「地獄 (キリスト教)」の版間の差分
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[[カトリック教会]]は、[[赦しの秘跡|痛悔]]もせず、神の慈愛を受け入れもせず、大罪を犯したまま死ぬ事は、自由意志による選択によって自ら神と至福者たちとの交わりから永遠に決定的に離れ去った状態であると理解し、これを地獄と表現する<ref name="cateJP">日本カトリック司教協議会『カトリック教会のカテキズム』310頁 - 312頁、カトリック中央協議会 (2002/07 出版) ISBN 9784877501013</ref>。 |
[[カトリック教会]]は、[[赦しの秘跡|痛悔]]もせず、神の慈愛を受け入れもせず、大罪を犯したまま死ぬ事は、自由意志による選択によって自ら神と至福者たちとの交わりから永遠に決定的に離れ去った状態であると理解し、これを地獄と表現する<ref name="cateJP">日本カトリック司教協議会『カトリック教会のカテキズム』310頁 - 312頁、カトリック中央協議会 (2002/07 出版) ISBN 9784877501013</ref>。カトリック教会は、地獄の存在と永遠性を教えている。神との決別の状態が永遠に続く事が地獄の苦しみの中心であると教える<ref name="cateJP" />。『カトリック要理』では、新約聖書中の「永遠の火」「不滅の業火」を引用して、神から永遠に離れての特殊の苦しみ、と表現している。<ref>カトリック中央協議会『カトリック要理』サンパウロ、p.116</ref> |
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[[里脇浅次郎]][[枢機卿]]は、[[オリゲネス]]以来、地獄の永遠性を否定する思想を唱える者がいたが、正統の立場からは退けられたとしている<ref> 『カトリックの終末論』聖母文庫 </ref>。具体的に、トマス・アクィナスの護教大全144を引用して「刑罰は罪に、褒賞は善行に釣り合うものでなければならない。ところで、徳に対する褒賞は永遠の至福である。それで、至福から除外される罪も永遠でなければならない」とする正義の原理と、現世で国家に反抗すれば国民の権利を剥奪されると同じように、福者達の社会でも神に背いている状態の者は権利を剥奪される、ところで、神の国は永遠で「福者達と至福を目指す人達の社会は、究極目的と愛とによって成り立っているから、これに反対する者は、たとえ罪を犯す時間は短かったにしても、永遠に罰せられる」とする公正の原理から、地獄の苦罰は永遠であると説明している。<ref>里脇浅次郎『カトリックの終末論』聖母文庫、pp.79-80 </ref> |
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カトリック教会は、地獄の存在と永遠性を教えている。神との決別の状態が永遠に続く事が地獄の苦しみの中心であると教える<ref name="cateJP" />。[[里脇浅次郎]][[枢機卿]]は、[[オリゲネス]]以来、地獄の永遠性を否定する思想を唱える者がいたが、正統の立場からは退けられたとしている<ref> 『カトリックの終末論』聖母文庫 </ref>。 |
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他方、神は誰一人地獄に予定してはいない。神から離れる態度を死ぬまで変えない人のみが地獄に落ちるとされる。カトリック教会は「一人も滅びないで皆が悔い改める」([[ペトロの手紙二]] 3:9)ことを望む神の憐みを祈願するとしている<ref name="cateJP" />。 |
