる者の割合 ====

カトリックの前近代までの地獄観では、新約聖書の記述などから、しばしば極少数のみが救われて天国や煉獄に入り、死者の殆どは地獄に堕ちてしまう、とされてきた。<ref>St. Leonard of Port Maurice,The Little Number of Those Who Are Saved</ref>具体的に、18世紀のカトリックの[[聖人]]、ポルト・マウリチオの聖レオナルドは、他の聖人の啓示によると、ある例では死者33000人中、僅かに2人が天国に、3人が煉獄に行き、残り全員が地獄に堕ちることで滅ぼされた、とした。<ref>St. Leonard of Port Maurice,The Little Number of Those Who Are Saved</ref><ref>[http://gokyo.ganriki.net/translated/little_number.html ポルト・マウリチオの聖レオナルド「救われる人の数の少なさ」]</ref>また同じくある婦人を通じた啓示によると死者60000人のうち、僅かに3人だけが煉獄に行って救われ、残り全員が永遠の地獄に堕ちた、とした。<ref>St. Leonard of Port Maurice,The Little Number of Those Who Are Saved</ref><ref>[http://gokyo.ganriki.net/translated/little_number.html ポルト・マウリチオの聖レオナルド「救われる人の数の少なさ」]</ref>彼の他に、少なくとも19人の著名な[[ローマ教皇]]、カトリック聖人、教父が似たような教えを説いており、代表的なものを挙げると、聖[[トマス・アクィナス]]は、救われる者は少なく滅びる者は多いが、幾人かは天国に招かれ、それゆえ天主の憐れみが最高に現れる、<ref>「第1部第23問第7項 第3異論への回答」『神学大全』</ref>と主張し、教皇[[レオ1世]]は、あらゆる人のうち永遠の救いの道に至るものは少なく、それを見つけるのは殆ど難しい、と言った。<ref>Migne Latin Tomus 54. col. 302</ref>また、聖[[アウグスティヌス]]は「マニ教徒ファウストゥス論駁」の中で、教会に参加する者は多いが救われるのは僅かな者のみ、とし<ref>アウグスティヌス『マニ教徒ファウストゥス論駁 第一三巻』(Migne Latin Tomus 42. col. 291)</ref>、「ドナチストのクレスコニウス論駁」では、偽りのキリスト者は多いが本当のキリスト者は少ないので、僅かしか救われない、として<ref>アウグスティヌス『ドナチストのクレスコニウス論駁』(第三巻第六十六章)</ref>、最終的に「それゆえに、地獄に落とされる人に比べて救われる人はほとんどいない。」と結論している。他に、教皇[[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]<ref>Homelia VIIIa et XIVa</ref><ref>Homelia XIXa</ref>、聖[[アンブロシウス]]<ref>Migne PL tomus XXIV</ref>、聖[[ヒエロニムス]]<ref>EPISTOLA [(c) 2Kb] CXLVIII [(d) 1Kb] . AD CELANTIAM MATRONAM. De ratione pie vivendiI</ref>、聖ヒラリオ<ref>184 TRACTATUS PSALMI</ref>、聖ヨハネ・カッシアノ<ref>『修道生活についての教え』四巻第38章(JOANNIS CASSIANI ABBATIS MASSILIENSIS DE COENOBIORUM INSTITUTIS LIBRI DUODECIM LIBER QUARTUS. DE INSTITUTIS RENUNTIANTIUM. CAPUT XXXVIII. De renuntiantis praeparatione, adversum tentationes, et de paucis imitandis.)</ref>、聖[[アンセルムス]]<ref>「オドンとランゾンへの手紙」(Liber I. Epistolae II Migne. Pat. Lat. Tomus CLVIII col 1065)</ref><ref>Liber III. Epistolae XVIII, Migne. Pat. Lat. CI col 43</ref>、聖[[クレルヴォーのベルナルドゥス|ベルナルド]]<ref>TROISIÈME SERMON POUR LA VEILLE DE NOËL. Sur ces paroles : « Et vous verrez demain matin éclater la gloire du Seigneur, car vous saurez que le Seigneur va venir aujourd'hui même. (Exod. XVI, 7)</ref>、シエナの聖ベルナルディーノ<ref>「罪の鏡」</ref>、聖[[パリのディオニュシウス|ディオニジウス]]<ref>Opera selecta. Dion. Carthus.</ref>などが、よく似た内容の言及をし、聖アルフォンソ・デ・リグオリはこうした諸教父達の論考を総括して、「信者達の大部分も地獄に堕ちるであろう、とするのがより共通の神学者達の意見である」<ref>Theologia Moralis, Lib. IV. Tr. 2. Cap. 2. no 130. Communier opinio vult majorem partem, adhuc fidelium, damnari.</ref>とし、さらに「最も共通の意見は、信徒達でさえ、その大部分は永遠に滅びてしまう、である」<ref>Preparation a la mort. Consideration 17. 2e point. Traduction Dujardin. Edit. 1872 p. 181. l'opinion la plus commune prétend que la plus grande partie même des fidèles, se damnent.</ref>と結んでいる。



