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山本北山︵やまもとほくざん、宝暦2年(1752年) - 文化9年5月18日︵旧暦︶(1812年)︶は、江戸時代中期の儒学者である。
名は信有、字を天禧、通称 喜六、北山は号、別号に学半堂逸士、奚疑翁、考経楼主人、竹堤隠逸。
生涯
北山は江戸の武士の家系に生まれ、裕福な家庭に育った。幼少より文学を好み、また鋭敏で自尊心の強い性分であった。父を早くに亡くし、母ひとりによって愛情深く育てられる。15歳にしてはじめて経学を学んだが、井上金峨による折衷学を聴講したものと推考される。北山は講義を受ければすぐに理解できたという。その後、四書五経などほとんどを独学。資産家であったため、稀覯書も含めて書棚いっぱいに本を購入した。23歳のとき﹃孝経集覧﹄2巻を著して江戸で有名となる。
北山は秀でた才能を持つと同時に直情型の激しい気性であり、自ら﹁儒中の侠﹂と称しているように男気が強くときに社会の不正に対して義憤に駆られることがあった。﹁寛政異学の禁﹂に強く反対し、亀田鵬斎、市川鶴鳴、塚田大峰、泉豊洲らとともに五鬼とされた。
師には就かず、独学で自らの学問を為した。また仕官は卑職であるとして終身職に就くことは無かったが、久保田藩主 佐竹義和や高田藩主 榊原政令らの依頼を受けて藩政に有益な助言や指導を行ない、成果を挙げていたことが伝わっている。
百家の書を渉猟し大変な博学であり、詩文にも優れ江戸詩文社団の盟主としても活躍した。門人は数百人にも及んだ。
享年61。東京都文京区の本念寺に墓がある。
学風
井上金峨の折衷学が起点ではあるが、北山は自らの学問を孔子の真意を解明するものとして孔子学と称している。居宅を孝経楼と名付けているが、孝経をもっとも崇拝し、孝経こそ唯一の経書とし独自の説を展開している。また文においては韓愈や柳宗元を尊び、詩文においては宋の清新、明の袁宏道等の公安派を理想としている。李于鱗︵李攀龍︶・王元美︵王世貞︶を宗とする古文辞派を亀田鵬斎、皆川淇園とともに激しく批判した。やがて唐詩が廃り、宋詩が隆盛となっていく。
門弟
●太田錦城
主な著作
●﹃孝経集覧﹄
●﹃孝経楼漫筆﹄
●﹃孝経集覧﹄
●﹃北山先生大学説﹄
●﹃北山先生論語説﹄
●﹃北山先生中庸説﹄
●﹃北山先生孟子説﹄
●﹃古文尚書勤王師﹄
●﹃作文志毅﹄
●﹃作詩志殼﹄
関連項目