他方、神は誰一人地獄に予定してはいない。神から離れる態度を死ぬまで変えない人のみが地獄に落ちるとされる。カトリック教会は「一人も滅びないで皆が悔い改める」([[ペトロの手紙二]] 3:9)ことを望む神の憐みを祈願するとしている<ref name="cateJP" />。 |
2012年4月27日 (金) 05:58時点における版
概念
キリスト教での地獄は一般的に、死後の刑罰の場所または状態[1]、霊魂が神の怒りに服する場所[2]とされる。 他方、地獄を霊魂の死後の状態に限定せず、愛する事が出来ない苦悩・神の光に浴する事が出来ない苦悩という霊魂の状態を指すとし、この世においても適用出来る概念として地獄を理解する見解が正教会にある。この見解はドストエフスキーの﹃カラマーゾフの兄弟﹄に登場するゾシマ長老の台詞にもみえる。地獄を死後の場所に限定せず、霊魂の状態として捉える理解は、楽園が霊魂の福楽であると捉える理解と対になっている[3]。語義・訳語
ギリシャ語における二つの語彙の概念差
ギリシャ語においては、英語で"hell"と訳される語彙として、γέεννα︵古典ギリシャ語再建音‥ゲヘンナ、現代ギリシャ語転写‥ゲエンナ︶と、ᾍδης︵古典ギリシャ語再建音‥ハデース、現代ギリシャ語転写‥アディス︶の二つの語彙があり、両語彙とも旧約聖書・新約聖書に使われている[4]。各言語における訳し分け
ギリシャ語から他言語に翻訳するにあたりこの二つの語彙をどのように処理するかについて、二つの語彙を当てて訳し分けるか、それとも同じ語彙を当てるか、いずれかの方策が各種各言語翻訳によって採られる事となっている。 カトリック教会で広く使われたヴルガータ版ラテン語聖書では、Γέενναにgĕhennaを、ᾍδηςにInfernumを当てている[6]。スラヴ系の正教会で広く使われる教会スラヴ語訳聖書では、ΓέενναにГееннаを、ᾍδηςにАдъを当てている[7][8]。 しかしながら英語訳である欽定訳聖書ではこのような訳し分けがなされず、いずれも"hell"と訳されている。英語のhellの語はかつてギリシャ語のハデス、ヘブライ語のシェオルに対応していたが、17世紀以降にゲヘナをあらわす意味に変化した[9]。日本語訳聖書における訳し分け
日本語訳聖書においては、ギリシャ語における両語彙を訳し分けるものと訳し分けていないものとがあるが、近年のものは訳し分ける傾向にある。日本正教会訳聖書は漢字では訳し分けていないが、ルビを振ることで読みを変えて訳し分けを行っている。 以下の対照表における聖書の並びは、左から翻訳が古い順としてある。以下の対照表に挙げた箇所以外にも、多数の箇所に﹁地獄﹂﹁陰府﹂が出て来る。日本語訳聖書における訳し分け対照表 | |||||||
ギリシャ語 | 聖書箇所 | 日本正教会訳聖書 | ラゲ訳聖書 | 大正改訳聖書 | 口語訳聖書 | 新改訳聖書 | 新共同訳聖書 |
γέεννα | マタイ 5:22 |
地獄 (ルビ:「ゲエンナ」) |
地獄 | ゲヘナ | 地獄 | ゲヘナ | 地獄 |
マタイ 18:9 |
地獄 (ルビ:「ゲエンナ」) |
地獄 | ゲヘナ | 地獄 | ゲヘナ | 地獄 | |
マルコ 18:9 |
地獄 (ルビ:「ゲエンナ」) |
地獄 | ゲヘナ | 地獄 | ゲヘナ | 地獄 | |
ルカ 12:5 |
地獄 (ルビ:「ゲエンナ」) |
地獄 | ゲヘナ | 地獄 | ゲヘナ | 地獄 | |
ᾍδης | マタイ 11:23 |
地獄 (ルビ:「ぢごく」) |
地獄 | 黄泉 | 黄泉 | ハデス | 陰府 |
ルカ 16:23 |
地獄 (ルビ:「ぢごく」) |
地獄 | 黄泉 | 黄泉 | ハデス | 陰府 | |
使徒行伝 2:31 |
地獄 (ルビ:「ぢごく」) |
冥府 | 黄泉 | 黄泉 | ハデス | 陰府 | |
黙示録 1:18 |
地獄 (ルビ:「ぢごく」) |
地獄 | 陰府 | 黄泉 | ハデス | 陰府 | |
黙示録 20:13 |
