「村井弦斎」の版間の差分
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彼は幼少のころから、[[ロシア語]]の家庭教師をつけられたり、漢学の塾に入れられたりして、早期の[[エリート教育|英才教育]]を受けた。1873年に[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]](現・[[東京外国語大学]])が開校すると、入学資格が13歳以上にもかかわらず、12歳で受験・入学させられた。猛勉強で首席にもなったものの健康を害し、1881年に露西亜語科を中退。その後、ロシア語の翻訳や著述で身を立てるようになる。しかし、家庭のしつけや猛勉強などがたたって、[[うつ病]]傾向などの神経性の疾患を抱え、しばらく療養した。病が癒えた後、新聞、雑誌の懸賞論文に応募を行い、毎日新聞に応募した論文が3等に入選したほか、いくつかの論文が活字になった。英字新聞の論文募集に入選し、アメリカ旅行の懸賞を得た。20歳で渡米し、アメリカではロシア系移民の家に住み込み英語を学び、働きながら社会制度などを学んだ。滞米中に報知新聞社長の[[矢野龍渓]]と知り合った<ref>『百年前の二十世紀』 横田順彌(著)ちくまプリマーブックス</ref>。 |
彼は幼少のころから、[[ロシア語]]の家庭教師をつけられたり、漢学の塾に入れられたりして、早期の[[エリート教育|英才教育]]を受けた。1873年に[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]](現・[[東京外国語大学]])が開校すると、入学資格が13歳以上にもかかわらず、12歳で受験・入学させられた。猛勉強で首席にもなったものの健康を害し、1881年に露西亜語科を中退。その後、ロシア語の翻訳や著述で身を立てるようになる。しかし、家庭のしつけや猛勉強などがたたって、[[うつ病]]傾向などの神経性の疾患を抱え、しばらく療養した。病が癒えた後、新聞、雑誌の懸賞論文に応募を行い、毎日新聞に応募した論文が3等に入選したほか、いくつかの論文が活字になった。英字新聞の論文募集に入選し、アメリカ旅行の懸賞を得た。20歳で渡米し、アメリカではロシア系移民の家に住み込み英語を学び、働きながら社会制度などを学んだ。滞米中に報知新聞社長の[[矢野龍渓]]と知り合った<ref>『百年前の二十世紀』 横田順彌(著)ちくまプリマーブックス</ref>。 |
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帰国後、[[報知新聞]]客員となり、明治から大正にかけて著述家として活躍した。代表作は、報知新聞に1903年︵明治36年︶1月から12月まで連載された﹃百道楽シリーズ﹄で、﹃酒道楽﹄﹃釣道楽﹄﹃女道楽﹄﹃[[食道楽|食道樂]]﹄が執筆された。他にも、玉突道楽、芝居道楽、囲碁道楽など案はあったようであるが、執筆したのは4作だけである。これらの作品は、食道楽の様な道楽にうつつを抜かす遊興の徒を描いたものではなく、その様な道楽をたしなめ、飲酒の健康被害を語り、正妻以外に愛人をかこう旧来の悪弊を糾弾する教訓・啓蒙小説である。その中の﹃食道楽﹄︵しょくどうらく︶は、明治時代、[[徳冨蘆花]]の﹃不如帰﹄と並んで最もよく読まれ、[[小説]]でありながら、その筋のあちこちに600種以上の四季折々の料理や食材の話題が盛り込まれており、﹃[[美味しんぼ]]﹄や﹃[[クッキングパパ]]﹄などの[[料理漫画|グルメコミック]]の先駆けともいうべき作品である。[[ベストセラー]]作品として文学史的な評価も高い。また、﹁小児には德育よりも、智育よりも、躰育よりも、食育が先き。躰育、德育の根元も食育にある。﹂と[[食育]]という用語を記述した。続編も書かれたが、正編ほどの反響はなかった。﹃食道楽﹄の執筆前後、弦斎は、[[大隈重信]]の従兄弟の娘である尾崎多嘉子と結婚している。また、彼女の母親の妹は、[[後藤象二郎]]の後妻であった。女性登山家の草分けとなった[[村井米子]]は娘。
