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'''狩野 友信'''(かのう とものぶ、[[天保]]14年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]([[1843年]][[4月24日]]) - [[明治]]45年([[1912年]])[[7月15日]])は[[幕末]]から明治時代にかけて活躍した[[狩野派]]の[[日本画家]]。春川、一青斎と号す。

'''狩野 友信'''(かのう とものぶ、[[天保]]14年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]([[1843年]][[4月24日]]) - [[明治]]45年([[1912年]])[[7月15日]])は[[幕末]]から明治時代にかけて活躍した[[狩野派]]([[江戸狩野]])の[[日本画家]]。春川、一青斎と号す。



== 生涯 ==

== 生涯 ==

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=== 奥絵師として ===

=== 奥絵師として ===


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=== フェノロサの協力者 ===

=== フェノロサの協力者 ===

[[明治維新]]後の明治3年([[1870年]])9月[[民部省]]より準十五等出仕図籍掛となり、[[地図]]の作成にあたった。同5年([[1872年]])からは[[大蔵省]]租税寮に出仕、翌年4月[[開成学校]]勤務となり、11月からは外国語学校も兼務する。明治8年([[1875年]])2月から[[東京大学 (1877-1886)|東京大学]][[東京大学大学院理学系研究科・理学部|理学部]]助手となり、明治14年([[1881年]])[[東京大学 (1877-1886)#大学予備門|東京大学予備門]]の助教諭となって、画学教師を務めた。この頃、[[アーネスト・フェノロサ|フェノロサ]]と知り合い、フェノロサに狩野派の画法や古画鑑定法を講じるだけでなく、[[狩野永悳]]や狩野芳崖を紹介するなど、フェノロサの[[日本美術]]研究の良き協力者となった。明治13年([[1880年]])の夏休みには、フェノロサに連れられ、関西の古寺社に残る古画を[[住吉弘賢]]と共に模写しており、現在[[ボストン美術館]]に残る友信の模本はこの時の物だと推測される。

[[明治維新]]後の明治3年([[1870年]])9月[[民部省]]より準十五等出仕図籍掛となり、[[地図]]の作成にあたった。同5年([[1872年]])からは[[大蔵省]]租税寮に出仕、翌年4月[[開成学校]]勤務となり、11月からは外国語学校も兼務する。明治8年([[1875年]])2月から[[東京大学 (1877-1886)|東京大学]][[東京大学大学院理学系研究科・理学部|理学部]]助手となり、明治14年([[1881年]])[[東京大学 (1877-1886)#大学予備門|東京大学予備門]]の助教諭となって、画学教師を務めた。この頃、[[アーネスト・フェノロサ]]と知り合い、フェノロサに狩野派の画法や古画鑑定法を講じるだけでなく、[[狩野永悳]]や狩野芳崖を紹介するなど、フェノロサの[[日本美術]]研究の良き協力者となった。明治13年([[1880年]])の夏休みには、フェノロサに連れられ、関西の古寺社に残る古画を[[住吉弘賢]]と共に模写しており、現在[[ボストン美術館]]に残る友信の模本はこの時の物だと推測される。



明治17年([[1884年]])2月に結成されたの[[鑑画会]]では、おそらく創立会員7人のうちに入っていたと考えられる。フェノロサが鑑画会の主導権を握った5月から、木挽町にあった[[起立工商会社]]の事務所で、フェノロサ、永悳、[[山名貫義]]と共に鑑定委員として働いた。翌18年9月の第一回鑑画会に「松下人物」「梅下野鶏」「[[羅漢]]」を出品、四等賞を得て金五円を授与された。同年暮れ、[[文部省]]御用掛となり、狩野芳崖と共に美術学校設立運動にも挺身する。永悳は芳崖の作風を好まなかったというが、同門の友信は違ったらしく、[[西郷孤月]]や[[岡不崩]]を芳崖に紹介している。

明治17年([[1884年]])2月に結成されたの[[鑑画会]]では、おそらく創立会員7人のうちに入っていたと考えられる。フェノロサが鑑画会の主導権を握った5月から、木挽町にあった[[起立工商会社]]の事務所で、フェノロサ、永悳、[[山名貫義]]と共に鑑定委員として働いた。翌18年9月の第一回鑑画会に「松下人物」「梅下野鶏」「[[羅漢]]」を出品、四等賞を得て金五円を授与された。同年暮れ、[[文部省]]御用掛となり、狩野芳崖と共に美術学校設立運動にも挺身する。永悳は芳崖の作風を好まなかったというが、同門の友信は違ったらしく、[[西郷孤月]]や[[岡不崩]]を芳崖に紹介している。



