「地獄 (キリスト教)」の版間の差分
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[[File:Hell (detail) by Anonymous 16th Century 1 of 2 (582x800).jpg|thumb|A detail from [[ヒエロニムス・ボス]]'s depiction of Hell (16th century)]] |
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本記事では[[キリスト教]]における'''[[地獄]]'''(じごく、{{lang-en|hell}})を扱う。 |
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'''地獄'''(じごく、{{lang-en|hell}})では[[キリスト教]]における[[地獄]]について詳述する。 |
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[[旧約聖書]]や[[新約聖書]]まで、地獄に関する内容が数十箇所に現れる。[[ギリシャ語]][[聖書]]の記事中に、地獄と訳される |
[[旧約聖書]]や[[新約聖書]]まで、地獄に関する内容が数十箇所に現れる。[[ギリシャ語]][[聖書]]の記事中に、﹁地獄﹂と訳されることがある語彙は、﹁'''[[ゲヘナ|ゲヘンナ]]'''﹂︵{{lang|el|γεεννα}}、[[現代ギリシャ語]]ではゲエンナ︶と﹁'''[[ハデス (キリスト教)|ハデース]]'''﹂︵{{lang|el|ᾍδης}}、現代ギリシャ語ではアディス︶の2種類がある。[[欽定訳聖書]]︵[[英語]]︶においては "{{lang|en|hell}}" がいずれに対しても訳語として用いられていて訳し分けられていない。[[日本語訳聖書]]においては、この2種類はギリシャ語原文に従って訳し分けられる傾向がある。
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最終的な永遠の地獄(ゲヘナ)と、不信仰な死者が最後の審判を待つ黄泉(ハデス)は区別されている。 |
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この2種類の語彙・概念をどの程度違うものとして捉えるかは、[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]・考え方によって異なっている。本記事ではこの2種類の語彙いずれも扱う |
この2種類の語彙・概念をどの程度違うものとして捉えるかは、[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]・考え方によって異なっていて、聖書中の訳語も異なる場合がある。本記事では、この2種類の語彙をいずれも扱うが、教派ごとに地獄についての理解が異なるため、概念概要と語義について詳述したのち、教派ごとの理解に移る。
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== 概念 == |
== 概念 == |
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[[キリスト教]]での地獄は一般的に、死後の刑罰の場所または状態<ref name="daijiten469">﹃キリスト教大事典 改訂新版﹄469頁、[[教文館]]、昭和52年 改訂新版第四版</ref>、霊魂が神の怒りに服する場所<ref name="maka526">[[マカリイ1世 (モスクワ府主教)|モスクワ府主教マカリイ1世]]著﹃[ |
[[キリスト教]]での地獄は一般的に、死後の刑罰の場所または状態<ref name="daijiten469">『キリスト教大事典 改訂新版』469頁、[[教文館]]、昭和52年 改訂新版第四版</ref>、霊魂が神の怒りに服する場所<ref name="maka526">[[マカリイ1世 (モスクワ府主教)|モスクワ府主教マカリイ1世]]著『[{{NDLDC|824360/1}} 正教定理神学]』526頁 - 529頁</ref>とされる。 |
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他方、地獄を霊魂の死後の状態に限定せず、愛する事が出来ない苦悩・神の光に浴する事が出来ない苦悩という霊魂の状態を指すとし、この世においても適用出来る概念として地獄を理解する見解が[[正教会]]にある。この見解は[[ドストエフスキー]]の『[[カラマーゾフの兄弟]]』に登場するゾシマ[[長老 (正教会)|長老]]の台詞にもみえる。地獄を死後の場所に限定せず、霊魂の状態として捉える理解は、楽園が霊魂の福楽であると捉える理解と対になっている<ref name="IA187">[[府主教]][[イラリオン・アルフェエフ]]著、ニコライ高松光一訳『信仰の機密』[[ニコライ堂|東京復活大聖堂教会(ニコライ堂)]]187頁 - 191頁 2004年</ref>。 |
他方、地獄を霊魂の死後の状態に限定せず、愛する事が出来ない苦悩・神の光に浴する事が出来ない苦悩という霊魂の状態を指すとし、この世においても適用出来る概念として地獄を理解する見解が[[正教会]]にある。この見解は[[ドストエフスキー]]の『[[カラマーゾフの兄弟]]』に登場するゾシマ[[長老 (正教会)|長老]]の台詞にもみえる。地獄を死後の場所に限定せず、霊魂の状態として捉える理解は、楽園が霊魂の福楽であると捉える理解と対になっている<ref name="IA187">[[府主教]][[イラリオン・アルフェエフ]]著、ニコライ高松光一訳『信仰の機密』[[ニコライ堂|東京復活大聖堂教会(ニコライ堂)]]187頁 - 191頁 2004年</ref>。 |
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== 語義・訳語 == |
== 語義・訳語 == |
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=== ギリシャ語における二つの語彙の概念差 === |
=== ギリシャ語における二つの語彙の概念差 === |
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[[ギリシャ語]]においては、[[英語]]で"hell"と訳される語彙として、{{lang|el|γέεννα}}([[古典ギリシャ語]][[再建]]音:'''ゲヘンナ'''、[[現代ギリシャ語]]転写:'''ゲエンナ''')と、{{lang|el|ᾍδης}}([[古典ギリシャ語]][[再建]]音:'''ハデース'''、[[現代ギリシャ語]]転写:'''アディス''')の二つの語彙があり、両語彙とも[[旧約聖書]]・[[新約聖書]]に使われている<ref name="seishodai">『旧約新約聖書大事典』540頁、1261頁 - 1262頁 [[教文館]] ISBN 9784764240063</ref>。 |
[[ギリシャ語]]においては、[[英語]]で "{{lang|en|hell}}" と訳される語彙として、{{lang|el|γέεννα}}([[古典ギリシャ語]][[再建]]音:'''ゲヘンナ'''、[[現代ギリシャ語]]転写:'''ゲエンナ''')と、{{lang|el|ᾍδης}}([[古典ギリシャ語]][[再建]]音:'''ハデース'''、[[現代ギリシャ語]]転写:'''アディス''')の二つの語彙があり、両語彙とも[[旧約聖書]]・[[新約聖書]]に使われている<ref name="seishodai">『旧約新約聖書大事典』540頁、1261頁 - 1262頁 [[教文館]] ISBN 9784764240063</ref>。 |
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[[File:Valley of Hinom PA180090.JPG|right|thumb|200px|"地獄": [[ゲヘナ]]の語源となった「ヒンノムの谷」(2007年撮影)]] |
[[File:Valley of Hinom PA180090.JPG|right|thumb|200px|"地獄": [[ゲヘナ]]の語源となった「ヒンノムの谷」(2007年撮影)]] |
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[[ゲヘナ|ゲヘンナ]]は原語では「ヒンノムの谷」の意である。この谷では[[アハズ]]王の時代に[[モレク|モロク]]神に捧げる火祭に際して幼児犠牲が行われたこと、[[ヨシヤ]]王の改革で谷が汚されたことがあり、町の汚物の捨て場とされた。このような経緯から、新約聖書ではゲヘンナは来世の刑罰の場所として考えられるようになった<ref name="daijiten383">『キリスト教大事典 改訂新版』383頁、教文館、昭和52年 改訂新版第四版</ref>。一方、[[ハデス|ハデース]]はギリシャ語の「姿なく、おそろしい」の意から派生したもので、ヘブライ語の'''[[シェオル]]'''に当たる。古代の神話では死者の影が住む地下の王国とされた<ref name="IA187" />。 |
