「墨」の版間の差分
Floe~jawiki (会話 | 投稿記録) →歴史: 朝鮮の墨について加筆 |
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[[ファイル:Sumie.jpg|thumb|240px|'''墨''' 写真左手奥から﹁墨﹂﹁筆﹂。中央には﹁硯﹂。硯の一部分は窪み、硯の表面で水とすられた墨は窪みの﹁海﹂へ溜まる]]
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[[ファイル:Sumie.jpg|thumb|240px|'''墨''' 写真左手奥から﹁墨﹂﹁筆﹂。中央には﹁硯﹂。硯の一部分は窪み、硯の表面で水とすられた墨は窪みの﹁海﹂へ溜まる]]
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'''墨'''︵すみ︶とは、[[書画]]材料のひとつで、煤や膠、香料などを練り固めたものである。またこれを[[硯]]で[[水]]とともに磨りおろして作った黒色の[[液体]]もそう呼ばれ、古来[[筆]]につけて用いられる。固形の墨は'''固形墨'''︵こけいぼく<ref>{{Cite web|title=硯|work=日本大百科全書(ニッポニカ)|publisher=小学館|url=https://kotobank.jp/word/硯-83894|accessdate=2020-6-13}}</ref>︶、液状の墨は'''[[#墨汁のなりたち|墨汁]]'''︵ぼくじゅう︶または'''墨液'''︵ぼくえき︶とも呼ばれる。
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'''墨'''︵すみ︶とは、[[書画]]材料のひとつで、煤や膠、香料などを練り固めたものである。またこれを[[硯]]で[[水]]とともに磨りおろして作った黒色の[[液体]]もそう呼ばれ、古来[[筆]]につけて用いられる。固形の墨は'''固形墨'''︵こけいぼく<ref>{{Cite web|title=硯|work=日本大百科全書(ニッポニカ)|publisher=小学館|url=https://kotobank.jp/word/硯-83894|accessdate=2020-6-13}}</ref>︶、液状の墨は'''[[#墨汁のなりたち|墨汁]]'''︵ぼくじゅう︶または'''墨液'''︵ぼくえき︶とも呼ばれる。ようです。ちんこ
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中国産のものは唐墨、日本産のものは和墨と呼ばれ、その製法や性質も多少異なる。古来、煤を焚く材料には[[アカマツ]]やその[[松脂]]、または[[菜種油]]や[[ごま油]]といった[[植物油]]が用いられ、その種類により﹁松煙墨﹂と﹁油煙墨﹂に区別される。現代では工業生産された材料が使われることもあり、[[化石燃料]]由来の煤・[[カーボンブラック]]を用いた墨は﹁洋煙墨﹂や﹁改良煤煙墨﹂、﹁工業煙墨﹂とも呼ばれる。液状で市販される墨汁は﹁液体墨﹂や﹁書道用液﹂とも呼ばれ、これには膠の代わりに[[ポリビニルアルコール]]といった[[合成樹脂]]を用いたものもある。
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中国産のものは唐墨、日本産のものは和墨と呼ばれ、その製法や性質も多少異なる。古来、煤を焚く材料には[[アカマツ]]やその[[松脂]]、または[[菜種油]]や[[ごま油]]といった[[植物油]]が用いられ、その種類により﹁松煙墨﹂と﹁油煙墨﹂に区別される。現代では工業生産された材料が使われることもあり、[[化石燃料]]由来の煤・[[カーボンブラック]]を用いた墨は﹁洋煙墨﹂や﹁改良煤煙墨﹂、﹁工業煙墨﹂とも呼ばれる。液状で市販される墨汁は﹁液体墨﹂や﹁書道用液﹂とも呼ばれ、これには膠の代わりに[[ポリビニルアルコール]]といった[[合成樹脂]]を用いたものもある。
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[[古代]][[中国]]の甲骨文に墨書や朱墨の跡が発見されており、[[殷]]の時代に発達した[[亀甲獣骨文字|甲骨文字]]とときを同じくして使用されたと考えられる<ref>{{Cite journal|和書|title=甲骨版上の毛筆書写文字|author=末次信行|journal=千里金蘭大学紀要|volume=16|pages=133-146|publisher=千里金蘭大学|date=2019|naid=120006821873}}</ref>。紀元前には木炭の粉や石墨([[グラファイト]]、黒鉛)の粉を水と[[漆]]で溶いた液が用いられ、[[漢]]代には漆で丸く固めた「墨丸」や硯の類、松を燃やした煤(松煙)が使われるようになり、[[三国時代 (中国)|三国時代]]までには膠で固めた扁平な墨が作られるようになり、[[宋 (王朝)|宋]]代には油を燃やした煤(油煙)による油煙墨が作られはじめた{{Sfn|綿谷|2014}}。文字以外には[[入れ墨|文身]]にも使用され、これはのちに罪人の[[刑罰]]の一方法となった。 |