=== 奥絵師から画学教師へ ===

=== 奥絵師から画学教師へ ===


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== 代表作==

== 代表作==

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== 参考資料 ==

== 参考資料 ==

* [[日本美術院]]百年史編集室編 『日本美術院百年史 第一巻 上』 日本美術院、[[1989年]]

* [[日本美術院]]百年史編集室編 『日本美術院百年史 第一巻 上』 日本美術院、1989年

* 山田久美子 「狩野友信 ─ 明治を生きた最後の奥絵師(一) ─ 生い立ち・修行・奥絵師時代・作品」『Lotus 日本フェノロサ学会機関誌』No.19、1999年3月、pp.1-28

* 山田久美子 「狩野友信 ─ 明治を生きた最後の奥絵師(一) ─ 生い立ち・修行・奥絵師時代・作品」『Lotus 日本フェノロサ学会機関誌』No.19、1999年3月、pp.1-28

* 山田久美子 「狩野友信の明治─奥絵師から日本画教師へ」『近代画説 明治美術学会誌』第9号、2000年12月、pp.148-167

* 山田久美子 「狩野友信の明治─奥絵師から日本画教師へ」『近代画説 明治美術学会誌』第9号、2000年12月、pp.148-167

* 山田久美子 「狩野友信 ─ 明治を生きた最後の奥絵師(ニ) ─ 来日外国人画家との交遊」『Lotus 日本フェノロサ学会機関誌』No.22、2002年3月、pp.1-30

* 山田久美子 「狩野友信 ─ 明治を生きた最後の奥絵師(ニ) ─ 来日外国人画家との交遊」『Lotus 日本フェノロサ学会機関誌』No.22、2002年3月、pp.1-30

* 山田久美子 「[https://doi.org/10.14992/00005773 アメリカに渡った掛物絵 : 万延元年遣米使節贈答品]」『ことば・文化・コミュニケーション』 第4号、立教大学異文化コミュニケーション学部、2012年3月、p.191-202, {{doi|10.14992/00005773}}

* 山田久美子 「[https://doi.org/10.14992/00005773 アメリカに渡った掛物絵 : 万延元年遣米使節贈答品]」『ことば・文化・コミュニケーション』 第4号、[[立教大学]]異文化コミュニケーション学部、2012年3月、p.191-202, {{doi|10.14992/00005773}}


=== 伝記 ===

*山田久美子『狩野友信 最後の奥絵師、幕末・明治を生きる』[[水声社]]、2022年。ISBN 978-4801006119



== 外部リンク ==

== 外部リンク ==

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[[Category:1843年生]]

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[[Category:1912年没]]

[[Category:1912年没]]

[[Category:染井霊園に埋葬されている人物]]


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代表作[編集]

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款 備考
山水図 紙本墨画 1幅 フィラデルフィア美術館 落款無し/「一青斎友信」白文方印
羅漢 絹本著色 1幅 東京芸術大学大学美術館 明治27年(1894年) 款記「友信」/「一青斎」白朱文方印
武者図屏風 絹本著色 二曲一隻押絵貼 個人 款記「藤原友信」/「狩野春川」白文方印
平治物語 絹本著色 1幅 99.5x160.6 東京国立博物館 明治26年(1893年 款記「友信」/「一青斎」白朱文方印 シカゴ万国博覧会出品
花鳥図・生花図 絹本著色 双幅 131.6x56.6(各) エルミタージュ美術館 款記「春川藤原友信」[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b 濱町狩野の狩野友信新聞集成明治編年史. 第14卷、林泉社、1936-1940
  2. ^ 国際日本文化研究センター海外日本美術調査プロジェクト編 『海外日本美術調査プロジェクト報告2 エルミタージュ美術館所蔵日本美術品図録』 国際日本文化研究センター、1993年3月25日、p.115。

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    1989

   ()  Lotus No.1919993pp.1-28

  9200012pp.148-167

   ()  Lotus No.2220023pp.1-30

  : 使 420123p.191-202, doi:10.14992/00005773

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 2022ISBN 978-4801006119

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