[[ゲヘナ|ゲヘンナ]]は原語では﹁ヒンノムの谷﹂の意である。この谷では[[アハズ]]王の時代に[[モレク|モロク]]神に捧げる火祭に際して幼児犠牲が行われたこと、[[ヨシヤ]]王の改革で谷が汚されたことがあり、町の汚物の捨て場とされた。このような経緯から、新約聖書ではゲヘンナは﹁来世の刑罰の場所﹂として考えられるようになった<ref name="daijiten383">﹃キリスト教大事典 改訂新版﹄383頁、教文館、昭和52年 改訂新版第四版</ref>。一方、[[ハデス (キリスト教)|ハデース]]はギリシャ語の﹁姿なく、おそろしい﹂の意から派生したもので、ヘブライ語の'''[[シェオル]]'''に当たる。古代の神話では死者の影が住む地下の王国とされた<ref name="IA187" />。
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[[キリスト教]]内でも地獄に対する捉え方が[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]・神学傾向などによって異なり、ゲヘンナとハデースの間には厳然とした区別があるとする見解と<ref name="seishodai" />、区別は見出すもののそれほど大きな違いとは捉えない見解<ref name="maka526" />など、両概念について様々な捉え方がある。 |
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ゲヘンナとハデースの間には厳然とした区別があるとする見解と<ref name="seishodai" />、区別は見出すもののそれほど大きな違いとは捉えない見解<ref name="maka526" />など、両概念について様々な捉え方がある。 |
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厳然とした区別があるとする見解の一例に拠れば、ゲヘンナは[[最後の審判]]の後に神を信じない者が罰せられる場所であるとされる。一方、ハデースは死から[[最後の審判]]、[[復活 (キリスト教)|復活]]までの期間だけ死者を受け入れる中立的な場所であるとする。この見解によれば、ハデースは時間的に限定されたものであり、この世の終わりにおける人々の[[復活 (キリスト教)|復活]]の際にはハデースは終焉する。他方、別の捉え方もあり、ハデースは不信仰な者の魂だけが行く場所であり、正しい者の魂は「永遠の住まい」にあって[[キリスト]]と一つにされるとする<ref name="seishodai" />。 |
厳然とした区別があるとする見解の一例に拠れば、ゲヘンナは[[最後の審判]]の後に神を信じない者が罰せられる場所であるとされる。一方、ハデースは死から[[最後の審判]]、[[復活 (キリスト教)|復活]]までの期間だけ死者を受け入れる中立的な場所であるとする。この見解によれば、ハデースは時間的に限定されたものであり、この世の終わりにおける人々の[[復活 (キリスト教)|復活]]の際にはハデースは終焉する。他方、別の捉え方もあり、ハデースは不信仰な者の魂だけが行く場所であり、正しい者の魂は「永遠の住まい」にあって[[キリスト]]と一つにされるとする<ref name="seishodai" />。 |
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ギリシャ語から他言語に翻訳するにあたりこの二つの語彙をどのように処理するかについて、二つの語彙を当てて訳し分けるか、それとも同じ語彙を当てるか、いずれかの方策が各種各言語翻訳によって採られる事となっている。 |
ギリシャ語から他言語に翻訳するにあたりこの二つの語彙をどのように処理するかについて、二つの語彙を当てて訳し分けるか、それとも同じ語彙を当てるか、いずれかの方策が各種各言語翻訳によって採られる事となっている。 |
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[[カトリック教会]]で広く使われた[[ヴルガータ]]版[[ラテン語]]聖書では、{{lang|el|Γέεννα}}に{{lang|la|gĕhenna}}を、{{lang|el|ᾍδης}}に{{lang|la|Infernum}}を当てている<ref>[http://la.wikisource.org/wiki/Biblia_Sacra_Vulgata_(Stuttgartensia)/Matthaeus Biblia Sacra Vulgata (Stuttgartensia)/Matthaeus]</ref>。[[スラヴ]]系の[[正教会]]で広く使われる[[教会スラヴ語]]訳聖書では、{{lang|el|Γέεννα}}に{{lang| |
[[カトリック教会]]で広く使われた[[ヴルガータ]]版[[ラテン語]]聖書では、{{lang|el|Γέεννα}} に {{lang|la|gĕhenna}} を、{{lang|el|ᾍδης}} に {{lang|la|Infernum}} を当てている<ref>[http://la.wikisource.org/wiki/Biblia_Sacra_Vulgata_(Stuttgartensia)/Matthaeus Biblia Sacra Vulgata (Stuttgartensia)/Matthaeus]</ref>。[[スラヴ]]系の[[正教会]]で広く使われる[[教会スラヴ語]]訳聖書では、{{lang|el|Γέεννα}} に {{lang|cu|Геенна}} を、{{lang|el|ᾍδης}} に {{lang|cu|Адъ}} を当てている<ref>[http://www.lib.ru/HRISTIAN/BIBLIYA/new/mat.pdf {{lang|slv|Евангелие от Матфея}}] (PDF)</ref><ref>[http://www.slavdict.narod.ru/_0867.htm {{lang|cu|Полный церковнославянский словарь}}]</ref>。
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しかしながら[[英語]]訳である[[欽定訳聖書]]ではこのような訳し分けがなされず、いずれも"hell"と訳されている。英語の |
しかしながら、[[英語]]訳である[[欽定訳聖書]]ではこのような訳し分けがなされず、いずれも "{{lang|en|hell}}" と訳されている。英語の "{{lang|en|hell}}" の語はかつてギリシャ語のハデス、ヘブライ語のシェオルに対応していたが、17世紀以降にゲヘナをあらわす意味に変化した<ref>[[J.I.パッカー]]﹃私たちの信仰告白 使徒信条﹄[[いのちのことば社]]p.69</ref>。
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=== 日本語訳聖書における訳し分け === |
=== 日本語訳聖書における訳し分け === |
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| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[日本正教会訳聖書]]'''</small> |
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| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[ラゲ訳聖書]]'''</small> |
| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[我主イエズスキリストの新約聖書|ラゲ訳聖書]]'''</small> |
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| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[大正改訳聖書]]'''</small> |
| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[大正改訳聖書]]'''</small> |
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| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[口語訳聖書]]'''</small> |
| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[聖書 口語訳|口語訳聖書]]'''</small> |
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| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[新改訳聖書]]'''</small> |
| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[新改訳聖書]]'''</small> |
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| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[新共同訳聖書]]'''</small> |
| style="width:14%; text-align:center; background-color:#ddf" | <small>'''[[新共同訳聖書]]'''</small> |
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== 聖書箇所 == |
== 聖書箇所 == |
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旧約聖書においても新約聖書においても、地獄について記された箇所がある。 |
[[旧約聖書]]においても[[新約聖書]]においても、地獄について記された箇所がある。 |
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新約聖書において地獄に言及される箇所として以下が挙げられる。[[口語訳聖書]]からの引用文は斜体としてある。 |
新約聖書において地獄に言及される箇所として以下が挙げられる。[[聖書 口語訳|口語訳聖書]]からの引用文は斜体としてある。 |
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*ゲヘンナ(地獄、ゲエンナ) |
*ゲヘンナ(地獄、ゲエンナ) |
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**[[マタイによる福音書]] 5:22﹁''兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。''﹂
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**[[マタイによる福音書]] 5:22﹁''兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。''﹂
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**[[使徒行伝]] 2:27 |
**[[使徒行伝]] 2:27 |
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**[[使徒行伝]] 2:31「''キリストの[[復活 (キリスト教)|復活]]をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。''」 |
**[[使徒行伝]] 2:31「''キリストの[[復活 (キリスト教)|復活]]をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。''」 |
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**[[ヨハネの黙示録]] 1:18、6:8 |
**[[ヨハネの黙示録]] 1:18、6:8 |
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**[[ヨハネの黙示録]] [[s:ヨハネの黙示録(口語訳)#20:13|20:13]]﹁''海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。 ''﹂
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**[[ヨハネの黙示録]] 20:14「''それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 ''」 |
**[[ヨハネの黙示録]] 20:14「''それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 ''」 |
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[[アタナシオス信条]]で永遠の地獄を告白している。 |
[[アタナシオス信条]]で永遠の地獄を告白している。 |
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=== カトリック教会 === |
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[[Image:Hortus Deliciarum - Hell.jpg|thumb|200px|[[:en:Herrad of Landsberg|Herrad von Landsberg]]による[[装飾写本]]形式の百科事典『[[:en:Hortus Deliciarum|Hortus Deliciarum]]』([[1180年]]頃)に掲載されている地獄の絵]] |
[[Image:Hortus Deliciarum - Hell.jpg|thumb|200px|[[:en:Herrad of Landsberg|Herrad von Landsberg]]による[[装飾写本]]形式の百科事典『[[:en:Hortus Deliciarum|Hortus Deliciarum]]』([[1180年]]頃)に掲載されている地獄の絵]] |
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==== 概要 ==== |
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[[カトリック教会]]は、[[ |
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[[里脇浅次郎]][[枢機卿]]は、[[オリゲネス]]以来、地獄の永遠性を否定する思想を唱える者がいたが、正統の立場からは退けられたとしている<ref> 『カトリックの終末論』聖母文庫 </ref>。具体的に、トマス・アクィナスの護教大全144を引用して「刑罰は罪に、褒賞は善行に釣り合うものでなければならない。ところで、徳に対する褒賞は永遠の至福である。それで、至福から除外される罪も永遠でなければならない」とする正義の原理と、現世で国家に反抗すれば国民の権利を剥奪されると同じように、福者達の社会でも神に背いている状態の者は権利を剥奪される、ところで、神の国は永遠で「福者達と至福を目指す人達の社会は、究極目的と愛とによって成り立っているから、これに反対する者は、たとえ罪を犯す時間は短かったにしても、永遠に罰せられる」とする公正の原理から、地獄の苦罰は永遠であると説明している。<ref>里脇浅次郎『カトリックの終末論』聖母文庫、pp.79-80 </ref>また、地上にいるうちに回心をしなければもはや許される機会はなく、死と共に自我は魂に固定されてしまう、としてこうした説明を補っている。<ref>里脇浅次郎『カトリックの終末論』聖母文庫、pp.84 </ref> |
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プロセスとしては、人はまず死後、[[私審判]]として生前の行いや悔い改めの有無などから、裁かれる。そして、天国に上る者(+煉獄で清めを受ける者)と地獄に落とされる者とに分かれるが、両者は共に世の終わりに[[公審判]]として、肉体を復活させられたうえで再び裁きを受ける。ただし、公審判は私審判の控訴場ではなく、私審判での判決が変わることはないとされる。つまり、私審判で天国に上った者は公審判でも肉体が復活したうえで天国に住み、私審判で地獄に堕ちた者は公審判でも肉体復活の後、肉体を持ったまま永久的に苛まれるのである。<ref>里脇浅次郎『カトリックの終末論』聖母文庫、pp.27-39、pp.101-227 </ref><ref>『聖ピオ十世公教要理詳解』121-131、240-246</ref> |
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カトリック文学では、[[カトリック教会|カトリック]]教徒である14世紀イタリアの詩人[[ダンテ・アリギエーリ]]は、その大著『[[神曲]]』の中で、九圏から成る地獄界を描き、地獄のイメージを決定づけた。[[シェークスピア]]の[[ハムレット]]は[[告解]]のない死や、自殺者は地獄に落ちると理解している。 |
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==== 永遠の苦罰 ==== |
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⚫ | 里脇浅次郎枢機卿は、地獄の苦しみの主なものは火であり、これは単に比喩ではなく地上の火と似ている、と説明する。地上の火が大きな破壊力を持つように、地獄の火も同様で、それ自体が巨大な苦痛を与え、かつ激しい窮乏をもたらす、としている |