カトリックの前近代までの地獄観では、新約聖書の記述などから、しばしば極少数のみが救われて天国や[[煉獄]]に入り、死者のほとんどは地獄に堕ちてしまう、と解釈されることがあり、歴史上、複数の教皇や[[聖人#キリスト教|聖人]]が言及してきた。しかし、このような解釈は、現代のカトリック教会ではごく一部の超保守派を除くとほとんど支持されておらず、『カトリック教会のカテキズム』には、地獄に落ちる具体的な人数や割合については書かれていない。[[教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]は、「地獄の問題は[[オリゲネス]]から始まって、常に思想家達を悩ませてきた」としながら、教会の長として教理上は地獄の存在を肯定せざるを得ないものの、「そこに誰が入っているかは誰一人として分からず、果たしてキリストを裏切った[[イスカリオテのユダ|ユダ]]がそこにいるかどうかさえわからない。」と述べたことがある<ref>Crossing the Threshold of Hope pp185-186</ref>。

また、20世紀ローマ教皇庁に公認された奇跡[[ファチマの聖母]]出現(1917年)において、[[聖母マリア]]は、ヤシンタを通じて、次の戦争で死ぬ者の殆ど全てが地獄に堕ちる、と啓示している<ref>[http://fsspxjapan.fc2web.com/maria/fatima_2.html ファチマの秘密](シスター・ルチア 第三手記からの引用)聖ピオ十世会</ref>。




[[]] 39<ref>1037 312</ref>[[]][[]] 315<ref name="cateJP" /> 713 -14<ref>1036 311 - 312</ref>

ただし、このような解釈は、現代のカトリック教会では一部の保守派の神学教授・聖職者<ref>[http://www.d-b.ne.jp/mikami/fc9212.htm 三上茂(南山大学教授)ファチマ・クルーセイダー]</ref>や[[聖ピオ十世会]]<ref>[http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/6844e63390d1901ee2625a32cc06b276 【死者の月】死と救われる人々の数についての黙想][[小野田圭志]](ピオ十世会司祭)</ref>など保守系団体を除くと、殆ど行われておらず、特に[[第二バチカン公会議]]以降、説教上の地獄に関する言及は減る傾向にある。教皇[[ヨハネ・パウロ二世]]は、地獄の問題は[[オリゲネス]]から始まって、ミカイル・ブルガコフやハンス・ウルス・フォン・バルタザールに至るまで、常に思想家達を悩ませてきた、としながら、教会の長として教理上は地獄の存在を肯定せざる得ないものの、そこに誰が入っているかは誰一人として分からず、果たしてキリストを裏切ったユダがそこにいるかどうかさえわからない、としている。<ref>Crossing the Threshold of Hope pp185-186</ref>



また、現代では逆に地獄の存在を疑問視する聖職者・神学者もあらわれたが、先述したとおり『カトリック教会のカテキズム』では地獄の存在とその永遠性を明確に示しており、これも否定するかたちになっている。

また、現代のカトリック神学者[[カール・ラーナー]]は、神の無限の憐れみと永遠の苦罰を教理上、両立させるのは難しく、誰も地獄の存在の可能性を肯定する必要がない、とし、聖書に預言された地獄の出来事は現実には起こらないだろう、と確実に知っているわけではないが、期待を持って考えている、と述べている。<ref>Interview a La Croix, 13 avril 1983, p.9</ref>



