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2012年9月20日 (木) 09:37時点における版
本記事ではキリスト教における地獄︵じごく、英語: hell︶を扱う。
旧約聖書や新約聖書まで、地獄に関する内容が数十箇所に現れる。ギリシャ語聖書の記事中に、地獄と訳される事がある語彙は、ゲヘンナ︵γεεννα、現代ギリシャ語ではゲエンナ︶とハデース︵ᾍδης、現代ギリシャ語ではアディス︶の2種類がある。欽定訳聖書︵英語︶においては"hell"がいずれに対しても訳語として用いられていて訳し分けられていない。日本語訳聖書においてはこの2種類はギリシャ語原文に従って訳し分けられる傾向がある。
この2種類の語彙・概念をどの程度違うものとして捉えるかは、教派・考え方によって異なっている。本記事ではこの2種類の語彙いずれも扱う。なお教派ごとに地獄についての理解が異なるため、概念概要と語義について詳述したのち、教派ごとの理解に移る。
"地獄": ゲヘナの語源となった﹁ヒンノムの谷﹂︵2007年撮影 ︶
ゲヘンナは原語では﹁ヒンノムの谷﹂の意である。この谷ではアハズ王の時代にモロク神に捧げる火祭に際して幼児犠牲が行われたこと、ヨシヤ王の改革で谷が汚されたことがあり、町の汚物の捨て場とされた。このような経緯から、新約聖書ではゲヘンナは来世の刑罰の場所として考えられるようになった[7]。一方、ハデースはギリシャ語の﹁姿なく、おそろしい﹂の意から派生したもので、ヘブライ語のシェオルに当たる。古代の神話では死者の影が住む地下の王国とされた[5]。
以下に二つの語彙の概念差についての概要を述べるが、キリスト教内でも地獄に対する捉え方が教派・神学傾向などによって異なる。教派ごとの捉え方の詳細については後述する。
ゲヘンナとハデースの間には厳然とした区別があるとする見解と[6]、区別は見出すもののそれほど大きな違いとは捉えない見解[2]など、両概念について様々な捉え方がある。
厳然とした区別があるとする見解の一例に拠れば、ゲヘンナは最後の審判の後に神を信じない者が罰せられる場所であるとされる。一方、ハデースは死から最後の審判、復活までの期間だけ死者を受け入れる中立的な場所であるとする。この見解によれば、ハデースは時間的に限定されたものであり、この世の終わりにおける人々の復活の際にはハデースは終焉する。他方、別の捉え方もあり、ハデースは不信仰な者の魂だけが行く場所であり、正しい者の魂は﹁永遠の住まい﹂にあってキリストと一つにされるとする[6]。
上述した見解例ほどには大きな違いを見出さない見解からは、ゲエンナ︵ゲヘンナ︶、アド︵ハデース︶のいずれも、聖書中にある﹁外の幽暗﹂︵マタイ22:13︶、﹁火の炉﹂︵マタイ13:50︶といった名称の数々と同様に、罪から抜け出さずにこの世を去った霊魂にとって、罪に定められ神の怒りに服する場所である事を表示するものであるとされる[2]。
概念
キリスト教での地獄は一般的に、死後の刑罰の場所または状態[1]、霊魂が神の怒りに服する場所[2]とされる。苦しみの現実性については、神が見えないことによる渇望的な苦しみと、神の怒りや自分の良心の究明などが炎と化して霊魂や復活した体を苛むとする、神の不在と聖書の火と両方を苦しみの主体と捉える教派もあれば[3][4]、単に前者のみと考える人達もあり、見解は分かれる。 他方、地獄を霊魂の死後の状態に限定せず、愛する事が出来ない苦悩・神の光に浴する事が出来ない苦悩という霊魂の状態を指すとし、この世においても適用出来る概念として地獄を理解する見解が正教会にある。この見解はドストエフスキーの﹃カラマーゾフの兄弟﹄に登場するゾシマ長老の台詞にもみえる。地獄を死後の場所に限定せず、霊魂の状態として捉える理解は、楽園が霊魂の福楽であると捉える理解と対になっている[5]。語義・訳語
ギリシャ語における二つの語彙の概念差
ギリシャ語においては、英語で"hell"と訳される語彙として、γέεννα︵古典ギリシャ語再建音‥ゲヘンナ、現代ギリシャ語転写‥ゲエンナ︶と、ᾍδης︵古典ギリシャ語再建音‥ハデース、現代ギリシャ語転写‥アディス︶の二つの語彙があり、両語彙とも旧約聖書・新約聖書に使われている[6]。各言語における訳し分け