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『[[公教要理]]』においては、私審判の後は霊魂が、公審判の後は霊魂と体の両方が恐ろしい印を身につけて永遠の苦しみを受ける、とされる。<ref>『聖ピオ十世公教要理詳解』246、251</ref> |
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[[カトリック教会]]では、﹁[[痛悔]]もせず、神の慈愛を受け入れもせず、[[大罪]]を犯したまま死ぬことは、わたしたち自身の自由意志による選択によって永遠に神から離れることを意味します。自ら神と至福者たちとの交わりから決定的に離れ去ったこの状態のことを﹃地獄﹄と表現する。﹂と﹃[[カトリック教会のカテキズム]]﹄に明記して<ref name="cateJP">﹃[[カトリック教会のカテキズム]]﹄1033 - 1035節 ︵日本語版310頁 - 311頁︶、[[カトリック中央協議会]] ISBN 9784877501013</ref>、永遠の地獄の存在と、神との決別の状態が永遠に続くことが地獄の苦しみの中心であると教える。また、﹃[[マタイによる福音書|マタイ福音書]]﹄25章41節に、[[イエス・キリスト]]が﹁永遠の火に入れ。﹂と言う場面が書かれていることを引用して、﹁永遠の火﹂という表現をしている<ref name="cateJP" /><ref>﹃カトリック教会のカテキズム 要約︵コンペンディウム︶﹄︵125頁︶、カトリック中央協議会 ISBN 9784877501532</ref>。
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[[アウグスティヌス]]は﹃神の国﹄において |
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トマス・アクィナスも『神学大全』の中で同種の主張をし、さらに地獄においてもこの世で積んだ善徳に応じてその苦しみは和らげられる、とし、さらに地獄の人数が増えれば増えるほど、その苦しみも増していく、と説明している。ただし、「亡びた人々は、生きている人を亡びに誘うことはできない。それは悪魔のすることである」と、現世に対する亡者の介入の可能性を否定している。また、「地獄の火はそこに堕ちた者を自由勝手にさせないことを以って、大きな苦しみを与える。この者達は望むところにも、望む方法を以っても自由に行うことができない」と地獄の苦しみの一つとして、その不自由さを挙げている。<ref>『神学大全』創文社</ref> |
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⚫ | [[里脇浅次郎]][[枢機卿]]([[1904年]] - [[1996年]])は、著書『カトリックの終末論』の中で、[[オリゲネス]]([[182年]]? - [[251年]])以来、地獄の永遠性を否定する思想を唱える者がいたが、正統の立場からは退けられたとしている。また、地獄の苦しみの主なものは火であり、これは単に比喩ではなく地上の火と似ている、と説明する。地上の火が大きな破壊力を持つように、地獄の火も同様で、それ自体が巨大な苦痛を与え、かつ激しい窮乏をもたらす、としている<ref> 『カトリックの終末論』([[里脇浅次郎]]:著) 聖母文庫 ISBN 9784882161073</ref>。 |
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また、ローマ教皇庁から公認された奇跡である[[ファチマの聖母]]出現では、1917年7月13日、子供達の前に聖母が人々が大勢死後行くという地獄を見せたとされており、その一人であった少女[[ルシア・ドス・サントス|ルチア]](その後修道女に志願)の手記によると「ルチアとフランシスコと[[ヤシンタ・マルト|ヤシンタ]]は、その光の中に炎の大海を見ました。その炎の大海の中で、悪魔達と呪われた人々の霊魂とが、真っ黒になって、酷い絶望と苦しみの叫びを上げて暴れ狂っていました」、「その霊魂達は透き通った燃え盛る炭火のように真っ黒か褐色でした」と、具体的に火で炙られる光景が描写されている。<ref>アロイジオ・デルコル神父『ファティマの聖母』[[世のひかり社]]、p.20</ref> |
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[[アウグスティヌス]]︵[[354年]] - [[430年]]︶は、﹃神の国﹄において同様のことを書いており、さらに死後の﹁肉体のない霊が不思議な方法であるにしても、実際に物資的な火であると言えないだろうか。なぜなら人間の霊は、勿論肉体とは違うが、今のところ肉体と結ばれているだけでなく、来世において肉体と解き放つことのできない方法で結ばれるからである﹂として、火の責め苦の現実性を強調し、また﹁﹃火と硫黄の池﹄とも言われるあのゲヘンナは、物資的な火であり、滅びた人の体を苦しめるだろう。人間も悪魔も苦しめるだろう。人間の場合は物資的な火があるものであり、悪魔の場合は存在物である。人間の体はその霊魂と共に、悪魔の霊は肉体なしに一緒に苦しみを受けるだろう﹂と[[公審判]]後の人と悪魔の受ける苦罰を描写していた<ref>アウグスティヌス﹃神の国﹄岩波文庫</ref>。
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==== 地獄に堕ちる者の割合 ==== |
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カトリックの前近代までの地獄観では、新約聖書の記述などから、しばしば極少数のみが救われて天国や煉獄に入り、死者の殆どは地獄に堕ちてしまう、とされてきた。<ref>St. Leonard of Port Maurice,The Little Number of Those Who Are Saved</ref>具体的に、18世紀のカトリックの[[聖人]]、ポルト・マウリチオの聖レオナルドは、他の聖人の啓示によると、ある例では死者33000人中、僅かに2人が天国に、3人が煉獄に行き、残り全員が地獄に堕ちることで滅ぼされた、とした。<ref>St. Leonard of Port Maurice,The Little Number of Those Who Are Saved</ref><ref>[http://gokyo.ganriki.net/translated/little_number.html ポルト・マウリチオの聖レオナルド「救われる人の数の少なさ」]</ref>また同じくある婦人を通じた啓示によると死者60000人のうち、僅かに3人だけが煉獄に行って救われ、残り全員が永遠の地獄に堕ちた、とした。<ref>St. Leonard of Port Maurice,The Little Number of Those Who Are Saved</ref><ref>[http://gokyo.ganriki.net/translated/little_number.html ポルト・マウリチオの聖レオナルド「救われる人の数の少なさ」]</ref>彼の他に、少なくとも19人の著名な[[ローマ教皇]]、カトリック聖人、教父が似たような教えを説いており、代表的なものを挙げると、聖[[トマス・アクィナス]]は、救われる者は少なく滅びる者は多いが、幾人かは天国に招かれ、それゆえ天主の憐れみが最高に現れる、<ref>「第1部第23問第7項 第3異論への回答」『神学大全』</ref>と主張し、教皇[[レオ1世]]は、あらゆる人のうち永遠の救いの道に至るものは少なく、それを見つけるのは殆ど難しい、と言った。<ref>Migne Latin Tomus 54. col. 302</ref>また、聖[[アウグスティヌス]]は「マニ教徒ファウストゥス論駁」の中で、教会に参加する者は多いが救われるのは僅かな者のみ、とし<ref>アウグスティヌス『マニ教徒ファウストゥス論駁 第一三巻』(Migne Latin Tomus 42. col. 291)</ref>、「ドナチストのクレスコニウス論駁」では、偽りのキリスト者は多いが本当のキリスト者は少ないので、僅かしか救われない、として<ref>アウグスティヌス『ドナチストのクレスコニウス論駁』(第三巻第六十六章)</ref>、最終的に「それゆえに、地獄に落とされる人に比べて救われる人はほとんどいない。」と結論している。