「紋別港」の版間の差分
→外部リンク: +cat |
m編集の要約なし |
||
8行目: | 8行目: | ||
=== 築港以前 === |
=== 築港以前 === |
||
[[1680年代]]に[[松前藩]]によりソウヤ |
[[1680年代]]に[[松前藩]]によりソウヤ場所を設けた際、漁場として開設されたといわれる。[[1846年]]([[弘化]]3年)7月には[[松浦武四郎]]が紋別を訪れ、東向きの浜に岬が湾を作っており、波浪が静かで船の停泊に適している、と記録している<ref>『蝦夷日誌』</ref>。また、[[1871年]]([[明治]]4年)頃の港付近は沖に向かって12〜13[[町 (単位)|丁]](約1,300〜1,400[[メートル|m]])にわたる[[暗礁]]があり、不案内な船には[[座礁]]の恐れがあった<ref>『北見州経験誌』</ref>。[[1876年]](明治9年)1月には紋別に郵便局が設けられたのに伴って定期郵便船の寄港地となり、この頃には[[小樽港]]、[[函館港]]や[[根室港]]などと[[航路]]が結ばれ海運基地にもなっている。しかし暗礁のために[[和船]]は岸から200〜300m、[[汽船]]は1,300〜1,400m離れた所に停泊する必要があって大型船の入港は困難であり、また冬季の[[12月]]初旬から[[4月]]中旬までは[[流氷]]などのため航海ができなかった。 |
||
紋別港周辺のオホーツク海沿岸部には緊急時の[[避難港]]がなかった事もあり、[[1906年]](明治39年)には紋別築港の運動が生じた。このような中で[[1922年]]([[大正]]11年)[[9月29日]]の[[暴風雨]]により、オホーツク海で出漁操業中の[[ホタテ]][[漁船]]350隻中100隻以上が転覆し、[[漁師]]1,700名中260名が死亡するという大惨事が起きた<ref>『紋別市史』</ref>。これを機に翌[[1923年]](大正12年)に弁天岬から[[防波堤]]を延ばす北防波堤工事が始まり、あわせて湾内の[[海底]]を浚渫し、船入澗や[[岸壁]]が築かれた。一方、大正時代には動力付漁船が用いられるようになり、従来の沿岸付近の浅海漁業から沖合漁業へ転換が進んだ。1923年には動力付の船として紋別港[[船籍]]の3隻と他港船籍の10隻が操業していた。また[[漁網]]の巻上作業なども自動化されている。 |
紋別港周辺のオホーツク海沿岸部には緊急時の[[避難港]]がなかった事もあり、[[1906年]](明治39年)には紋別築港の運動が生じた。このような中で[[1922年]]([[大正]]11年)[[9月29日]]の[[暴風雨]]により、オホーツク海で出漁操業中の[[ホタテ]][[漁船]]350隻中100隻以上が転覆し、[[漁師]]1,700名中260名が死亡するという大惨事が起きた<ref>『紋別市史』</ref>。これを機に翌[[1923年]](大正12年)に弁天岬から[[防波堤]]を延ばす北防波堤工事が始まり、あわせて湾内の[[海底]]を浚渫し、船入澗や[[岸壁]]が築かれた。一方、大正時代には動力付漁船が用いられるようになり、従来の沿岸付近の浅海漁業から沖合漁業へ転換が進んだ。1923年には動力付の船として紋別港[[船籍]]の3隻と他港船籍の10隻が操業していた。また[[漁網]]の巻上作業なども自動化されている。 |
2017年9月14日 (木) 14:24時点における版
歴史
築港以前
築港以降
交通アクセス
- 網走市方面: 北海道道304号紋別港線経由で国道238号
- 旭川市方面: 北海道道305号紋別丸瀬布線経由で国道273号
参考文献
- 日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館
外部リンク
- 紋別市・紋別港
- みなとオアシス「もんべつ」【紋別港】 - 国土交通省北海道開発局