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2021年7月18日 (日) 11:02時点における版
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f4/Kodai_no_Kimi_Portrait_Uedatami.jpg/220px-Kodai_no_Kimi_Portrait_Uedatami.jpg)
小大君︵こおおきみ、天慶3年︵940年︶から天暦4年︵950年︶ - 寛弘2年︵1005年︶もしくは寛弘8年︵1011年︶頃[1]︶は、平安時代中期の女流歌人。系譜が伝わらず父母については不明である[2]。三十六歌仙、および女房三十六歌仙の一人。
はじめ円融天皇の中宮藤原媓子に女房として仕え、のち三条天皇︵居貞親王︶の東宮時代に下級の女房である女蔵人︵にょくろうど︶として仕え、東宮左近とも称された。藤原朝光と恋愛関係があったほか、平兼盛・藤原実方・藤原公任などとの贈答歌がある。
﹃拾遺和歌集﹄︵3首︶以下の勅撰和歌集に20首が入集し[3]、特に﹃後拾遺和歌集﹄では巻頭歌として採られている。家集に﹃小大君集﹄がある。散逸家集﹃麗華集﹄の断簡﹁香紙切﹂や、三十六人集の断簡﹁御蔵切﹂の筆者に擬せられているものの、研究の進展でこれらは院政期の筆跡と考えられている。
脚注
(一)^ 藤原朝光と恋愛関係にあったのは、﹃小大君集﹄の詞書から、朝光が右少将だった天禄元年︵970年︶12月10日から、蔵人に転ずる天禄4年︵973年︶正月8日までに限定される。当時、小大君は20代から30歳頃だったと推測できることから、生年を逆算。また、源頼光が美濃守任官期︵長保3年︵1001年︶から寛弘2年︵1005年︶︶に小大君は歌を贈っている。更に三条天皇が東宮だったのは、寛和2年︵986年︶から寛弘8年︵1011年︶までで、この頃まで生きていたのは確実である。
(二)^ 陽明文庫本﹃後拾遺和歌集﹄勘物によると、父を重明親王・母を藤原忠平の娘とするが、確証はない︵﹃新編 日本古典文学全集 栄花物語1﹄小学館、1995年、224頁︶
(三)^ ﹃勅撰作者部類﹄