他に、教皇[[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]<ref>Homelia VIIIa et XIVa</ref><ref>Homelia XIXa</ref>、聖[[アンブロシウス]]<ref>Migne PL tomus XXIV</ref>、聖[[ヒエロニムス]]<ref>EPISTOLA [(c) 2Kb] CXLVIII [(d) 1Kb] . AD CELANTIAM MATRONAM. De ratione pie vivendiI</ref>、聖ヒラリオ<ref>184 TRACTATUS PSALMI</ref>、聖ヨハネ・カッシアノ<ref>『修道生活についての教え』四巻第38章(JOANNIS CASSIANI ABBATIS MASSILIENSIS DE COENOBIORUM INSTITUTIS LIBRI DUODECIM LIBER QUARTUS. DE INSTITUTIS RENUNTIANTIUM. CAPUT XXXVIII. De renuntiantis praeparatione, adversum tentationes, et de paucis imitandis.)</ref>、聖[[アンセルムス]]<ref>「オドンとランゾンへの手紙」(Liber I. Epistolae II Migne. Pat. Lat. Tomus CLVIII col 1065)</ref><ref>Liber III. Epistolae XVIII, Migne. Pat. Lat. CI col 43</ref>、聖[[クレルヴォーのベルナルドゥス|ベルナルド]]<ref>TROISIÈME SERMON POUR LA VEILLE DE NOËL. Sur ces paroles : « Et vous verrez demain matin éclater la gloire du Seigneur, car vous saurez que le Seigneur va venir aujourd'hui même. (Exod. XVI, 7)</ref>、シエナの聖ベルナルディーノ<ref>「罪の鏡」</ref>、聖[[パリのディオニュシウス|ディオニジウス]]<ref>Opera selecta. Dion. Carthus.</ref>などが、よく似た内容の言及をし、聖アルフォンソ・デ・リグオリはこうした諸教父達の論考を総括して、「信者達の大部分も地獄に堕ちるであろう、とするのがより共通の神学者達の意見である」<ref>Theologia Moralis, Lib. IV. Tr. 2. Cap. 2. no 130. Communier opinio vult majorem partem, adhuc fidelium, damnari.</ref>とし、さらに「最も共通の意見は、信徒達でさえ、その大部分は永遠に滅びてしまう、である」<ref>Preparation a la mort. Consideration 17. 2e point. Traduction Dujardin. Edit. 1872 p. 181. l'opinion la plus commune prétend que la plus grande partie même des fidèles, se damnent.</ref>と結んでいる。 |
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カトリックの前近代までの地獄観では、新約聖書の記述などから、しばしば極少数のみが救われて天国や[[煉獄]]に入り、死者のほとんどは地獄に堕ちてしまう、と解釈されることがあり、歴史上、複数の教皇や[[聖人#キリスト教|聖人]]が言及してきた。しかし、このような解釈は、現代のカトリック教会ではごく一部の超保守派を除くとほとんど支持されておらず、『カトリック教会のカテキズム』には、地獄に落ちる具体的な人数や割合については書かれていない。[[教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]は、「地獄の問題は[[オリゲネス]]から始まって、常に思想家達を悩ませてきた」としながら、教会の長として教理上は地獄の存在を肯定せざるを得ないものの、「そこに誰が入っているかは誰一人として分からず、果たしてキリストを裏切った[[イスカリオテのユダ|ユダ]]がそこにいるかどうかさえわからない。」と述べたことがある<ref>Crossing the Threshold of Hope pp185-186</ref>。 |
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また、20世紀ローマ教皇庁に公認された奇跡[[ファチマの聖母]]出現(1917年)において、[[聖母マリア]]は、ヤシンタを通じて、次の戦争で死ぬ者の殆ど全てが地獄に堕ちる、と啓示している<ref>[http://fsspxjapan.fc2web.com/maria/fatima_2.html ファチマの秘密](シスター・ルチア 第三手記からの引用)聖ピオ十世会</ref>。 |
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誰が地獄に落ちるかについては、﹃カトリック教会のカテキズム﹄では﹁神は、誰一人地獄に予定してはいない。自分の意思で神から離れる態度を持ち続け、死ぬまで変えない人のみが地獄に落ちる。﹂﹁教会は﹃一人も滅びないで皆が悔い改める﹄︵[[ペトロの手紙二]] 3章9節より引用︶ことを望む神のあわれみを祈願する。﹂としている<ref>﹃カトリック教会のカテキズム﹄1037節 ︵日本語版312頁︶</ref>。ただし、その一方で﹁わたしたちは自由意志を以って神を愛することを選ばない限り、神に結ばれることはできません。しかし、神に対し、隣人に対し、あるいは自分に対して[[大罪]]を犯すならば、神を愛することはできません。﹂と警鐘を鳴らし、﹁兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠のいのちがとどまっていません。︵[[ヨハネの手紙一]] 3章15節より引用︶﹂﹁キリストが戒めておられるように、もし貧しい人や小さい人の大きな困窮を顧みないならば、私たちはキリストから離れることになります。彼らは主の兄弟だからです﹂としている<ref name="cateJP" />。また、その教えの意味を﹁人間が自分の永遠の行く末のことを考えながら自由を用いなければならないという責任遂行の呼びかけと、回心を促す招きでもあります。﹂と位置づけ、﹁狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広いが、いのちに通じる門は狭く、その道も細い。それを見出す者は少ない︵マタイ福音書 7章13 -14節︶。﹂と新約聖書のキリストの言葉を引用している<ref>﹃カトリック教会のカテキズム﹄1036節 ︵日本語版311頁 - 312頁︶</ref>。
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ただし、このような解釈は、現代のカトリック教会では一部の保守派の神学教授・聖職者<ref>[http://www.d-b.ne.jp/mikami/fc9212.htm 三上茂(南山大学教授)ファチマ・クルーセイダー]</ref>や[[聖ピオ十世会]]<ref>[http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/6844e63390d1901ee2625a32cc06b276 【死者の月】死と救われる人々の数についての黙想][[小野田圭志]](ピオ十世会司祭)</ref>など保守系団体を除くと、殆ど行われておらず、特に[[第二バチカン公会議]]以降、説教上の地獄に関する言及は減る傾向にある。教皇[[ヨハネ・パウロ二世]]は、地獄の問題は[[オリゲネス]]から始まって、ミカイル・ブルガコフやハンス・ウルス・フォン・バルタザールに至るまで、常に思想家達を悩ませてきた、としながら、教会の長として教理上は地獄の存在を肯定せざる得ないものの、そこに誰が入っているかは誰一人として分からず、果たしてキリストを裏切ったユダがそこにいるかどうかさえわからない、としている。<ref>Crossing the Threshold of Hope pp185-186</ref> |
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また、現代では逆に地獄の存在を疑問視する聖職者・神学者もあらわれたが、先述したとおり『カトリック教会のカテキズム』では地獄の存在とその永遠性を明確に示しており、これも否定するかたちになっている。 |
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また、現代のカトリック神学者[[カール・ラーナー]]は、神の無限の憐れみと永遠の苦罰を教理上、両立させるのは難しく、誰も地獄の存在の可能性を肯定する必要がない、とし、聖書に預言された地獄の出来事は現実には起こらないだろう、と確実に知っているわけではないが、期待を持って考えている、と述べている。<ref>Interview a La Croix, 13 avril 1983, p.9</ref> |