ギリシャ語から他言語に翻訳するにあたりこの二つの語彙をどのように処理するかについて、二つの語彙を当てて訳し分けるか、それとも同じ語彙を当てるか、いずれかの方策が各種各言語翻訳によって採られる事となっている。 カトリック教会で広く使われたヴルガータ版ラテン語聖書では、Γέενναにgĕhennaを、ᾍδηςにInfernumを当てている[8]。スラヴ系の正教会で広く使われる教会スラヴ語訳聖書では、ΓέενναにГееннаを、ᾍδηςにАдъを当てている[9][10]。 しかしながら英語訳である欽定訳聖書ではこのような訳し分けがなされず、いずれも"hell"と訳されている。英語のhellの語はかつてギリシャ語のハデス、ヘブライ語のシェオルに対応していたが、17世紀以降にゲヘナをあらわす意味に変化した[11]。日本語訳聖書における訳し分け
日本語訳聖書においては、ギリシャ語における両語彙を訳し分けるものと訳し分けていないものとがあるが、近年のものは訳し分ける傾向にある。日本正教会訳聖書は漢字では訳し分けていないが、ルビを振ることで読みを変えて訳し分けを行っている。 以下の対照表における聖書の並びは、左から翻訳が古い順としてある。以下の対照表に挙げた箇所以外にも、多数の箇所に﹁地獄﹂﹁陰府﹂が出て来る。日本語訳聖書における訳し分け対照表 | |||||||
ギリシャ語 | 聖書箇所 | 日本正教会訳聖書 | ラゲ訳聖書 | 大正改訳聖書 | 口語訳聖書 | 新改訳聖書 | 新共同訳聖書 |
γέεννα | マタイ 5:22 |
地獄 (ルビ:「ゲエンナ」) |
地獄 | ゲヘナ | 地獄 | ゲヘナ | 地獄 |
マタイ 18:9 |
地獄 (ルビ:「ゲエンナ」) |
地獄 | ゲヘナ | 地獄 | ゲヘナ | 地獄 | |
マルコ 18:9 |
地獄 (ルビ:「ゲエンナ」) |
地獄 | ゲヘナ | 地獄 | ゲヘナ | 地獄 | |
ルカ 12:5 |
地獄 (ルビ:「ゲエンナ」) |
地獄 | ゲヘナ | 地獄 | ゲヘナ | 地獄 | |
ᾍδης | マタイ 11:23 |
地獄 (ルビ:「ぢごく」) |
地獄 | 黄泉 | 黄泉 | ハデス | 陰府 |
ルカ 16:23 |
地獄 (ルビ:「ぢごく」) |
地獄 | 黄泉 | 黄泉 | ハデス | 陰府 | |
使徒行伝 2:31 |
地獄 (ルビ:「ぢごく」) |
冥府 | 黄泉 | 黄泉 | ハデス | 陰府 | |
黙示録 1:18 |
地獄 (ルビ:「ぢごく」) |
地獄 | 陰府 | 黄泉 | ハデス | 陰府 | |
黙示録 20:13 |
地獄 (ルビ:「ぢごく」) |
冥府 | 陰府 | 黄泉 | ハデス | 陰府 |
聖書箇所
旧約聖書においても新約聖書においても、地獄について記された箇所がある。
新約聖書において地獄に言及される箇所として以下が挙げられる。口語訳聖書からの引用文は斜体としてある。
●ゲヘンナ︵地獄、ゲエンナ︶
●マタイによる福音書 5:22﹁兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。﹂
●マタイ 5:29、5:30 - 上記と合わせて山上の垂訓の一部
●マタイ 10:28、18:9、23:15、23:33
●マルコによる福音書 9:43 - 9:48
●ルカによる福音書 12:5﹁恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。﹂
●ヤコブの手紙 3:6﹁舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。 ﹂
●ハデース︵黄泉、陰府、地獄、アド︶
●マタイによる福音書 11:23﹁ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。﹂
●マタイ 16:18
●ルカによる福音書 10:15、16:23
●使徒行伝 2:27
●使徒行伝 2:31﹁キリストの復活をあらかじめ知って、﹃彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない﹄と語ったのである。﹂
●ヨハネの黙示録 1:18、6:8、20:13
●ヨハネの黙示録 20:14﹁それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 ﹂
Herrad von Landsbergによる装飾写本形式の百科 事典﹃Hortus Deliciarum﹄︵1180年頃︶に掲載されている地獄の絵
西方教会
アタナシオス信条で永遠の地獄を告白している。ローマ・カトリック
概要