[[古代]][[中国]]の甲骨文に墨書や朱墨の跡が発見されており、[[殷]]の時代に発達した[[亀甲獣骨文字|甲骨文字]]とときを同じくして使用されたと考えられる<ref>{{Cite journal|和書|title=甲骨版上の毛筆書写文字|author=末次信行|journal=千里金蘭大学紀要|volume=16|pages=133-146|publisher=千里金蘭大学|date=2019|naid=120006821873}}</ref>。紀元前には木炭の粉や石墨([[グラファイト]]、黒鉛)の粉を水と[[漆]]で溶いた液が用いられ、[[漢]]代には漆で丸く固めた「墨丸」や硯の類、松を燃やした煤(松煙)が使われるようになり、[[三国時代 (中国)|三国時代]]までには膠で固めた扁平な墨が作られるようになり、[[宋 (王朝)|宋]]代には油を燃やした煤(油煙)による油煙墨が作られはじめた{{Sfn|綿谷|2014}}。文字以外には[[入れ墨|文身]]にも使用され、これはのちに罪人の[[刑罰]]の一方法となった。 |
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朝鮮では[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]から良質な墨が作られ<ref>{{Cite book|chapter=2.2 The Development of Printing Materials|chapterurl=http://cefia.aks.ac.kr:84/index.php?title=Early_Printing_in_Korea_-_2.2_The_Development_of_Printing_Materials|title=Early Printings in Korea|series=Understanding Korea Series No.2|author=Young Jung Ok|editor=The Center for International Affairs︵韓国学中央研究院韓国文化交流センター︶|publisher=The Academy of Korean Studies Press|date=2013}}</ref>、後述のように[[高句麗]]から日本へ製墨技術が伝えられていた。[[新羅]]で作られた﹁新羅武家上墨﹂と﹁新羅楊家上墨﹂は現在も日本の[[正倉院]]に宝蔵されている<ref>{{Cite web|author=朴鐘鳴, 権仁燮|url=http://korea-np.co.jp/j-2010/06/1006j1206-00002.htm|title=︿渡来文化 その美と造形36﹀墨・筆|work=朝鮮新報|publisher=朝鮮新報社|date=2010-12-6|accessdate=2020-10-26}}</ref>。一方で、歴史的に職人の社会的地位はとても低く、製墨に係わる文献資料がほとんど残されていないことから、その研究や再現には困難が生じている<ref>{{Cite web|url=https://www.koreatimes.co.kr/www/nation/2018/02/178_243233.html|title=Meok - Artisan committed to inkstick making tradition|author=Chung Ah-young|work=The Korea Times|publisher=The Korea Times Co.|date=2018-1-29|accessdate=2020-10-26}}</ref>。現代に行われている朝鮮の伝統的な墨の再現では、中国や日本の資料も考証に加えられている |
朝鮮では[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]から良質な墨が作られ<ref>{{Cite book|chapter=2.2 The Development of Printing Materials|chapterurl=http://cefia.aks.ac.kr:84/index.php?title=Early_Printing_in_Korea_-_2.2_The_Development_of_Printing_Materials|title=Early Printings in Korea|series=Understanding Korea Series No.2|author=Young Jung Ok|editor=The Center for International Affairs(韓国学中央研究院韓国文化交流センター)|publisher=The Academy of Korean Studies Press|date=2013}}</ref>、後述のように[[高句麗]]から日本へ製墨技術が伝えられていた。