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カトリック文学では、カトリック信徒である14世紀イタリアの詩人[[ダンテ・アリギエーリ]]は、その大著『[[神曲]]』の中で、九圏から成る地獄界を描き、地獄のイメージを決定づけた。[[シェークスピア]]の[[ハムレット]]は[[告解]]のない死や、自殺者は地獄に落ちると理解している。ただし、現代のカトリック教会では、自殺は「自らのいのちを守り維持しようとする人間の自然の働きとは相反するもので、生ける神への愛とは正反対のもの<ref name="cate2">『カトリック教会のカテキズム』2282、2283節 (日本語版668頁)</ref>」と断罪しながらも地獄に落ちるかどうかは明言しておらず、現実には本人が病的状態など苦しい状態に追い込まれているときには明確な意思が欠けており、引責能力を欠いている場合が多いとして、「自殺した人々の永遠の救いについて、絶望してはなりません。神はご自分だけが知っている方法によって、救いに必要な悔い改めの機会を与えることができるからです。教会は、自殺した人のためにも祈ります<ref name="cate2"/>。」としている。 |
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{{See also|煉獄}} |
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=== プロテスタント === |
=== プロテスタント === |
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[[パウロ]]は、イエス・キリストが再臨したとき、神を信じない者、イエスの教えに従わない者が、かぎりなき永遠の刑罰を受けると記している。 |
[[パウロ]]は、イエス・キリストが再臨したとき、神を信じない者、イエスの教えに従わない者が、かぎりなき永遠の刑罰を受けると記している。 |
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*[[テサロニケの信徒への手紙二|第二テサロニケ]]1:7-1:9 ﹁''それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。''﹂︵[[口語訳聖書]]︶
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*[[テサロニケの信徒への手紙二|第二テサロニケ]]1:7-1:9 ﹁''それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。''﹂︵[[聖書 口語訳|口語訳聖書]]︶
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黙示録には以下の記述がある。 |
黙示録には以下の記述がある。 |
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[[正教会]]において、自分自身を省みない人々、悪人・罪人が行くところとして、地獄︵ゲエンナ・ぢごく︶があるとされる。それについて言及される聖書箇所として[[正教要理]]に挙げられているのは以下の通りである<ref name="OCcate102">﹃正教要理﹄102頁 - 103頁、[[日本ハリストス正教会]]教団 1980年</ref>。
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[[正教会]]において、自分自身を省みない人々、悪人・罪人が行くところとして、地獄︵ゲエンナ・ぢごく︶があるとされる。それについて言及される聖書箇所として[[正教要理]]に挙げられているのは以下の通りである<ref name="OCcate102">﹃正教要理﹄102頁 - 103頁、[[日本ハリストス正教会]]教団 1980年</ref>。
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*[[マタイによる福音書|マトフェイ]] 5:22、13:50、22:13、[[マルコによる福音書|マルコ]] 9:44、[[ルカによる福音書|ルカ]] 8:31、16:23、[[ペトロの手紙一|ペトル前書]] 3:19、[[フィリピの信徒への手紙|フィリップ書]] 2:10<ref name="OCcate102" /> |
*[[マタイによる福音書|マトフェイ]] 5:22、13:50、22:13、[[マルコによる福音書|マルコ]] 9:44、[[ルカによる福音書|ルカ]] 8:31、16:23、[[ペトロの手紙一|ペトル前書]] 3:19、[[フィリピの信徒への手紙|フィリップ書]] 2:10<ref name="OCcate102" /> |
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ただし、正教会において地獄とは、「自ら神を拒絶する状態」であり、神が人間を虐待する場所のようにはとらえない<ref>[http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/sekaikan05.html 世界観-天国:日本正教会 The Orthodox Church in Japan]</ref>。 |
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これら罪人のために、信者・残された家族はその人が赦され救われるように祈り、[[聖体礼儀]]に参加し、神の教えに従って善行を積み重ねるように教えられる。正教要理に示されている聖書箇所は以下の通りである<ref name="OCcate102" />。
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これら罪人のために、信者・残された家族はその人が赦され救われるように祈り、[[聖体礼儀]]に参加し、神の教えに従って善行を積み重ねるように教えられる。正教要理に示されている聖書箇所は以下の通りである<ref name="OCcate102" />。
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==== 地獄のイメージ ==== |
==== 地獄のイメージ ==== |
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[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]が『[[神曲]]』描いた地獄のイメージや、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]によって描かれた『[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]』のイメージは正教会では受け入れられていない<ref name="IA187" />。 |
[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]が『[[神曲]]』で描いた地獄のイメージや、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]によって描かれた『[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]』のイメージは正教会では受け入れられていない<ref name="IA187" />。 |
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[[府主教]][[イラリオン・アルフェエフ]]によれば、人が神から離れたことを実感する苦悩のシンボルとして「火」「寒冷」「渇き」「白熱の火炉」「焦熱の湖」などがあるが、西欧中世文学が創作した形象は物質的で粗野なものであり、永遠の苦悩の概念が歪められてしまったとされる。また[[掌院]][[ソフロニイ・サハロフ|ソフロニイ]]は、[[キリスト|ハリストス(キリスト)]]は愛であること、最後の審判においてさえ神は人を愛し続けると述べている。ミケランジェロのフレスコ画『最後の審判』に示された神の怒り・裁き・侮辱・決闘応諾等の[[スコラ学|スコラ]]的教えは、正教的理解と相容れる点が少ないとされる<ref name="IA187" />。 |
[[府主教]][[イラリオン・アルフェエフ]]によれば、人が神から離れたことを実感する苦悩のシンボルとして「火」「寒冷」「渇き」「白熱の火炉」「焦熱の湖」などがあるが、西欧中世文学が創作した形象は物質的で粗野なものであり、永遠の苦悩の概念が歪められてしまったとされる。また[[掌院]][[ソフロニイ・サハロフ|ソフロニイ]]は、[[キリスト|ハリストス(キリスト)]]は愛であること、最後の審判においてさえ神は人を愛し続けると述べている。ミケランジェロのフレスコ画『最後の審判』に示された神の怒り・裁き・侮辱・決闘応諾等の[[スコラ学|スコラ]]的教えは、正教的理解と相容れる点が少ないとされる<ref name="IA187" />。 |
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== 霊魂消滅説・絶滅説 == |
== 霊魂消滅説・絶滅説 == |
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{{main|霊魂消滅説}} |
{{main|霊魂消滅説}} |