カトリック教会は、痛悔もせず、神の慈愛を受け入れもせず、大罪を犯したまま死ぬ事は、自由意志による選択によって自ら神と至福者たちとの交わりから永遠に決定的に離れ去った状態であると理解し、これを地獄と表現する[12]。カトリック教会は、地獄の存在と永遠性を教えている。神との決別の状態が永遠に続く事が地獄の苦しみの中心であると教える[12]。﹃カトリック要理﹄では、新約聖書中の﹁永遠の火﹂﹁不滅の業火﹂を引用して、神から永遠に離れての特殊の苦しみ、と表現している。[13] 里脇浅次郎枢機卿は、オリゲネス以来、地獄の永遠性を否定する思想を唱える者がいたが、正統の立場からは退けられたとしている[14]。具体的に、トマス・アクィナスの護教大全144を引用して﹁刑罰は罪に、褒賞は善行に釣り合うものでなければならない。ところで、徳に対する褒賞は永遠の至福である。それで、至福から除外される罪も永遠でなければならない﹂とする正義の原理と、現世で国家に反抗すれば国民の権利を剥奪されると同じように、福者達の社会でも神に背いている状態の者は権利を剥奪される、ところで、神の国は永遠で﹁福者達と至福を目指す人達の社会は、究極目的と愛とによって成り立っているから、これに反対する者は、たとえ罪を犯す時間は短かったにしても、永遠に罰せられる﹂とする公正の原理から、地獄の苦罰は永遠であると説明している。[15]また、地上にいるうちに回心をしなければもはや許される機会はなく、死と共に自我は魂に固定されてしまう、としてこうした説明を補っている。[16] プロセスとしては、人はまず死後、私審判として生前の行いや悔い改めの有無などから、裁かれる。そして、天国に上る者︵+煉獄で清めを受ける者︶と地獄に落とされる者とに分かれるが、両者は共に世の終わりに公審判として、肉体を復活させられたうえで再び裁きを受ける。ただし、公審判は私審判の控訴場ではなく、私審判での判決が変わることはないとされる。つまり、私審判で天国に上った者は公審判でも肉体が復活したうえで天国に住み、私審判で地獄に堕ちた者は公審判でも肉体復活の後、肉体を持ったまま永久的に苛まれるのである。[17][18] 他方、﹃カトリック教会のカテキズム﹄では、神は誰一人地獄に予定してはいない。神から離れる態度を死ぬまで変えない人のみが地獄に落ち、カトリック教会は﹁一人も滅びないで皆が悔い改める﹂︵ペトロの手紙二 3:9︶ことを望む神の憐みを祈願する、とするものの、同時に﹁私たちは自由意志を以って神を愛することを選ばない限り、神に結ばれることはできません。しかし、神に対し、隣人に対し、あるいは自分に対して大罪を犯すならば、神を愛することはできません﹂と警鐘を鳴らし、その具体例として﹁キリストが戒めておられるように、もし貧しい人や小さい人の大きな困窮を顧みないならば、私たちはキリストから離れることになります。彼らは主の兄弟だからです﹂としている[12]。また、その教えの意味を﹁地獄に関する聖書の主張と教会の教えとは、人間が自分の永遠の行く末のことを考えながら自由を用いなければならないという責任遂行の呼びかけであると同時に、回心を促す招きでもあります﹂と位置づけ、狭い門から入れ、滅びに通じる道は広いが、命に通じる門は狭く、その道も細い、それを見出す者は少ない︵マタイ7・13-14︶、と新約聖書中のキリストの言葉を引用している[12]。 カトリック文学では、カトリック教徒である14世紀イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリは、その大著﹃神曲﹄の中で、九圏から成る地獄界を描き、地獄のイメージを決定づけた。シェークスピアのハムレットは告解のない死や、自殺者は地獄に落ちると理解している。永遠の苦罰
里脇浅次郎枢機卿は、地獄の苦しみの主なものは火であり、これは単に比喩ではなく地上の火と似ている、と説明する。地上の火が大きな破壊力を持つように、地獄の火も同様で、それ自体が巨大な苦痛を与え、かつ激しい窮乏をもたらす、としている。[19] ﹃公教要理﹄においては、私審判の後は霊魂が、公審判の後は霊魂と体の両方が恐ろしい印を身につけて永遠の苦しみを受ける、とされる。[20] アウグスティヌスは﹃神の国﹄において、同種のことを書き、さらに死後の﹁肉体のない霊が不思議な方法であるにしても、実際に物資的な火であると言えないだろうか。なぜなら人間の霊は、勿論肉体とは違うが、今のところ肉体と結ばれているだけでなく、来世において肉体と解き放つことのできない方法で結ばれるからである﹂として、火の責め苦の現実性を強調し、また﹁﹁火と硫黄の池﹂とも言われるあのゲヘンナは、物資的な火であり、滅びた人の体を苦しめるだろう。人間も悪魔も苦しめるだろう。人間の場合は物資的な火があるものであり、悪魔の場合は存在物である。