「第二インターナショナル」を編集中
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'''第二インターナショナル'''︵だいにインターナショナル、{{lang-en-short|Second International}}︶は、[[社会主義]]者の[[国際機関|国際組織]]である。[[1889年]]に結成され、[[1914年]]の第一次世界大戦において分裂した。前身は[[第一インターナショナル]]。後継組織として[[コミンテルン|第三インターナショナル]]、[[労働社会主義インターナショナル]]、[[社会主義インターナショナル]]等がある。正式名称は'''国際社会主義者大会'''︵こくさいしゃかいしゅぎしゃたいかい、{{lang-en|International Socialist Congress}}︶<ref name=ndl>{{Cite web |
'''第二インターナショナル'''︵だいにインターナショナル、{{lang-en-short|Second International}}︶は、[[社会主義]]者の[[国際機関|国際組織]]である。[[1889年]]に結成され、[[1914年]]の第一次世界大戦において分裂した。前身は[[第一インターナショナル]]。後継組織として[[コミンテルン|第三インターナショナル]]、[[労働社会主義インターナショナル]]、[[社会主義インターナショナル]]等がある。正式名称は'''国際社会主義者大会'''︵こくさいしゃかいしゅぎしゃたいかい、{{lang-en|International Socialist Congress}}︶<ref name=ndl>{{Cite web |author= |date= |url=https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00944616 |title=第2インターナショナル|work=[[国立国会図書館]]典拠データ検索・提供サービス |publisher= |accessdate=2017-11-04}}</ref>である。
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== 歴史 == |
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などの[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]政党との妥協とインターナショナル内の組織強化という成果があった。 |
などの[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]政党との妥協とインターナショナル内の組織強化という成果があった。 |
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[[1904年]]8月[[アムステルダム]]大会<ref>{{仮リンク|第6回国際社会主義者大会|de|Internationaler Sozialistenkongress (1904)}}--{{Cite web |
[[1904年]]8月[[アムステルダム]]大会<ref>{{仮リンク|第6回国際社会主義者大会|de|Internationaler Sozialistenkongress (1904)}}--{{Cite web |author= |date= |url=https://kotobank.jp/word/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-557996 |title=第2インターナショナル|work=[[世界大百科事典]]|publisher= |accessdate=2017-11-04}}</ref>では、[[日露戦争]]で交戦中であった両国代表[[ゲオルギー・プレハーノフ|プレハーノフ]]と[[片山潜]]が大会冒頭で握手を交わし、国際的結束をアピール。フランス諸党派の統一が希望された。また、[[インド国民会議派]]の創設者で有名な{{仮リンク|ダーダーバーイー・ナオロージー|en|Dadabhai Naoroji}}がイギリス帝国主義をこの大会の演説で批判。これ以降、民族問題と[[帝国主義]]・国際戦争を主題として、インターナショナルでの議論が続く。
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[[1907年]][[シュトゥットガルト]]大会<ref>{{仮リンク|第7回国際社会主義者大会|de|Internationaler Sozialistenkongress (1907)}}</ref>は、フランス代表{{仮リンク|ギュスターヴ・エルヴェ|fr|Gustave Hervé}}により「労働者は自国の宣戦布告にさいして反乱と[[ゼネラル・ストライキ]](ゼネ・スト)で応じるべきである」という[[動議]]が提出され、さらに[[ロシア]]代表の[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]と[[ポーランド]]・ロシアの代表である[[ローザ・ルクセンブルク]]による同趣旨の修正案を受け、14名の小委員会が作成した長文の決議が採決された。それは |
[[1907年]][[シュトゥットガルト]]大会<ref>{{仮リンク|第7回国際社会主義者大会|de|Internationaler Sozialistenkongress (1907)}}</ref>は、フランス代表{{仮リンク|ギュスターヴ・エルヴェ|fr|Gustave Hervé}}により「労働者は自国の宣戦布告にさいして反乱と[[ゼネラル・ストライキ]](ゼネ・スト)で応じるべきである」という[[動議]]が提出され、さらに[[ロシア]]代表の[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]と[[ポーランド]]・ロシアの代表である[[ローザ・ルクセンブルク]]による同趣旨の修正案を受け、14名の小委員会が作成した長文の決議が採決された。それは |
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[[1912年]]11月[[バーゼル]]で[[第一次バルカン戦争]]を受けての緊急大会<ref>{{仮リンク|第9回国際社会主義者大会|de|Internationaler Sozialistenkongress (1912)}}</ref>が行われ、シュトゥットガルトとコペンハーゲンの決議が繰りかえされた。[[ベルン]]大会があった[[1913年]]に、それまで軍事予算に反対していたドイツ社会民主党内部で分裂が起こる。[[1914年]]7月[[オーストリア]]が[[セルビア]]へ[[最後通牒]]を発し、その直後の[[7月29日]][[ブリュッセル]]でインターナショナル事務局会議が開かれるが、[[8月9日]]にパリで大会を開催するというほか何ら実質ある戦争抑止策は提案されなかった。傑出した雄弁家であり、国際主義者として信望を集めヨーロッパの平和を熱望していたフランスの[[ジャン・ジョレス]]が暗殺され、第二インターナショナルを導きうる唯一の政党であったドイツ社会民主党は戦時予算の議決を棄権すべしという少数派を押し切り、[[8月4日]]の[[帝国議会 (ドイツ帝国)|ドイツ帝国議会]]において戦争を支持し政府に協力する「[[城内平和]]」路線へと舵をきった。フランス、オーストリアの社会主義者も同じ行動をとった。 |
[[1912年]]11月[[バーゼル]]で[[第一次バルカン戦争]]を受けての緊急大会<ref>{{仮リンク|第9回国際社会主義者大会|de|Internationaler Sozialistenkongress (1912)}}</ref>が行われ、シュトゥットガルトとコペンハーゲンの決議が繰りかえされた。[[ベルン]]大会があった[[1913年]]に、それまで軍事予算に反対していたドイツ社会民主党内部で分裂が起こる。[[1914年]]7月[[オーストリア]]が[[セルビア]]へ[[最後通牒]]を発し、その直後の[[7月29日]][[ブリュッセル]]でインターナショナル事務局会議が開かれるが、[[8月9日]]にパリで大会を開催するというほか何ら実質ある戦争抑止策は提案されなかった。傑出した雄弁家であり、国際主義者として信望を集めヨーロッパの平和を熱望していたフランスの[[ジャン・ジョレス]]が暗殺され、第二インターナショナルを導きうる唯一の政党であったドイツ社会民主党は戦時予算の議決を棄権すべしという少数派を押し切り、[[8月4日]]の[[帝国議会 (ドイツ帝国)|ドイツ帝国議会]]において戦争を支持し政府に協力する「[[城内平和]]」路線へと舵をきった。フランス、オーストリアの社会主義者も同じ行動をとった。 |
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ここに第二インターナショナルは、戦争を支持する多数派と反戦主義者の少数派に分裂することとなる<ref name="百科全書">{{Cite web |
ここに第二インターナショナルは、戦争を支持する多数派と反戦主義者の少数派に分裂することとなる<ref name="百科全書">{{Cite web |author=[[加藤哲郎 (政治学者)|加藤哲郎]]|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-32973#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |title=第二インターナショナル |work=[[日本大百科全書]] |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2018-02-14 }}</ref>。後者の少数派は、1915年に[[ツィンマーヴァルト]]、1916年に[[キーンタール]]で反戦を訴える大会を行っている<ref name="百科全書" />([[ツィンマーヴァルト運動]])。 |
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== 脚注 == |
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