地獄 (ルビ:「ぢごく」) |
冥府 | 陰府 | 黄泉 | ハデス | 陰府 |
聖書箇所
西方教会
アタナシオス信条で永遠の地獄を告白している。ローマ・カトリック
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0f/Hortus_Deliciarum_-_Hell.jpg/200px-Hortus_Deliciarum_-_Hell.jpg)
概要
カトリック教会は、痛悔もせず、神の慈愛を受け入れもせず、大罪を犯したまま死ぬ事は、自由意志による選択によって自ら神と至福者たちとの交わりから永遠に決定的に離れ去った状態であると理解し、これを地獄と表現する[10]。カトリック教会は、地獄の存在と永遠性を教えている。神との決別の状態が永遠に続く事が地獄の苦しみの中心であると教える[10]。﹃カトリック要理﹄では、新約聖書中の﹁永遠の火﹂﹁不滅の業火﹂を引用して、神から永遠に離れての特殊の苦しみ、と表現している。[11] 里脇浅次郎枢機卿は、オリゲネス以来、地獄の永遠性を否定する思想を唱える者がいたが、正統の立場からは退けられたとしている[12]。具体的に、トマス・アクィナスの護教大全144を引用して﹁刑罰は罪に、褒賞は善行に釣り合うものでなければならない。ところで、徳に対する褒賞は永遠の至福である。それで、至福から除外される罪も永遠でなければならない﹂とする正義の原理と、現世で国家に反抗すれば国民の権利を剥奪されると同じように、福者達の社会でも神に背いている状態の者は権利を剥奪される、ところで、神の国は永遠で﹁福者達と至福を目指す人達の社会は、究極目的と愛とによって成り立っているから、これに反対する者は、たとえ罪を犯す時間は短かったにしても、永遠に罰せられる﹂とする公正の原理から、地獄の苦罰は永遠であると説明している。[13] 他方、神は誰一人地獄に予定してはいない。神から離れる態度を死ぬまで変えない人のみが地獄に落ちるとされる。カトリック教会は﹁一人も滅びないで皆が悔い改める﹂︵ペトロの手紙二 3:9︶ことを望む神の憐みを祈願するとしている[10]。 カトリック文学では、カトリック教徒である14世紀イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリは、その大著﹃神曲﹄の中で、九圏から成る地獄界を描き、地獄のイメージを決定づけた。シェークスピアのハムレットは告解のない死や、自殺者は地獄に落ちると理解している。地獄に堕ちる者の割合
カトリックの前近代までの地獄観では、新約聖書の記述などから、しばしば極少数のみが救われて天国や煉獄に入り、死者の殆どは地獄に堕ちてしまう、とされてきた。[14]具体的に、18世紀のカトリックの聖人、ポルト・マウリチオの聖レオナルドは、他の聖人の啓示によると、ある例では死者33000人中、僅かに2人が天国に、3人が煉獄に行き、残り全員が地獄に堕ちることで滅ぼされた、とした。[15][16]また同じくある婦人を通じた啓示によると死者60000人のうち、僅かに3人だけが煉獄に行って救われ、残り全員が永遠の地獄に堕ちた、とした。[17][18]彼の他に、少なくとも19人の著名なローマ教皇、カトリック聖人、教父が似たような教えを説いており、代表的なものを挙げると、聖トマス・アクィナスは、救われる者は少なく滅びる者は多いが、幾人かは天国に招かれ、それゆえ天主の望みが最高に現れる、[19]と主張し、教皇レオ1世は、あらゆる人のうち永遠の救いの道に至るものは少なく、それを見つけるのは殆ど難しい、と言った。[20]また、聖アウグスティヌスは﹁マニ教徒ファウストゥス論駁﹂の中で、教会に参加する者は多いが救われるのは僅かな者のみ、とし[21]、﹁ドナチストのクレスコニウス論駁﹂では、偽りのキリスト者は多いが本当のキリスト者は少ないので、僅かしか救われない、として[22]、最終的に﹁それゆえに、地獄に落とされる人に比べて救われる人はほとんどいない。