人間の体はその霊魂と共に、悪魔の霊は肉体なしに一緒に苦しみを受けるだろう﹂と公審判後の人と悪魔の受ける苦罰を描写している。[21] トマス・アクィナスも﹃神学大全﹄の中で同種の主張をし、さらに地獄においてもこの世で積んだ善徳に応じてその苦しみは和らげられる、とし、さらに地獄の人数が増えれば増えるほど、その苦しみも増していく、と説明している。ただし、﹁亡びた人々は、生きている人を亡びに誘うことはできない。それは悪魔のすることである﹂と、現世に対する亡者の介入の可能性を否定している。また、﹁地獄の火はそこに堕ちた者を自由勝手にさせないことを以って、大きな苦しみを与える。この者達は望むところにも、望む方法を以っても自由に行うことができない﹂と地獄の苦しみの一つとして、その不自由さを挙げている。[22] また、ローマ教皇庁から公認された奇跡であるファチマの聖母出現では、1917年7月13日、子供達の前に聖母が人々が大勢死後行くという地獄を見せたとされており、その一人であった少女ルチア︵その後修道女に志願︶の手記によると﹁ルチアとフランシスコとヤシンタは、その光の中に炎の大海を見ました。その炎の大海の中で、悪魔達と呪われた人々の霊魂とが、真っ黒になって、酷い絶望と苦しみの叫びを上げて暴れ狂っていました﹂、﹁その霊魂達は透き通った燃え盛る炭火のように真っ黒か褐色でした﹂と、具体的に火で炙られる光景が描写されている。[23]地獄に堕ちる者の割合
カトリックの前近代までの地獄観では、新約聖書の記述などから、しばしば極少数のみが救われて天国や煉獄に入り、死者の殆どは地獄に堕ちてしまう、とされてきた。[24]具体的に、18世紀のカトリックの聖人、ポルト・マウリチオの聖レオナルドは、他の聖人の啓示によると、ある例では死者33000人中、僅かに2人が天国に、3人が煉獄に行き、残り全員が地獄に堕ちることで滅ぼされた、とした。[25][26]また同じくある婦人を通じた啓示によると死者60000人のうち、僅かに3人だけが煉獄に行って救われ、残り全員が永遠の地獄に堕ちた、とした。[27][28]彼の他に、少なくとも19人の著名なローマ教皇、カトリック聖人、教父が似たような教えを説いており、代表的なものを挙げると、聖トマス・アクィナスは、救われる者は少なく滅びる者は多いが、幾人かは天国に招かれ、それゆえ天主の憐れみが最高に現れる、[29]と主張し、教皇レオ1世は、あらゆる人のうち永遠の救いの道に至るものは少なく、それを見つけるのは殆ど難しい、と言った。[30]また、聖アウグスティヌスは﹁マニ教徒ファウストゥス論駁﹂の中で、教会に参加する者は多いが救われるのは僅かな者のみ、とし[31]、﹁ドナチストのクレスコニウス論駁﹂では、偽りのキリスト者は多いが本当のキリスト者は少ないので、僅かしか救われない、として[32]、最終的に﹁それゆえに、地獄に落とされる人に比べて救われる人はほとんどいない。﹂と結論している。他に、教皇グレゴリウス1世[33][34]、聖アンブロシウス[35]、聖ヒエロニムス[36]、聖ヒラリオ[37]、聖ヨハネ・カッシアノ[38]、聖アンセルムス[39][40]、聖ベルナルド[41]、シエナの聖ベルナルディーノ[42]、聖ディオニジウス[43]などが、よく似た内容の言及をし、聖アルフォンソ・デ・リグオリはこうした諸教父達の論考を総括して、﹁信者達の大部分も地獄に堕ちるであろう、とするのがより共通の神学者達の意見である﹂[44]とし、さらに﹁最も共通の意見は、信徒達でさえ、その大部分は永遠に滅びてしまう、である﹂[45]と結んでいる。 また、20世紀ローマ教皇庁に公認された奇跡ファチマの聖母出現︵1917年︶において、聖母マリアは、ヤシンタを通じて、次の戦争で死ぬ者の殆ど全てが地獄に堕ちる、と啓示している[46]。 ただし、このような解釈は、現代のカトリック教会では一部の保守派の神学教授・聖職者[47]や聖ピオ十世会[48]など保守系団体を除くと、殆ど行われておらず、特に第二バチカン公会議以降、説教上の地獄に関する言及は減る傾向にある。教皇ヨハネ・パウロ二世は、地獄の問題はオリゲネスから始まって、ミカイル・ブルガコフやハンス・ウルス・フォン・バルタザールに至るまで、常に思想家達を悩ませてきた、としながら、教会の長として教理上は地獄の存在を肯定せざる得ないものの、そこに誰が入っているかは誰一人として分からず、果たしてキリストを裏切ったユダがそこにいるかどうかさえわからない、としている。[49] また、現代のカトリック神学者カール・ラーナーは、神の無限の憐れみと永遠の苦罰を教理上、両立させるのは難しく、誰も地獄の存在の可能性を肯定する必要がない、とし、聖書に預言された地獄の出来事は現実には起こらないだろう、と確実に知っているわけではないが、期待を持って考えている、と述べている。[50]「煉獄」も参照