[[新羅]]で作られた「新羅武家上墨」と「新羅楊家上墨」は現在も日本の[[正倉院]]に宝蔵されている<ref>{{Cite web|author=朴鐘鳴, 権仁燮|url=http://korea-np.co.jp/j-2010/06/1006j1206-00002.htm|title=〈渡来文化 その美と造形 36〉墨・筆|work=朝鮮新報|publisher=朝鮮新報社|date=2010-12-6|accessdate=2020-10-26}}</ref>。一方で、歴史的に職人の社会的地位はとても低く、製墨に係わる文献資料がほとんど残されていないことから、その研究や再現には困難が生じている<ref>{{Cite web|url=https://www.koreatimes.co.kr/www/nation/2018/02/178_243233.html|title=Meok - Artisan committed to inkstick making tradition|author=Chung Ah-young|work=The Korea Times|publisher=The Korea Times Co.|date=2018-1-29|accessdate=2020-10-26}}</ref>。現代に行われている朝鮮の伝統的な墨の再現では、中国や日本の資料も考証に加えられているそのウンコ、ばか |
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現存する日本最古の墨書は[[三重県]][[嬉野町 (三重県)|嬉野町]](現在は[[松阪市]])貝蔵遺跡で出土した2世紀末の[[墨書土器]]に記されていた「田」という文字(あるいは記号)とされている<ref>{{Cite journal|和書|title=墨書土器研究の現在 -データベース化された墨書土器-|author=吉村武彦|journal=駿台史学|volume=117|pages=101-130|date=2003|publisher=駿台史学会|id={{Hdl|10291/1547}}}}</ref>。更に遡る紀元前1-2世紀の硯とみられる品も、[[福岡県]][[行橋市]]下稗田遺跡など九州北部の複数遺跡から出土している<ref>{{Cite web|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/652997/|title=国内最古級のすずり? 下稗田遺跡で3点出土 福岡・行橋市|author=石黒雅史|work=西日本新聞|date=2020-10-10|accessdate=2020-10-19}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://mainichi.jp/univ/articles/20190221/org/00m/100/017000c|title=大学倶楽部・国学院大: 福岡・佐賀で出土の硯 紀元前の国産か 柳田客員教授が調査|author=大森顕浩|work=毎日新聞|date=2019-2-26|accessdate=2020-10-19}}</ref>。日本での製墨の記録は『[[日本書紀]]』が初出とされ、[[推古天皇]]18年([[610年]])に[[高句麗]]から渡来した[[曇徴]]によって行われた{{Sfn|綿谷|2014}}。[[大宝律令]]には[[中務省]]に造墨手を置くことが定められ、[[奈良時代]]には[[平城京]][[図書寮]]や和豆賀(京都府[[和束町]])、[[播磨国]]で墨が作られた。[[平安時代]]には松煙墨の生産が盛んになり、[[紀伊国]]産の「藤代墨」や[[近江国]]産の「武佐墨」が知られた。[[室町時代]]には[[明徳]]から[[応永]]の頃、奈良の[[興福寺]]二諦坊において油煙墨が作られるようになり、これは「南都油煙墨」と呼ばれ、松煙墨より墨色が濃く高く評価された。[[安土桃山時代]]には安価な[[菜種油]]が油煙の原料として使われるようになり、奈良では民間でも製墨が行われるようになった。[[江戸時代]]には[[紀伊徳川家]]の後押しにより、[[水墨画]]に適した紀伊国産の松煙墨である藤代墨が「藤白墨」として再興され珍重されたが、江戸末期には後継者が途絶えた。現在の墨の主要産地としては、[[奈良県]]産(奈良墨)が9割のシェアを占めるほか、藤白墨と同じく平安時代に始まり紀伊徳川家に支えられた歴史を持つ[[三重県]]産([[鈴鹿墨]])<ref>{{Cite book|和書|title=化学の目でみる日本の伝統工芸|url=https://www.nikkakyo.org/plcenter/column/sub_column9.html|series=月次活動報告書『アクティビティーノート』連載シリーズ10|chapter=9.