「村井弦斎」を編集中
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また、1887年には[[東京専門学校]](後の早稲田大学)に入学して本格的に文学の道を歩む。『小説家』 (1890年~91年) で認められ、現代小説から未来戦争小説となる『小猫』 (1891年~92年) により小説家の地位を確立、発明小説『日の出島』 (1896年~1901年) でその人気は絶頂に達した。このころの未来戦記、[[政治小説]]、発明小説の発表により、「[[SF小説]]の先駆者」ともされる<ref>[[横田順彌]]、[[會津信吾]]『新・日本SFこてん古典』(徳間文庫)P.275</ref>。 |
また、1887年には[[東京専門学校]](後の早稲田大学)に入学して本格的に文学の道を歩む。『小説家』 (1890年~91年) で認められ、現代小説から未来戦争小説となる『小猫』 (1891年~92年) により小説家の地位を確立、発明小説『日の出島』 (1896年~1901年) でその人気は絶頂に達した。このころの未来戦記、[[政治小説]]、発明小説の発表により、「[[SF小説]]の先駆者」ともされる<ref>[[横田順彌]]、[[會津信吾]]『新・日本SFこてん古典』(徳間文庫)P.275</ref>。 |
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代表作とされるのは、報知新聞に1903年︵明治36年︶1月から12月まで連載された﹃百道楽シリーズ﹄で、﹃酒道楽﹄﹃釣道楽﹄﹃女道楽﹄﹃[[食道楽 (村井弦斎)|食道樂]]﹄が執筆された。他にも、玉突道楽、芝居道楽、囲碁道楽など案はあったようであるが、執筆したのは4作だけである。これらの作品は、食道楽の様な道楽にうつつを抜かす遊興の徒を描いたものではなく、その様な道楽をたしなめ、飲酒の健康被害を語り、正妻以外に愛人をかこう旧来の悪弊を糾弾する教訓・啓蒙小説である。その中の﹃[[食道楽 (村井弦斎)|食道楽]]﹄︵くいどうらく︶は、明治時代、[[徳冨蘆花]]の﹃[[不如帰 (小説)|不如帰]]﹄と並んで最もよく読まれ、[[小説]]でありながら、その筋のあちこちに600種以上の四季折々の料理や食材の話題が盛り込まれており、 |
代表作とされるのは、報知新聞に1903年(明治36年)1月から12月まで連載された『百道楽シリーズ』で、『酒道楽』『釣道楽』『女道楽』『[[食道楽 (村井弦斎)|食道樂]]』が執筆された。他にも、玉突道楽、芝居道楽、囲碁道楽など案はあったようであるが、執筆したのは4作だけである。これらの作品は、食道楽の様な道楽にうつつを抜かす遊興の徒を描いたものではなく、その様な道楽をたしなめ、飲酒の健康被害を語り、正妻以外に愛人をかこう旧来の悪弊を糾弾する教訓・啓蒙小説である。その中の『[[食道楽 (村井弦斎)|食道楽]]』(くいどうらく)は、明治時代、[[徳冨蘆花]]の『[[不如帰 (小説)|不如帰]]』と並んで最もよく読まれ、[[小説]]でありながら、その筋のあちこちに600種以上の四季折々の料理や食材の話題が盛り込まれており、『[[美味しんぼ]]』や『[[クッキングパパ]]』などの[[料理漫画|グルメコミック]]の先駆けともいうべき作品である。[[ベストセラー]]作品として文学史的な評価も高い。また、「小児には德育よりも、智育よりも、躰育よりも、食育が先き。躰育、德育の根元も食育にある。」と[[食育]]という用語を記述した。続編も書かれたが、正編ほどの反響はなかった。 |
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『食道楽』の執筆前後、弦斎は、[[大隈重信]]の従兄弟の娘である尾崎多嘉子と結婚している。また、彼女の母親の妹は、[[後藤象二郎]]の後妻であった。女性登山家の草分けとなった[[村井米子]]は娘。 |
『食道楽』の執筆前後、弦斎は、[[大隈重信]]の従兄弟の娘である尾崎多嘉子と結婚している。また、彼女の母親の妹は、[[後藤象二郎]]の後妻であった。女性登山家の草分けとなった[[村井米子]]は娘。 |