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罪人が絶滅、消滅するとし、地獄、火の池での永遠の刑罰を否定する教理は霊魂消滅説(絶滅説)と呼ばれる。[[キリスト教弁証家]]の[[:en:Arnobius|アルノビウス]]が4世紀にこの説を説いたが、一般には受け入れられず、第5ラテラノ総会議([[1513年]])にて[[異端]]とされた。しかし19世紀になって、霊魂不滅を信じる一般的風潮にもかかわらず一部の神学者の間でこの説は受け入れられ、[[:en:Edward_White_(Free-Church_minister)|エドワード・ホワイト]]は著書にてこの説を強調した<ref>[[:en:Edward_White_(Free-Church_minister)|エドワード・ホワイト]] 『Life in Christ』1846年</ref><ref name="kyuuhan">『[[キリスト教大事典]] 改訂新版第9版』[[教文館]]1988年</ref>。 |
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[[天国]]とはどこかと言われる説明は[[イエス・キリスト|イエス]]によって説明されるが、地獄についての詳細な説明はないとする立場、 |
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霊魂消滅説をとる主な宗派は[[キリスト教系の新宗教]]諸派の[[セブンスデー・アドベンチスト教会]]、[[エホバの証人]]、[[キリスト・アデルフィアン派]](キリストの兄弟)である。 |
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[[セブンスデー・アドベンチスト教会|SDA︵セブンスデー・アドベンチスト︶教会]]の教理では、﹃[[天国]]とはどこかと言われる説明は[[イエス・キリスト|イエス]]によって説明されるが、地獄についての詳細な説明はない﹄とする立場、悪人が審判を受ける時までの間、消える事のない火を意味しているとし、永遠の地獄の存在を否定した。[[旧約聖書]]の[[創世記]]に出ている様に、[[ソドムとゴモラ]]の話の中に﹁天から降る硫黄の火にあぶられ、灰になった﹂とあるが、{{要出典範囲|date=2018年2月|[[新約聖書]]に出てくる﹁永遠の火に焼かれる﹂との永遠と言う言葉の解釈に教会の中で意見の差があった}}。
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== 万人救済説 == |
== 万人救済説 == |
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{{main|万人救済説|新普遍救済主義}} |
{{main|万人救済説|新普遍救済主義}} |
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地獄の存在を否定し、万人が天国に行くと主張するグループもある。[[宗教多元主義]]の[[ジョン・ヒック]]や[[ジョン・A・T・ロビンソン]]は万人救済説を唱えた<ref>『悪と神の愛』</ref><ref>「二十世紀後期における終末論」</ref>。 |
永遠の地獄の存在を否定し、万人が天国に行くと主張するグループもある。[[宗教多元主義]]の[[ジョン・ヒック]]や[[ジョン・A・T・ロビンソン]]は万人救済説を唱えた<ref>『悪と神の愛』</ref><ref>「二十世紀後期における終末論」</ref>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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*[[天国]] |
*[[天国]] |
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*[[ |
*[[毒麦のたとえ]] |
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*[[黄泉]] |
*[[黄泉]] |
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*[[ |
*[[シェオル]] |
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*[[大罪]] |
*[[大罪]] |
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*[[最後の審判]] |
*[[最後の審判]] |
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*[[ヨハネの黙示録]] |
*[[ヨハネの黙示録]] |
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*[[キリストの地獄への降下]] |
*[[キリストの地獄への降下]] |
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*[[地獄 (仏教)]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{SEP|heaven-hell|Heaven and Hell| |
{{SEP|heaven-hell|Heaven and Hell|天国と地獄}} |
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*[http://www.d-b.ne.jp/mikami/fc9212.htm 救われる人々の少なさ(The Fatima Crusader Issue 92, May 2009)]三上茂(南山大学教授) |
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{{Normdaten}} |
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{{DEFAULTSORT:しこく}} |
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[[Category:死後の世界|しこく きりすときよう]] |
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[[Category:キリスト教終末論]] |
[[Category:キリスト教終末論]] |
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[[Category:キリスト教の信仰と教義]] |
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[[en:Christian views on Hell]] |
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[[Category:キリスト教における死後]] |
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[[fi:Helvetti kristinuskossa]] |
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[[tr:Hıristiyanlıkta cehennem]] |
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[[zh:地獄 (基督教)]] |
2024年4月13日 (土) 06:40時点における最新版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cd/Hell_%28detail%29_by_Anonymous_16th_Century_1_of_2_%28582x800%29.jpg/220px-Hell_%28detail%29_by_Anonymous_16th_Century_1_of_2_%28582x800%29.jpg)
概念[編集]
キリスト教での地獄は一般的に、死後の刑罰の場所または状態[1]、霊魂が神の怒りに服する場所[2]とされる。 他方、地獄を霊魂の死後の状態に限定せず、愛する事が出来ない苦悩・神の光に浴する事が出来ない苦悩という霊魂の状態を指すとし、この世においても適用出来る概念として地獄を理解する見解が正教会にある。この見解はドストエフスキーの﹃カラマーゾフの兄弟﹄に登場するゾシマ長老の台詞にもみえる。地獄を死後の場所に限定せず、霊魂の状態として捉える理解は、楽園が霊魂の福楽であると捉える理解と対になっている[3]。語義・訳語[編集]
ギリシャ語における二つの語彙の概念差[編集]
ギリシャ語においては、英語で "hell" と訳される語彙として、γέεννα︵古典ギリシャ語再建音‥ゲヘンナ、現代ギリシャ語転写‥ゲエンナ︶と、ᾍδης︵古典ギリシャ語再建音‥ハデース、現代ギリシャ語転写‥アディス︶の二つの語彙があり、両語彙とも旧約聖書・新約聖書に使われている[4]。各言語における訳し分け[編集]