プロテスタント
ルーテル教会
アウクスブルク信仰告白で永遠の地獄を確認している。第17条﹁審判のためキリストが再び来り給うことについて﹂で、﹁不敬虔な者や悪魔には限りない苦悩を宣告し給うであろう。﹂と告白する[51]。
改革派教会
改革派信仰の長老派教会では、永遠の地獄を強く主張し、伝統的に永遠の地獄の存在を認めてきた。ハイデルベルク信仰問答、ドルト信仰基準、ウェストミンスター信仰告白でも、この立場が確認されている。 ウェストミンスター信仰告白32章﹁人間の死後の状態について、また死人の復活について﹂で死後どうなるか告白する。悪人の霊魂は死後、大いなる日のさばきまで、﹁苦悩と徹底的暗黒のうちにありつづける。﹂ また、正しくない者のからだは、イエス・キリストが再臨してから、﹁キリストの力によって恥辱によみがえらせられる。﹂33章﹁最後の審判について﹂で、神がこの日を定めた目的について告白する。﹁邪悪で不従順な捨てられた者の永遠の刑罰において神の正義の栄光が表されるためである。﹂﹁神を知らずイエス・キリストの福音に服さない悪人は、永遠の苦悩に投げ込まれ、主のみ前とみ力の栄光とからの永遠の破滅をもって罰せられるからである。﹂[52] 霊と肉体の結合の解体が死である[53]。不信者は死後にハデスで苦しみながら最後の裁きを待つ[54]。イエス・キリストが再臨したとき、不信者は神に裁かれるために復活し[55]、永遠の滅びを宣告される[56]。不信者はよみがえった体で、意識をもったまま、永遠に苦しむ[57]。 新生していない者が落ちる地獄について解説し、キリストを信じてこの神の怒りから、迫り来る滅びから、逃れるようにと説教した、ジョナサン・エドワーズの﹃怒れる神の御手の中にある罪人﹄が有名。 マーティン・ロイドジョンズは、山上の垂訓にあらわれる﹁にせ預言者﹂の特徴の一つに、永遠の刑罰の否定をあげている[58]。 プロテスタント正統主義の歴史的な信仰告白において、罪ゆえにすでに有罪宣告を受けている不信者は、よみで苦しみながらイエス・キリストの再臨を待っているが、恥辱に復活し、恥辱の体と魂が結び付けられ、キリストによる最後の裁きの後、彼ら不信者が永遠の地獄で苦しみを受けると告白している[59][60][61]。 根拠とされる聖書箇所は以下の通りである。 ●マタイ 5:22 ﹁また、﹃ばか者。﹄と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。﹂︵新改訳聖書︶ ●マルコ 9:48 ﹁地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。﹂︵新共同訳聖書︶ パウロは、イエス・キリストが再臨したとき、神を信じない者、イエスの教えに従わない者が、かぎりなき永遠の刑罰を受けると記している。 ●第二テサロニケ1:7-1:9 ﹁それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。﹂︵口語訳聖書︶ 黙示録には以下の記述がある。 ●黙示録 20:10 ﹁そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。﹂︵新改訳聖書︶ ●黙示録 20:15 ﹁いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。﹂︵新改訳聖書︶ ●黙示録 21:8 ﹁しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である﹄。﹂︵新改訳聖書︶ 他教派においても永遠の地獄は否定されてはいないが、プロテスタント正統主義とはニュアンスの差がある︵他教派の項目参照︶。東方教会
正教会
概要
正教会において、自分自身を省みない人々、悪人・罪人が行くところとして、地獄︵ゲエンナ・ぢごく︶があるとされる。それについて言及される聖書箇所として正教要理に挙げられているのは以下の通りである[62]。 ●マトフェイ 5:22、13:50、22:13、マルコ 9:44、ルカ 8:31、16:23、ペトル前書 3:19、フィリップ書 2:10[62] これら罪人のために、信者・残された家族はその人が赦され救われるように祈り、聖体礼儀に参加し、神の教えに従って善行を積み重ねるように教えられる。正教要理に示されている聖書箇所は以下の通りである[62]。「パニヒダ」も参照