﹂と結論している。他に、教皇グレゴリウス1世[23][24]、聖アンブロジオ[25]、聖イェロニモ[26]、聖ヒラリオ[27]、聖ヨハネ・カッシアノ[28]、聖アンセルモ[29][30]、聖ベルナルド[31]、シエナの聖ベルナルディーノ[32]、聖ディオニジウス[33]などが、よく似た内容の言及をし、聖アルフォンソ・デ・リグオリはこうした諸教父達の論考を総括して、﹁信者達の大部分も地獄に堕ちるであろう、とするのがより共通の神学者達の意見である﹂[34]とし、さらに﹁最も共通の意見は、信徒達でさえ、その大部分は永遠に滅びてしまう、である﹂[35]と結んでいる。 また、20世紀ローマ教皇庁に公認された奇跡ファチマの聖母出現︵1917年︶において、聖母マリアは、ヤンシタを通じて、次の戦争で死ぬ者の殆ど全てが地獄に堕ちる、と啓示している[36]。 ただし、このような解釈は、現代のカトリック教会では一部の保守派の神学教授・聖職者[37]や聖ピオ十世会[38]など保守系団体を除くと、殆ど行われておらず、特に第二バチカン公会議以降、説教上の地獄に関する言及は減る傾向にある。教皇ヨハネ・パウロ二世は、地獄の問題はオリゲネスから始まって、ミカイル・ブルガコフやハンス・ウルス・フォン・バルタザールに至るまで、常に思想家達を悩ませてきた、としながら、教会の長として教理上は地獄の存在を肯定せざる得ないものの、そこに誰が入っているかは誰一人として分からず、果たしてキリストを裏切ったユダがそこにいるかどうかさえわからない、としている。[39] また、現代のカトリック神学者カール・ラーナーは、神の無限の憐れみと永遠の苦罰を教理上、両立させるのは難しく、誰も地獄の存在の可能性を肯定する必要がない、とし、聖書に預言された地獄の出来事は現実には起こらないだろう、と確実に知っているわけではないが、期待を持って考えている、と述べている。[40]プロテスタント
ルーテル教会
改革派教会
改革派信仰の長老派教会では、永遠の地獄を強く主張し、伝統的に永遠の地獄の存在を認めてきた。ハイデルベルク信仰問答、ドルト信仰基準、ウェストミンスター信仰告白でも、この立場が確認されている。 ウェストミンスター信仰告白32章﹁人間の死後の状態について、また死人の復活について﹂で死後どうなるか告白する。悪人の霊魂は死後、大いなる日のさばきまで、﹁苦悩と徹底的暗黒のうちにありつづける。﹂ また、正しくない者のからだは、イエス・キリストが再臨してから、﹁キリストの力によって恥辱によみがえらせられる。﹂33章﹁最後の審判について﹂で、神がこの日を定めた目的について告白する。﹁邪悪で不従順な捨てられた者の永遠の刑罰において神の正義の栄光が表されるためである。﹂﹁神を知らずイエス・キリストの福音に服さない悪人は、永遠の苦悩に投げ込まれ、主のみ前とみ力の栄光とからの永遠の破滅をもって罰せられるからである。﹂[42] 霊と肉体の結合の解体が死である[43]。不信者は死後にハデスで苦しみながら最後の裁きを待つ[44]。イエス・キリストが再臨したとき、不信者は神に裁かれるために復活し[45]、永遠の滅びを宣告される[46]。不信者はよみがえった体で、意識をもったまま、永遠に苦しむ[47]。 新生していない者が落ちる地獄について解説し、キリストを信じてこの神の怒りから、迫り来る滅びから、逃れるようにと説教した、ジョナサン・エドワーズの﹃怒れる神の御手の中にある罪人﹄が有名。 マーティン・ロイドジョンズは、山上の垂訓にあらわれる﹁にせ預言者﹂の特徴の一つに、永遠の刑罰の否定をあげている[48]。 プロテスタント正統主義の歴史的な信仰告白において、罪ゆえにすでに有罪宣告を受けている不信者は、よみで苦しみながらイエス・キリストの再臨を待っているが、恥辱に復活し、恥辱の体と魂が結び付けられ、キリストによる最後の裁きの後、彼ら不信者が永遠の地獄で苦しみを受けると告白している[49][50][51]。 