カトリック文学では、カトリック信徒である14世紀イタリアの詩人[[ダンテ・アリギエーリ]]は、その大著『[[神曲]]』の中で、九圏から成る地獄界を描き、地獄のイメージを決定づけた。[[シェークスピア]]の[[ハムレット]]は[[告解]]のない死や、自殺者は地獄に落ちると理解している。ただし、現代のカトリック教会では、自殺は「自らのいのちを守り維持しようとする人間の自然の働きとは相反するもので、生ける神への愛とは正反対のもの<ref name="cate2">『カトリック教会のカテキズム』2282、2283節 (日本語版668頁)</ref>」と断罪しながらも地獄に落ちるかどうかは明言しておらず、現実には本人が病的状態など苦しい状態に追い込まれているときには明確な意思が欠けており、引責能力を欠いている場合が多いとして、「自殺した人々の永遠の救いについて、絶望してはなりません。神はご自分だけが知っている方法によって、救いに必要な悔い改めの機会を与えることができるからです。教会は、自殺した人のためにも祈ります<ref name="cate2"/>。」としている。

{{See also|煉獄}}



=== プロテスタント ===

=== プロテスタント ===

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[[パウロ]]は、イエス・キリストが再臨したとき、神を信じない者、イエスの教えに従わない者が、かぎりなき永遠の刑罰を受けると記している。

[[パウロ]]は、イエス・キリストが再臨したとき、神を信じない者、イエスの教えに従わない者が、かぎりなき永遠の刑罰を受けると記している。


*[[|]]1:7-1:9 ''使退''[[]]

*[[|]]1:7-1:9 ''使退''[[ |]]


黙示録には以下の記述がある。

黙示録には以下の記述がある。

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[[]][[]]<ref name="OCcate102">102 - 103[[]] 1980</ref>

[[]][[]]<ref name="OCcate102">102 - 103[[]] 1980</ref>

*[[マタイによる福音書|マトフェイ]] 5:22、13:50、22:13、[[マルコによる福音書|マルコ]] 9:44、[[ルカによる福音書|ルカ]] 8:31、16:23、[[ペトロの手紙一|ペトル前書]] 3:19、[[フィリピの信徒への手紙|フィリップ書]] 2:10<ref name="OCcate102" />

*[[マタイによる福音書|マトフェイ]] 5:22、13:50、22:13、[[マルコによる福音書|マルコ]] 9:44、[[ルカによる福音書|ルカ]] 8:31、16:23、[[ペトロの手紙一|ペトル前書]] 3:19、[[フィリピの信徒への手紙|フィリップ書]] 2:10<ref name="OCcate102" />



ただし、正教会において地獄とは、「自ら神を拒絶する状態」であり、神が人間を虐待する場所のようにはとらえない<ref>[http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/sekaikan05.html 世界観-天国:日本正教会 The Orthodox Church in Japan]</ref>。




[[]]<ref name="OCcate102" />

[[]]<ref name="OCcate102" />
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==== 地獄のイメージ ====

==== 地獄のイメージ ====

[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]が『[[神曲]]』描いた地獄のイメージや、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]によって描かれた『[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]』のイメージは正教会では受け入れられていない<ref name="IA187" />。

[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]が『[[神曲]]』描いた地獄のイメージや、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]によって描かれた『[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]』のイメージは正教会では受け入れられていない<ref name="IA187" />。



[[府主教]][[イラリオン・アルフェエフ]]によれば、人が神から離れたことを実感する苦悩のシンボルとして「火」「寒冷」「渇き」「白熱の火炉」「焦熱の湖」などがあるが、西欧中世文学が創作した形象は物質的で粗野なものであり、永遠の苦悩の概念が歪められてしまったとされる。また[[掌院]][[ソフロニイ・サハロフ|ソフロニイ]]は、[[キリスト|ハリストス(キリスト)]]は愛であること、最後の審判においてさえ神は人を愛し続けると述べている。ミケランジェロのフレスコ画『最後の審判』に示された神の怒り・裁き・侮辱・決闘応諾等の[[スコラ学|スコラ]]的教えは、正教的理解と相容れる点が少ないとされる<ref name="IA187" />。

[[府主教]][[イラリオン・アルフェエフ]]によれば、人が神から離れたことを実感する苦悩のシンボルとして「火」「寒冷」「渇き」「白熱の火炉」「焦熱の湖」などがあるが、西欧中世文学が創作した形象は物質的で粗野なものであり、永遠の苦悩の概念が歪められてしまったとされる。また[[掌院]][[ソフロニイ・サハロフ|ソフロニイ]]は、[[キリスト|ハリストス(キリスト)]]は愛であること、最後の審判においてさえ神は人を愛し続けると述べている。ミケランジェロのフレスコ画『最後の審判』に示された神の怒り・裁き・侮辱・決闘応諾等の[[スコラ学|スコラ]]的教えは、正教的理解と相容れる点が少ないとされる<ref name="IA187" />。

