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[[1925年]] [[広島県]][[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[矢賀村]]に生まれ、病魔を克服し[[1948年]] [[東北大学]][[工学部]]を卒業後、同大学大学院前期特別研究生(特待生)を経て、[[1950年]] [[助手]]、[[1957年]] [[助教授]]に就任する。[[1960年]] [[科学技術庁]][[金属材料技術研究所]]に[[半導体]]研究室を設置するにあたり、室長に招請される。この期に、[[化合物半導体]]へテ-マの領域を拡げ、研究室の充実を図ったが、所命により、政府長期在外研究員の資格をもって1960~[[1962年]] [[米国]][[パデュー大学]][[理学部]]に留学し、後半1年間は同学部の助手研究員も兼ねた。その間の[[1961年]]に、東北大学より[[工学博士]](旧制)を授与される。
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[[1925年]] [[広島県]][[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[矢賀村]]に生まれ、病魔を克服し[[1948年]] [[東北大学]][[工学部]]を卒業後、同大学大学院前期特別研究生(特待生)を経て、[[1950年]] [[助手]]、[[1957年]] [[助教授]]に就任する。[[1960年]] [[科学技術庁]][[金属材料技術研究所]]に[[半導体]]研究室を設置するにあたり、室長に招請される。この期に、[[化合物半導体]]へテ-マの領域を拡げ、研究室の充実を図ったが、所命により、政府長期在外研究員の資格をもって1960~[[1962年]] [[米国]][[パデュー大学]][[理学部]]に留学し、後半1年間は同学部の助手研究員も兼ねた。その間の[[1961年]]に、東北大学より[[工学博士]](旧制)を授与される。
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1966~1968年[[中華民国]] [[国立成功大学]][[教授]]に招聘される。[[1972年]] 科学技術庁金属材料技術研究所研究部長に昇任する。[[1980年]] 三元 |
1966~1968年[[中華民国]] [[国立成功大学]][[教授]]に招聘される。[[1972年]] 科学技術庁金属材料技術研究所研究部長に昇任する。[[1980年]] 三元および多元化合物国際会議(ICTMC)を創設し、国際諮問委員会委員長に就任する。現在までに、日本を含め世界各国にて計15回開催した。[[1985年]] 東北大学工学部教授に就任し、[[1988年]]退官する。
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1989~[[1995年]] [[石巻専修大学]][[理工学部]]教授に就任する傍ら、[[1993年]] 財団法人 [[電気磁気材料研究所]]︵電磁研︶の第6代理事長 兼 附置研究所長に就任、[[1996年]] 理事長に再任された。研究所組織の機構改革を行い、従来の[[バルク]][[磁性材料]]の研究分野に、[[化合物半導体]]、[[誘電体]]、および[[アモルファス]]の[[新素材]]分野を加え、その後さらに各[[薄膜]]材料の先端的研究を加えて事業拡大させた。そして、一層の研究の活性化、研究所の管理運営の適正化、および財政の健全化という3大目標達成に献身的な努力を払った結果、人材および研究設備の充実などと共に、疲弊しつつあった財務を完璧に再建したことで、21世紀における電磁研の発展の基盤を築き上げた。正に中興の祖とも称され、現在に至る。
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1989~[[1995年]] [[石巻専修大学]][[理工学部]]教授に就任する傍ら、[[1993年]] 財団法人 [[電気磁気材料研究所]]︵電磁研︶の第6代理事長 兼 附置研究所長に就任、[[1996年]] 理事長に再任された。研究所組織の機構改革を行い、従来の[[バルク]][[磁性材料]]の研究分野に、[[化合物半導体]]、[[誘電体]]、および[[アモルファス]]の[[新素材]]分野を加え、その後さらに各[[薄膜]]材料の先端的研究を加えて事業拡大させた。そして、一層の研究の活性化、研究所の管理運営の適正化、および財政の健全化という3大目標達成に献身的な努力を払った結果、人材および研究設備の充実などと共に、疲弊しつつあった財務を完璧に再建したことで、21世紀における電磁研の発展の基盤を築き上げた。正に中興の祖とも称され、現在に至る。
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2009年5月19日 (火) 08:37時点における版
増本 剛︵ますもと かたし、1925年 - ︶は、工学者(半導体を主とした機能性材料全般)。広島県安芸郡矢賀村︵現広島市東区矢賀町)出身。現 財団法人 電気磁気材料研究所理事長 兼 附置研究所長。