墨|chapterurl=https://www.nikkakyo.org/upload/plcenter/563_597.pdf|page=10|publisher=日本化学工業協会|date=2011}}</ref>や、藤白墨の松煙生産を現代に復興させた[[和歌山県]]産(紀州松煙墨)<ref>{{Cite web|title=パインケミカルの基礎知識: 松やに(ロジン)を訪ねて: 03.紀州松煙墨|url=https://www.harima.co.jp/pine_chemicals/trip/03/index1.html|publisher=ハリマ化成グループ|date=1998|accessdate=2020-6-13}}</ref>がある。 |
現存する日本最古の墨書は[[三重県]][[嬉野町 (三重県)|嬉野町]](現在は[[松阪市]])貝蔵遺跡で出土した2世紀末の[[墨書土器]]に記されていた「田」という文字(あるいは記号)とされている<ref>{{Cite journal|和書|title=墨書土器研究の現在 -データベース化された墨書土器-|author=吉村武彦|journal=駿台史学|volume=117|pages=101-130|date=2003|publisher=駿台史学会|id={{Hdl|10291/1547}}}}</ref>。更に遡る紀元前1-2世紀の硯とみられる品も、[[福岡県]][[行橋市]]下稗田遺跡など九州北部の複数遺跡から出土している<ref>{{Cite web|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/652997/|title=国内最古級のすずり? 下稗田遺跡で3点出土 福岡・行橋市|author=石黒雅史|work=西日本新聞|date=2020-10-10|accessdate=2020-10-19}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://mainichi.jp/univ/articles/20190221/org/00m/100/017000c|title=大学倶楽部・国学院大: 福岡・佐賀で出土の硯 紀元前の国産か 柳田客員教授が調査|author=大森顕浩|work=毎日新聞|date=2019-2-26|accessdate=2020-10-19}}</ref>。日本での製墨の記録は『[[日本書紀]]』が初出とされ、[[推古天皇]]18年([[610年]])に[[高句麗]]から渡来した[[曇徴]]によって行われた{{Sfn|綿谷|2014}}。[[大宝律令]]には[[中務省]]に造墨手を置くことが定められ、[[奈良時代]]には[[平城京]][[図書寮]]や和豆賀(京都府[[和束町]])、[[播磨国]]で墨が作られた。[[平安時代]]には松煙墨の生産が盛んになり、[[紀伊国]]産の「藤代墨」や[[近江国]]産の「武佐墨」が知られた。[[室町時代]]には[[明徳]]から[[応永]]の頃、奈良の[[興福寺]]二諦坊において油煙墨が作られるようになり、これは「南都油煙墨」と呼ばれ、松煙墨より墨色が濃く高く評価された。[[安土桃山時代]]には安価な[[菜種油]]が油煙の原料として使われるようになり、奈良では民間でも製墨が行われるようになった。[[江戸時代]]には[[紀伊徳川家]]の後押しにより、[[水墨画]]に適した紀伊国産の松煙墨である藤代墨が「藤白墨」として再興され珍重されたが、江戸末期には後継者が途絶えた。現在の墨の主要産地としては、[[奈良県]]産(奈良墨)が9割のシェアを占めるほか、藤白墨と同じく平安時代に始まり紀伊徳川家に支えられた歴史を持つ[[三重県]]産([[鈴鹿墨]])<ref>{{Cite book|和書|title=化学の目でみる日本の伝統工芸|url=https://www.nikkakyo.org/plcenter/column/sub_column9.html|series=月次活動報告書『アクティビティーノート』連載シリーズ10|chapter=9.墨|chapterurl=https://www.nikkakyo.org/upload/plcenter/563_597.pdf|page=10|publisher=日本化学工業協会|date=2011}}</ref>や、藤白墨の松煙生産を現代に復興させた[[和歌山県]]産(紀州松煙墨)<ref>{{Cite web|title=パインケミカルの基礎知識: 松やに(ロジン)を訪ねて: 03.紀州松煙墨|url=https://www.harima.co.jp/pine_chemicals/trip/03/index1.html|publisher=ハリマ化成グループ|date=1998|accessdate=2020-6-13}}</ref>がある。 |