また、地獄は他人のために用意されたものではなく、自分のために用意されたものである。従ってまず自分が正教徒として痛悔をし、福音の言葉に畏れを以て接し、地獄の永遠の勝利者としてのハリストス︵キリスト︶のもとにひれ伏し、正教徒としての生活を取り戻すように、また全ての人の復活のために祈るように教えられる[63]。
人を愛する神の姿が、人々を永遠の地獄︵後述︶に落として懲罰を与える姿とどのように両立するかという問題に対して、シリアのイサアクが回答を与えている。イサアクによれば、神に愛されない人も場所もない。人が悪を選ぶのであれば、その人は自ら神の憐みを失っている。至福の人・義人には神の愛は喜びとなり、ゲエンナ︵地獄︶に落ちる人々にとっては愛が災禍となって鞭に変わる。このように、神の愛があるかないかの差異が人それぞれにあるのではなく、愛される人々の状態によって神の愛の結果が変わるといったことをイサアクは指摘している。内面の状態の顕現という点で言えば、この世の終末における人々の復活も、存在するものの内面の状態の顕現として顕れるとされており、その事はエジプトのマカリオスや新神学者シメオンの言葉にも表現されている[64]。
ニッサのグリゴリイ︵グレゴリオス︶のイコン︵14世紀頃︶
地獄は永遠であるのかという問題については、ロシア正教会の渉外局長である府主教イラリオン・アルフェエフが、聖大土曜日のカノンの祈祷文と、ニッサのグリゴリイ︵グレゴリオス︶およびシリアのイサアクの言葉を根拠としつつ、ゲエンナの世界は終わりを迎え、地獄は駆逐されるが、その終末がいつであるかは人の知恵では知りえない機密のうちに隠されているとする。オリゲネス主義者が断罪されたのは、アポカタスタシス︵全面復活︶思想を合理的に証明し、地獄の苦しみが永遠ではない事を証明しようとしたことによるのであり、これは神慮に属することを思想的投機の対象としてはならないためであったとする。死者のために祈る事の必要性と、神に不可能な事はない事についても、イラリオンは正教要理と同様の聖書の箇所、およびロマ書 9:16とペトル後書 3:9を挙げつつ言及している。イラリオンによれば、正教教理はオリゲネス主義的なアポカタスタシスの理解を避けるが、聖体礼儀および機密体験による全ての人々の救いへの期待は否定しない[5]。
全てが救われるのかという問題については、英国在住の府主教カリストス・ウェアも言及している。カリストスはティモフェイ前書 2:1に示された﹁全ての人が救われるように﹂との神の望みが挫折するだろうと考えるべきか、それとも悪魔を含めた一切の知的被造物が救われると考えるべきかという問いを立て次のように述べている[65]。
カリストス・ウェアによれば、オリゲネスは万物救済論を主張して断罪されたが、他方、ニッサのグリゴリイは悪魔も救われるとの希望を抱いたものの、オリゲネスよりずっと慎重に語ったために断罪を免れた。このように、制限された形ではあるが、アポカタスシス︵万物の回復︶は正教の中で一定の位置付けを与えられている。神の被造物に対する究極的な計画は誰にも測り知れない神秘であり、多くを語り過ぎないようにしなければならない。しかし少なくとも以下の二つのことは言える[65]。
(一)神は我々に自由意志を与え、その賜物を決して取上げられない。どんな時でも我々は神に対して﹁否﹂ということを選びうる[65]。
(二)私たちが﹁否﹂と言ってもなお、神の我々への愛は尽きない[65]。
カリストス・ウェアは、これより先に進んではならないとしている[65]。
地獄は永遠か・全てが救われるのか
地獄のイメージ
ダンテが﹃神曲﹄描いた地獄のイメージや、ミケランジェロによって描かれた﹃最後の審判﹄のイメージは正教会では受け入れられていない[5]。 府主教イラリオン・アルフェエフによれば、人が神から離れたことを実感する苦悩のシンボルとして﹁火﹂﹁寒冷﹂﹁渇き﹂﹁白熱の火炉﹂﹁焦熱の湖﹂などがあるが、西欧中世文学が創作した形象は物質的で粗野なものであり、永遠の苦悩の概念が歪められてしまったとされる。また掌院ソフロニイは、ハリストス︵キリスト︶は愛であること、最後の審判においてさえ神は人を愛し続けると述べている。ミケランジェロのフレスコ画﹃最後の審判﹄に示された神の怒り・裁き・侮辱・決闘応諾等のスコラ的教えは、正教的理解と相容れる点が少ないとされる[5]。霊魂消滅説・絶滅説
詳細は「霊魂消滅説」を参照