根拠とされる聖書箇所は以下の通りである。 ●マタイ 5:22 ﹁また、﹃ばか者。﹄と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。﹂︵新改訳聖書︶ ●マルコ 9:48 ﹁地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。﹂︵新共同訳聖書︶ パウロは、イエス・キリストが再臨したとき、神を信じない者、イエスの教えに従わない者が、かぎりなき永遠の刑罰を受けると記している。 ●第二テサロニケ1:7-1:9 ﹁それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。﹂︵口語訳聖書︶ 黙示録には以下の記述がある。 ●黙示録 20:10 ﹁そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。﹂︵新改訳聖書︶ ●黙示録 20:15 ﹁いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。﹂︵新改訳聖書︶ ●黙示録 21:8 ﹁しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である﹄。﹂︵新改訳聖書︶ 他教派においても永遠の地獄は否定されてはいないが、プロテスタント正統主義とはニュアンスの差がある︵他教派の項目参照︶。東方教会
正教会
概要
正教会において、自分自身を省みない人々、悪人・罪人が行くところとして、地獄︵ゲエンナ・ぢごく︶があるとされる。それについて言及される聖書箇所として正教要理に挙げられているのは以下の通りである[52]。 ●マトフェイ 5:22、13:50、22:13、マルコ 9:44、ルカ 8:31、16:23、ペトル前書 3:19、フィリップ書 2:10[52] これら罪人のために、信者・残された家族はその人が赦され救われるように祈り、聖体礼儀に参加し、神の教えに従って善行を積み重ねるように教えられる。正教要理に示されている聖書箇所は以下の通りである[52]。地獄は永遠か・全てが救われるのか
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/29/Gregory_of_Nyssa.jpg/180px-Gregory_of_Nyssa.jpg)
地獄のイメージ
ダンテが﹃神曲﹄描いた地獄のイメージや、ミケランジェロによって描かれた﹃最後の審判﹄のイメージは正教会では受け入れられていない[3]。 府主教イラリオン・アルフェエフによれば、人が神から離れたことを実感する苦悩のシンボルとして﹁火﹂﹁寒冷﹂﹁渇き﹂﹁白熱の火炉﹂﹁焦熱の湖﹂などがあるが、西欧中世文学が創作した形象は物質的で粗野なものであり、永遠の苦悩の概念が歪められてしまったとされる。また掌院ソフロニイは、ハリストス︵キリスト︶は愛であること、最後の審判においてさえ神は人を愛し続けると述べている。ミケランジェロのフレスコ画﹃最後の審判﹄に示された神の怒り・裁き・侮辱・決闘応諾等のスコラ的教えは、正教的理解と相容れる点が少ないとされる[3]。霊魂消滅説・絶滅説
万人救済説
地獄の存在を否定し、万人が天国に行くと主張するグループもある。宗教多元主義のジョン・ヒックやジョン・A・T・ロビンソンは万人救済説を唱えた[56][57]。
脚注
関連項目
外部リンク
- Heaven and Hell - スタンフォード哲学百科事典「スタンフォード哲学百科事典にある「天国と地獄」についての項目。」の項目。
- 救われる人々の少なさ(The Fatima Crusader Issue 92, May 2009)三上茂(南山大学教授)