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== 霊魂消滅説・絶滅説 ==

== 霊魂消滅説・絶滅説 ==

{{main|霊魂消滅説}}

{{main|霊魂消滅説}}

罪人が絶滅、消滅するとし、地獄、火の池での永遠の刑罰を否定する教理は霊魂消滅説(絶滅説)と呼ばれる。[[キリスト教弁証家]]の[[:en:Arnobius|アルノビウス]]が4世紀にこの説を説いたが、一般には受け入れられず、第5ラテラノ総会議([[1513年]])にて[[異端]]とされた。しかし19世紀になって、霊魂不滅を信じる一般的風潮にもかかわらず一部の神学者の間でこの説は受け入れられ、[[:en:Edward_White_(Free-Church_minister)|エドワード・ホワイト]]は著書にてこの説を強調した<ref>[[:en:Edward_White_(Free-Church_minister)|エドワード・ホワイト]] 『Life in Christ』1846年</ref><ref name="kyuuhan">『[[キリスト教大事典]] 改訂新版第9版』[[教文館]]1988年</ref>。


[[]][[|]][[|SDA]][[]][[]][[]][[]]SDA[[]]

霊魂消滅説をとる主な宗派は[[キリスト教系の新宗教]]諸派の[[セブンスデー・アドベンチスト教会]]、[[エホバの証人]]、[[キリスト・アデルフィアン派]](キリストの兄弟)である。



[[|SDA]][[]][[|]][[]][[]][[]]{{|date=20182|[[]]}}


== 万人救済説 ==

== 万人救済説 ==

{{main|万人救済説|新普遍救済主義}}

{{main|万人救済説|新普遍救済主義}}

地獄の存在を否定し、万人が天国に行くと主張するグループもある。[[宗教多元主義]]の[[ジョン・ヒック]]や[[ジョン・A・T・ロビンソン]]は万人救済説を唱えた<ref>『悪と神の愛』</ref><ref>「二十世紀後期における終末論」</ref>。

永遠の地獄の存在を否定し、万人が天国に行くと主張するグループもある。[[宗教多元主義]]の[[ジョン・ヒック]]や[[ジョン・A・T・ロビンソン]]は万人救済説を唱えた<ref>『悪と神の愛』</ref><ref>「二十世紀後期における終末論」</ref>。



== 脚注 ==

== 脚注 ==

{{脚注ヘルプ}}

{{脚注ヘルプ}}

{{Reflist}}

{{Reflist|30em}}



== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

*[[天国]]

*[[天国]]

*[[煉獄]]

*[[毒麦のたとえ]]

*[[黄泉]]

*[[黄泉]]

*[[地獄]]

*[[シェオル]]

*[[大罪]]

*[[大罪]]

*[[最後の審判]]

*[[最後の審判]]

*[[ヨハネの黙示録]]

*[[ヨハネの黙示録]]

*[[キリストの地獄への降下]]

*[[キリストの地獄への降下]]

*[[地獄 (仏教)]]



== 外部リンク ==

== 外部リンク ==

{{SEP|heaven-hell|Heaven and Hell|[[スタンフォード哲学百科事典]]にある「天国と地獄」についての項目。}}

{{SEP|heaven-hell|Heaven and Hell|天国と地獄}}

*[http://www.d-b.ne.jp/mikami/fc9212.htm 救われる人々の少なさ(The Fatima Crusader Issue 92, May 2009)]三上茂(南山大学教授)



{{Normdaten}}

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[[Category:キリスト教宇宙論]]

[[category:悪魔]]

[[Category:死後の世界|しこく きりすときよう]]

[[Category:キリスト教終末論]]

[[Category:キリスト教終末論]]

[[Category:悪魔]]


[[Category:キリスト教の信仰と教義]]

[[en:Christian views on Hell]]

[[Category:キリスト教における死後]]

[[fi:Helvetti kristinuskossa]]

[[Category:地獄 (キリスト教)|*]]

[[tr:Hıristiyanlıkta cehennem]]

[[zh:地獄 (基督教)]]


2024年4月13日 (土) 06:40時点における最新版

A detail from ヒエロニムス・ボス's depiction of Hell (16th century)

: hell

γεενναδης2 "hell" 2

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[1][2]

[3]

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 "hell" γέενναδης使[4]
"": 2007

[5]姿[3]

[4][2]

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22:1313:50[2]