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帰国後、[[報知新聞]]客員となり、明治から大正にかけて著述家として活躍した。代表作は、報知新聞に1903年︵明治36年︶1月から12月まで連載された﹃百道楽シリーズ﹄で、﹃酒道楽﹄﹃釣道楽﹄﹃女道楽﹄﹃[[食道楽 (村井弦斎)|食道樂]]﹄が執筆された。他にも、玉突道楽、芝居道楽、囲碁道楽など案はあったようであるが、執筆したのは4作だけである。これらの作品は、食道楽の様な道楽にうつつを抜かす遊興の徒を描いたものではなく、その様な道楽をたしなめ、飲酒の健康被害を語り、正妻以外に愛人をかこう旧来の悪弊を糾弾する教訓・啓蒙小説である。その中の﹃[[食道楽 (村井弦斎)|食道楽]]﹄︵しょくどうらく︶は、明治時代、[[徳冨蘆花]]の﹃不如帰﹄と並んで最もよく読まれ、[[小説]]でありながら、その筋のあちこちに600種以上の四季折々の料理や食材の話題が盛り込まれており、﹃[[美味しんぼ]]﹄や﹃[[クッキングパパ]]﹄などの[[料理漫画|グルメコミック]]の先駆けともいうべき作品である。[[ベストセラー]]作品として文学史的な評価も高い。また、﹁小児には德育よりも、智育よりも、躰育よりも、食育が先き。躰育、德育の根元も食育にある。﹂と[[食育]]という用語を記述した。続編も書かれたが、正編ほどの反響はなかった。﹃食道楽﹄の執筆前後、弦斎は、[[大隈重信]]の従兄弟の娘である尾崎多嘉子と結婚している。また、彼女の母親の妹は、[[後藤象二郎]]の後妻であった。女性登山家の草分けとなった[[村井米子]]は娘。
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結婚後、[[1904年]]から亡くなるまで[[神奈川県]][[平塚市]]の[[平塚駅]]の南側に居住した。﹃食道楽﹄の[[印税]]で屋敷の広大な敷地に和洋の野菜畑、[[カキノキ|カキ]]、[[ビワ]]、[[イチジク]]などの[[果樹園]]、[[温室]]、[[ニワトリ|鶏]]、[[ヤギ]]、[[ウサギ]]などの飼育施設、果ては[[厩舎]]を築造し、新鮮な食材を自給した。当時は珍しかった[[イチゴ]]や[[アスパラガス]]の栽培まで行った。また各界の著名人を招待したり、著名な料理人や食品会社の試作品などが届けられるという[[美食]]の殿堂のように取りざたされる優雅な暮らしを営んだ。ただし、彼は一連の﹃食道楽﹄ものを終了した後に断筆、報知新聞をも辞職してしまう。その後、[[脚気]]治療のために[[玄米食]]の研究に没頭し、また[[断食]]、[[自然食]]を実践した。また、自ら[[竪穴住居]]に住み、生きた虫など、加工しない自然のままのものだけを食べて暮らし、奇人、変人扱いされた。
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結婚後、[[1904年]]から亡くなるまで[[神奈川県]][[平塚市]]の[[平塚駅]]の南側に居住した。﹃食道楽﹄の[[印税]]で屋敷の広大な敷地に和洋の野菜畑、[[カキノキ|カキ]]、[[ビワ]]、[[イチジク]]などの[[果樹園]]、[[温室]]、[[ニワトリ|鶏]]、[[ヤギ]]、[[ウサギ]]などの飼育施設、果ては[[厩舎]]を築造し、新鮮な食材を自給した。当時は珍しかった[[イチゴ]]や[[アスパラガス]]の栽培まで行った。また各界の著名人を招待したり、著名な料理人や食品会社の試作品などが届けられるという[[美食]]の殿堂のように取りざたされる優雅な暮らしを営んだ。ただし、彼は一連の﹃食道楽﹄ものを終了した後に断筆、報知新聞をも辞職してしまう。その後、[[脚気]]治療のために[[玄米食]]の研究に没頭し、また[[断食]]、[[自然食]]を実践した。また、自ら[[竪穴住居]]に住み、生きた虫など、加工しない自然のままのものだけを食べて暮らし、奇人、変人扱いされた。
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