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=== 中世・近世 === |
=== 中世・近世 === |
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{{Double image aside|right|Maizuru city Tanabe Castle ac (1).jpg|250|Yūsai_Hosokawa_Fujitaka.jpg|200|︵左︶田辺城。田辺藩の主城であり、その雅称﹁舞鶴城﹂が市名の由来となった。︵右︶細川藤孝︵幽斎︶。初代舞鶴城主であり、関ヶ原の戦い時には籠城戦を耐え抜いた。}}
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{{Double image aside|right|Maizuru city Tanabe Castle ac (1).jpg|250|Yūsai_Hosokawa_Fujitaka.jpg|200|︵左︶田辺城。田辺藩の主城であり、その雅称﹁舞鶴城﹂が市名の由来となった。︵右︶細川藤孝︵幽斎︶。初代舞鶴城主であり、関ヶ原の戦い時には籠城戦を耐え抜いた。}}
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[[村上天皇]]の[[女御]]が寄進したとされる志高荘を皮切れに、舞鶴地域でも[[ |
[[村上天皇]]の[[女御]]が寄進したとされる志高荘を皮切れに、舞鶴地域でも[[荘園]]の成立が進み、『丹後国諸荘園郷保惣田数帳』によると[[1288年]]([[正応]]元年)にはすでに市域全域で中世的な荘園や郷が成立していた{{Sfn|舞鶴市|2018|p=23}}。『[[吾妻鏡]]』によれば、[[1195年]]([[建久]]6年)に志楽荘の住民が[[地頭]]後藤基清の乱暴狼藉を[[鎌倉幕府]]に訴えている{{Sfn|日本歴史地名体系|1985|loc=『丹後国』}}。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]において、丹後国はおおかた北朝勢力下にあったとされるが、[[1337年]]([[建武 (日本)|建武]]4年)には岡田荒張城(現舞鶴市)の南朝勢力と北朝の吉川経久が戦争を行っているなど、時勢は単純ではなかった{{Sfn|日本歴史地名体系|1985|loc=『丹後国』}}{{Sfn|舞鶴市|2018|p=24}} |
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南北朝期の丹後国守護は目まぐるしく変わったが、[[1391年]]([[明徳]]2年)に起こった[[明徳の乱]]ののちは[[一色氏]]の領国となった{{Sfn|日本歴史地名体系|1985|loc=『丹後国』}}。この乱で戦功を残した一色満範は[[足利義満]]より、もと[[山名氏]]の領国であった丹後国を与えられ、八田(現舞鶴市の田辺)に守護所を置いた{{Sfn|国史大辞典|loc=『加佐郡』}}。一時[[若狭武田氏]]が丹後守護に任ぜられた時期はあったが、守護の名実を問わず一色氏が勢力を保ち続けた{{Sfn|日本歴史地名体系|1985|loc=『丹後国』}}{{Sfn|日本大百科全書|loc=『丹後国』}}。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には舞鶴地域は[[一色義清]]・一色九郎ら一色氏内の各派閥と武田氏が相争う戦場となり、一色九郎方の丹後守護代・延永春信が現在の舞鶴市行永にある倉橋城に立てこもっている{{Sfn|日本歴史地名体系|1985|loc=『舞鶴市』}}{{Sfn|日本歴史地名体系|1985|loc=『倉橋城跡』}}1582年([[天正]]10年)より[[細川幽斎|細川藤孝]]・[[明智光秀]]の連合軍が織田信長の命を受けて丹後に攻め入り、一色氏は滅亡した{{Sfn|国史大辞典|loc=『丹後国』}}。舞鶴市鹿原/小倉を支配する小倉(真迫山)城主・大倉播磨守、同じく但馬谷城主・市村出羽守(大倉氏の一族か)も、細川氏によって滅ばされた。 |
南北朝期の丹後国守護は目まぐるしく変わったが、[[1391年]]([[明徳]]2年)に起こった[[明徳の乱]]ののちは[[一色氏]]の領国となった{{Sfn|日本歴史地名体系|1985|loc=『丹後国』}}。この乱で戦功を残した一色満範は[[足利義満]]より、もと[[山名氏]]の領国であった丹後国を与えられ、八田(現舞鶴市の田辺)に守護所を置いた{{Sfn|国史大辞典|loc=『加佐郡』}}。一時[[若狭武田氏]]が丹後守護に任ぜられた時期はあったが、守護の名実を問わず一色氏が勢力を保ち続けた{{Sfn|日本歴史地名体系|1985|loc=『丹後国』}}{{Sfn|日本大百科全書|loc=『丹後国』}}。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には舞鶴地域は[[一色義清]]・一色九郎ら一色氏内の各派閥と武田氏が相争う戦場となり、一色九郎方の丹後守護代・延永春信が現在の舞鶴市行永にある倉橋城に立てこもっている{{Sfn|日本歴史地名体系|1985|loc=『舞鶴市』}}{{Sfn|日本歴史地名体系|1985|loc=『倉橋城跡』}}1582年([[天正]]10年)より[[細川幽斎|細川藤孝]]・[[明智光秀]]の連合軍が織田信長の命を受けて丹後に攻め入り、一色氏は滅亡した{{Sfn|国史大辞典|loc=『丹後国』}}。舞鶴市鹿原/小倉を支配する小倉(真迫山)城主・大倉播磨守、同じく但馬谷城主・市村出羽守(大倉氏の一族か)も、細川氏によって滅ばされた。 |