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使Γέεννα  gĕhenna δης  Infernum [6]使Γέεννα  Геенна δης  Адъ [7][8]

 "hell"  "hell" 17[9]

[]





日本語訳聖書における訳し分け対照表
ギリシャ語 聖書箇所 日本正教会訳聖書 ラゲ訳聖書 大正改訳聖書 口語訳聖書 新改訳聖書 新共同訳聖書
γέεννα マタイ
5:22
地獄
(ルビ:「ゲエンナ」)
地獄 ゲヘナ 地獄 ゲヘナ 地獄
マタイ
18:9
地獄
(ルビ:「ゲエンナ」)
地獄 ゲヘナ 地獄 ゲヘナ 地獄
マルコ
18:9
地獄
(ルビ:「ゲエンナ」)
地獄 ゲヘナ 地獄 ゲヘナ 地獄
ルカ
12:5
地獄
(ルビ:「ゲエンナ」)
地獄 ゲヘナ 地獄 ゲヘナ 地獄
ᾍδης マタイ
11:23
地獄
(ルビ:「ぢごく」)
地獄 黄泉 黄泉 ハデス 陰府
ルカ
16:23
地獄
(ルビ:「ぢごく」)
地獄 黄泉 黄泉 ハデス 陰府
使徒行伝
2:31
地獄
(ルビ:「ぢごく」)
冥府 黄泉 黄泉 ハデス 陰府
黙示録
1:18
地獄
(ルビ:「ぢごく」)
地獄 陰府 黄泉 ハデス 陰府
黙示録
20:13
地獄
(ルビ:「ぢごく」)
冥府 陰府 黄泉 ハデス 陰府

聖書箇所[編集]







 5:22

 5:295:30 - 

 10:2818:923:1523:33

 9:43 - 9:48

 12:5

 3:6 


 11:23

 16:18

 10:1516:23

使 2:27

使 2:31

 1:186:8

 20:13 

 20:14 

西[]



[]

Herrad von LandsbergHortus Deliciarum1180
 

[10]2541[10][11]

1904 - 1996182? - 251退[12]

354 - 430調[13]

2[14]

39[15]315[10]713 - 14[16]



14[17][17]

[]

[]


17[18]

[]




32 33[19]

[20][21][22][23][24]



[25]

[26][27][28]



 5:22 

 9:48 



1:7-1:9 使退



 20:10 

 20:15 

 21:8 


[]

[]

[]


[29]

 5:2213:5022:13 9:44 8:3116:23 3:19 2:10[29]


[30]

[29]

[31]

姿姿[32]

[]

14

 9:16 3:9[3]

 2:4[33]

[33]

(一)[33]

(二)[33]

[33]

[]


[3]

西[3]

霊魂消滅説・絶滅説[編集]


45(1513)19調[34][35]



SDA[]

万人救済説[編集]

永遠の地獄の存在を否定し、万人が天国に行くと主張するグループもある。宗教多元主義ジョン・ヒックジョン・A・T・ロビンソンは万人救済説を唱えた[36][37]

脚注[編集]



(一)^  46952 

(二)^ abc1526 - 529

(三)^ abcde187 - 191 2004

(四)^ abc5401261 - 1262  ISBN 9784764240063

(五)^  38352 

(六)^ Biblia Sacra Vulgata (Stuttgartensia)/Matthaeus

(七)^ Евангелие от Матфея (PDF)

(八)^ Полный церковнославянский словарь

(九)^ J.I. 使p.69

(十)^ abc1033 - 1035 310 - 311 ISBN 9784877501013

(11)^  125 ISBN 9784877501532

(12)^ :  ISBN 9784882161073

(13)^ 

(14)^ Crossing the Threshold of Hope pp185-186

(15)^ 1037 312

(16)^ 1036 311 - 312

(17)^ ab22822283 668

(18)^ 西

(19)^ 

(20)^ 2:73:1912:7

(21)^ 16:23-249-10

(22)^ 20:135:28-29使4:15

(23)^ 25:41,461:8-920:10,12-1521:8

(24)^ 

(25)^ p.381 

(26)^ 

(27)^ 

(28)^ 

(29)^ abcd102 - 103 1980

(30)^ - The Orthodox Church in Japan

(31)^ 911977ISBN 978-4-560-05607-3 (4-560-05607-2)

(32)^   280 - 283 198610ISBN 9784326100668

(33)^ abcde1 44 - 45 西

(34)^  Life in Christ1846

(35)^  91988

(36)^ 

(37)^ 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]