ギリシャ語から他言語に翻訳するにあたりこの二つの語彙をどのように処理するかについて、二つの語彙を当てて訳し分けるか、それとも同じ語彙を当てるか、いずれかの方策が各種各言語翻訳によって採られる事となっている。 カトリック教会で広く使われたヴルガータ版ラテン語聖書では、Γέεννα に gĕhenna を、ᾍδης に Infernum を当てている[6]。スラヴ系の正教会で広く使われる教会スラヴ語訳聖書では、Γέεννα に Геенна を、ᾍδης に Адъ を当てている[7][8]。 しかしながら、英語訳である欽定訳聖書ではこのような訳し分けがなされず、いずれも "hell" と訳されている。英語の "hell" の語はかつてギリシャ語のハデス、ヘブライ語のシェオルに対応していたが、17世紀以降にゲヘナをあらわす意味に変化した[9]。日本語訳聖書における訳し分け[編集]
日本語訳聖書においては、ギリシャ語における両語彙を訳し分けるものと訳し分けていないものとがあるが、近年のものは訳し分ける傾向にある。日本正教会訳聖書は漢字では訳し分けていないが、ルビを振ることで読みを変えて訳し分けを行っている。 以下の対照表における聖書の並びは、左から翻訳が古い順としてある。以下の対照表に挙げた箇所以外にも、多数の箇所に﹁地獄﹂﹁陰府﹂が出て来る。日本語訳聖書における訳し分け対照表 | |||||||
ギリシャ語 | 聖書箇所 | 日本正教会訳聖書 | ラゲ訳聖書 | 大正改訳聖書 | 口語訳聖書 | 新改訳聖書 | 新共同訳聖書 |
γέεννα | マタイ 5:22 |
地獄 (ルビ:「ゲエンナ」) |
地獄 | ゲヘナ | 地獄 | ゲヘナ | 地獄 |
マタイ 18:9 |
地獄 (ルビ:「ゲエンナ」) |
地獄 | ゲヘナ | 地獄 | ゲヘナ | 地獄 | |
マルコ 18:9 |
地獄 (ルビ:「ゲエンナ」) |
地獄 | ゲヘナ | 地獄 | ゲヘナ | 地獄 | |
ルカ 12:5 |
地獄 (ルビ:「ゲエンナ」) |
地獄 | ゲヘナ | 地獄 | ゲヘナ | 地獄 | |
ᾍδης | マタイ 11:23 |
地獄 (ルビ:「ぢごく」) |
地獄 | 黄泉 | 黄泉 | ハデス | 陰府 |
ルカ 16:23 |
地獄 (ルビ:「ぢごく」) |
地獄 | 黄泉 | 黄泉 | ハデス | 陰府 | |
使徒行伝 2:31 |
地獄 (ルビ:「ぢごく」) |
冥府 | 黄泉 | 黄泉 | ハデス | 陰府 | |
黙示録 1:18 |
地獄 (ルビ:「ぢごく」) |
地獄 | 陰府 | 黄泉 | ハデス | 陰府 | |
黙示録 20:13 |
地獄 (ルビ:「ぢごく」) |
冥府 | 陰府 | 黄泉 | ハデス | 陰府 |
聖書箇所[編集]
西方教会[編集]
アタナシオス信条で永遠の地獄を告白している。カトリック教会[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0f/Hortus_Deliciarum_-_Hell.jpg/200px-Hortus_Deliciarum_-_Hell.jpg)
プロテスタント[編集]
ルーテル教会[編集]
アウクスブルク信仰告白で永遠の地獄を確認している。第17条﹁審判のためキリストが再び来り給うことについて﹂で、﹁不敬虔な者や悪魔には限りない苦悩を宣告し給うであろう。﹂と告白する[18]。改革派教会[編集]
改革派信仰の長老派教会では、永遠の地獄を強く主張し、伝統的に永遠の地獄の存在を認めてきた。ハイデルベルク信仰問答、ドルト信仰基準、ウェストミンスター信仰告白でも、この立場が確認されている。 ウェストミンスター信仰告白32章﹁人間の死後の状態について、また死人の復活について﹂で死後どうなるか告白する。悪人の霊魂は死後、大いなる日のさばきまで、﹁苦悩と徹底的暗黒のうちにありつづける。﹂ また、正しくない者のからだは、イエス・キリストが再臨してから、﹁キリストの力によって恥辱によみがえらせられる。﹂33章﹁最後の審判について﹂で、神がこの日を定めた目的について告白する。﹁邪悪で不従順な捨てられた者の永遠の刑罰において神の正義の栄光が表されるためである。﹂﹁神を知らずイエス・キリストの福音に服さない悪人は、永遠の苦悩に投げ込まれ、主のみ前とみ力の栄光とからの永遠の破滅をもって罰せられるからである。﹂[19] 霊と肉体の結合の解体が死である[20]。不信者は死後にハデスで苦しみながら最後の裁きを待つ[21]。イエス・キリストが再臨したとき、不信者は神に裁かれるために復活し[22]、永遠の滅びを宣告される[23]。不信者はよみがえった体で、意識をもったまま、永遠に苦しむ[24]。 新生していない者が落ちる地獄について解説し、キリストを信じてこの神の怒りから、迫り来る滅びから、逃れるようにと説教した、ジョナサン・エドワーズの﹃怒れる神の御手の中にある罪人﹄が有名。 マーティン・ロイドジョンズは、山上の垂訓にあらわれる﹁にせ預言者﹂の特徴の一つに、永遠の刑罰の否定をあげている[25]。 プロテスタント正統主義の歴史的な信仰告白において、罪ゆえにすでに有罪宣告を受けている不信者は、よみで苦しみながらイエス・キリストの再臨を待っているが、恥辱に復活し、恥辱の体と魂が結び付けられ、キリストによる最後の裁きの後、彼ら不信者が永遠の地獄で苦しみを受けると告白している[26][27][28]。 根拠とされる聖書箇所は以下の通りである。 ●マタイ 5:22 ﹁また、﹃ばか者。﹄と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。﹂︵新改訳聖書︶ ●マルコ 9:48 ﹁地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。﹂︵新共同訳聖書︶ パウロは、イエス・キリストが再臨したとき、神を信じない者、イエスの教えに従わない者が、かぎりなき永遠の刑罰を受けると記している。 ●第二テサロニケ1:7-1:9 ﹁それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。﹂︵口語訳聖書︶ 黙示録には以下の記述がある。 ●黙示録 20:10 ﹁そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。﹂︵新改訳聖書︶ ●黙示録 20:15 ﹁いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。﹂︵新改訳聖書︶ ●黙示録 21:8 ﹁しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である﹄。﹂︵新改訳聖書︶ 他教派においても永遠の地獄は否定されてはいないが、プロテスタント正統主義とはニュアンスの差がある︵他教派の項目参照︶。東方教会[編集]
正教会[編集]
概要[編集]
正教会において、自分自身を省みない人々、悪人・罪人が行くところとして、地獄︵ゲエンナ・ぢごく︶があるとされる。それについて言及される聖書箇所として正教要理に挙げられているのは以下の通りである[29]。 ●マトフェイ 5:22、13:50、22:13、マルコ 9:44、ルカ 8:31、16:23、ペトル前書 3:19、フィリップ書 2:10[29]ただし、正教会において地獄とは、﹁自ら神を拒絶する状態﹂であり、神が人間を虐待する場所のようにはとらえない[30]。 これら罪人のために、信者・残された家族はその人が赦され救われるように祈り、聖体礼儀に参加し、神の教えに従って善行を積み重ねるように教えられる。正教要理に示されている聖書箇所は以下の通りである[29]。
地獄は永遠か・全てが救われるのか[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/29/Gregory_of_Nyssa.jpg/180px-Gregory_of_Nyssa.jpg)
地獄のイメージ[編集]
ダンテが﹃神曲﹄で描いた地獄のイメージや、ミケランジェロによって描かれた﹃最後の審判﹄のイメージは正教会では受け入れられていない[3]。 府主教イラリオン・アルフェエフによれば、人が神から離れたことを実感する苦悩のシンボルとして﹁火﹂﹁寒冷﹂﹁渇き﹂﹁白熱の火炉﹂﹁焦熱の湖﹂などがあるが、西欧中世文学が創作した形象は物質的で粗野なものであり、永遠の苦悩の概念が歪められてしまったとされる。また掌院ソフロニイは、ハリストス︵キリスト︶は愛であること、最後の審判においてさえ神は人を愛し続けると述べている。ミケランジェロのフレスコ画﹃最後の審判﹄に示された神の怒り・裁き・侮辱・決闘応諾等のスコラ的教えは、正教的理解と相容れる点が少ないとされる[3]。霊魂消滅説・絶滅説[編集]
万人救済説[編集]
永遠の地獄の存在を否定し、万人が天国に行くと主張するグループもある。宗教多元主義のジョン・ヒックやジョン・A・T・ロビンソンは万人救済説を唱えた[36][37]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- Heaven and Hell (英語) - スタンフォード哲学百科事典「天国と地獄」の項目。