天国とはどこかと言われる説明はイエスによって説明されるが、地獄についての詳細な説明はないとする立場、SDA︵セブンスデー・アドベンチスト︶教会の教理では悪人が審判を受ける時までの間、消える事のない火を意味しているとし、永遠の地獄の存在を否定した。旧約聖書の創世記に出ている様に、ソドムとゴモラの話の中に﹁天から降る硫黄の火にあぶられ、灰になった﹂とあるが、新約聖書に出てくる﹁永遠の火に焼かれる﹂との永遠と言う言葉の解釈に教会の中で意見の差があった。SDAの地獄否定説は他にも影響を与えた。比較的新しい宗派とされるエホバの証人などは永遠の地獄の存在を否定する。
万人救済説
地獄の存在を否定し、万人が天国に行くと主張するグループもある。宗教多元主義のジョン・ヒックやジョン・A・T・ロビンソンは万人救済説を唱えた[66][67]。
脚注
(一)^ ﹃キリスト教大事典 改訂新版﹄469頁、教文館、昭和52年 改訂新版第四版
(二)^ abcモスクワ府主教マカリイ1世著﹃正教定理神学﹄526頁 - 529頁
(三)^ 里脇浅次郎﹃カトリックの終末論﹄聖母文庫、pp.82-83
(四)^ ﹃聖ピオ十世公教要理詳解﹄250、251
(五)^ abcde府主教イラリオン・アルフェエフ著、ニコライ高松光一訳﹃信仰の機密﹄東京復活大聖堂教会︵ニコライ堂︶187頁 - 191頁 2004年
(六)^ abc﹃旧約新約聖書大事典﹄540頁、1261頁 - 1262頁 教文館 ISBN 9784764240063
(七)^ ﹃キリスト教大事典 改訂新版﹄383頁、教文館、昭和52年 改訂新版第四版
(八)^ Biblia Sacra Vulgata (Stuttgartensia)/Matthaeus
(九)^ Евангелие от Матфея (PDF)
(十)^ Полный церковнославянский словарь
(11)^ J.I.パッカー﹃私たちの信仰告白 使徒信条﹄いのちのことば社p.69
(12)^ abcd日本カトリック司教協議会﹃カトリック教会のカテキズム﹄310頁 - 312頁、カトリック中央協議会 ︵2002/07 出版︶ ISBN 9784877501013
(13)^ カトリック中央協議会﹃カトリック要理﹄サンパウロ、p.116
(14)^ ﹃カトリックの終末論﹄聖母文庫
(15)^ 里脇浅次郎﹃カトリックの終末論﹄聖母文庫、pp.79-80
(16)^ 里脇浅次郎﹃カトリックの終末論﹄聖母文庫、pp.84
(17)^ 里脇浅次郎﹃カトリックの終末論﹄聖母文庫、pp.27-39、pp.101-227
(18)^ ﹃聖ピオ十世公教要理詳解﹄121-131、240-246
(19)^ 里脇浅次郎﹃カトリックの終末論﹄聖母文庫、pp.82-83
(20)^ ﹃聖ピオ十世公教要理詳解﹄246、251
(21)^ アウグスティヌス﹃神の国﹄岩波文庫
(22)^ ﹃神学大全﹄創文社
(23)^ アロイジオ・デルコル神父﹃ファティマの聖母﹄世のひかり社、p.20
(24)^ St. Leonard of Port Maurice,The Little Number of Those Who Are Saved
(25)^ St. Leonard of Port Maurice,The Little Number of Those Who Are Saved
(26)^ ポルト・マウリチオの聖レオナルド﹁救われる人の数の少なさ﹂
(27)^ St. Leonard of Port Maurice,The Little Number of Those Who Are Saved
(28)^ ポルト・マウリチオの聖レオナルド﹁救われる人の数の少なさ﹂
(29)^ ﹁第1部第23問第7項 第3異論への回答﹂﹃神学大全﹄
(30)^ Migne Latin Tomus 54. col. 302
(31)^ アウグスティヌス﹃マニ教徒ファウストゥス論駁 第一三巻﹄︵Migne Latin Tomus 42. col. 291︶
(32)^ アウグスティヌス﹃ドナチストのクレスコニウス論駁﹄︵第三巻第六十六章︶
(33)^ Homelia VIIIa et XIVa
(34)^ Homelia XIXa
(35)^ Migne PL tomus XXIV
(36)^ EPISTOLA [(c) 2Kb] CXLVIII [(d) 1Kb] . AD CELANTIAM MATRONAM. De ratione pie vivendiI
(37)^ 184 TRACTATUS PSALMI
(38)^ ﹃修道生活についての教え﹄四巻第38章︵JOANNIS CASSIANI ABBATIS MASSILIENSIS DE COENOBIORUM INSTITUTIS LIBRI DUODECIM LIBER QUARTUS. DE INSTITUTIS RENUNTIANTIUM. CAPUT XXXVIII. De renuntiantis praeparatione, adversum tentationes, et de paucis imitandis.︶
(39)^ ﹁オドンとランゾンへの手紙﹂︵Liber I. Epistolae II Migne. Pat. Lat. Tomus CLVIII col 1065︶
(40)^ Liber III. Epistolae XVIII, Migne. Pat. Lat. CI col 43
(41)^ TROISIÈME SERMON POUR LA VEILLE DE NOËL. Sur ces paroles : « Et vous verrez demain matin éclater la gloire du Seigneur, car vous saurez que le Seigneur va venir aujourd'hui même. (Exod. XVI, 7)
(42)^ ﹁罪の鏡﹂
(43)^ Opera selecta. Dion. Carthus.
(44)^ Theologia Moralis, Lib. IV. Tr. 2. Cap. 2. no 130. Communier opinio vult majorem partem, adhuc fidelium, damnari.
(45)^ Preparation a la mort. Consideration 17. 2e point. Traduction Dujardin. Edit. 1872 p. 181. l'opinion la plus commune prétend que la plus grande partie même des fidèles, se damnent.
(46)^ ファチマの秘密︵シスター・ルチア 第三手記からの引用︶聖ピオ十世会
(47)^ 三上茂︵南山大学教授︶ファチマ・クルーセイダー
(48)^ ︻死者の月︼死と救われる人々の数についての黙想小野田圭志︵ピオ十世会司祭︶
(49)^ Crossing the Threshold of Hope pp185-186
(50)^ Interview a La Croix, 13 avril 1983, p.9
(51)^ アウグスブルグ信仰告白西日本福音ルーテル教会
(52)^ ウェストミンスター会議﹃ウェストミンスター信仰告白﹄日本キリスト改革派教会大会出版委員会編
(53)^ 創世記2:7、3:19、伝道者12:7
(54)^ ルカ16:23-24、第二ペテロ9-10
(55)^ 黙示録20:13、ヨハネ5:28-29、使徒4:15
(56)^ マタイ25:41,46、第二テサロニケ1:8-9、黙示録20:10,12-15、21:8
(57)^ 尾山令仁﹃聖書の教理﹄羊群社
(58)^ マーティン・ロイドジョンズ﹃山上の説教﹄下巻p.381 いのちのことば社
(59)^ ヘンリー・シーセン﹃組織神学﹄
(60)^ ﹃ウェストミンスター信仰告白講解﹄新教出版社
(61)^ ローレン・ベットナー﹃不死﹄新教出版社
(62)^ abcd﹃正教要理﹄102頁 - 103頁、日本ハリストス正教会教団 1980年
(63)^ オリヴィエ・クレマン著、冷牟田修二・白石治朗訳、﹃東方正教会﹄91頁︵クセジュ文庫︶白水社、1977年。ISBN 978-4-560-05607-3 (4-560-05607-2)
(64)^ ウラジーミル・ロースキイ 著、宮本久雄 訳﹃キリスト教東方の神秘思想﹄280頁 - 283頁 勁草書房︵1986年10月︶ISBN 9784326100668
(65)^ abcde府主教カリストス・ウェア著、司祭ダヴィド水口優明・司祭ゲオルギイ松島雄一訳﹃カリストス・ウェア主教論集1 私たちはどのように救われるのか﹄44頁 - 45頁、日本ハリストス正教会 西日本主教区
(66)^ ﹃悪と神の愛﹄
(67)^ ﹁二十世紀後期における終末論﹂
関連項目
外部リンク
- Heaven and Hell - スタンフォード哲学百科事典「スタンフォード哲学百科事典にある「天国と地獄」についての項目。」の項目。
- 救われる人々の少なさ(The Fatima Crusader Issue 92, May 2009)三上茂(南山大学教授)