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'''須藤しげる'''(すどう しげる、[[1898年]](明治31年)9月17日 - [[1946年]](昭和21年)[[2月3日]])は[[愛知県]]挙母町(現・[[豊田市]])出身の[[イラストレーター]]。本名は須藤源重(げんじゅう)。須藤重名義でも作品を発表。大正から昭和にかけて多くの雑誌や絵本などに挿絵を描き、[[抒情画]]家として活躍した。 |
'''須藤しげる'''(すどう しげる、[[1898年]](明治31年)9月17日 - [[1946年]](昭和21年)[[2月3日]])は、[[愛知県]]挙母町(現・[[豊田市]])出身の[[イラストレーター]]。本名は須藤源重(げんじゅう)。須藤重名義でも作品を発表。大正から昭和にかけて多くの雑誌や絵本などに挿絵を描き、[[抒情画]]家として活躍した。 |
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== 生涯 == |
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須藤の生家は代々麩屋を営む商家だった。1904年(明治37年︶4月 挙母町尋常小学校︵現 挙母小学校︶入学。大人しい少年で、友人と[[矢作川]]へ釣りに出かけたり、[[塩]]や[[酒]]を運ぶ[[帆船]]を見に行ったりしていた。こういった彼の少年時代の資料はほとんど残っておらず、須藤を直接知る人も今ではほとんどいない。今も、挙母小学校には須藤が20歳の時、挙母に戻った際に描いた[[油絵]]が掛けられている。
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14歳で上京すると、近くに住んでいた縁で |
14歳で上京すると、近くに住んでいた縁で[[岸田劉生]]の手ほどきを受ける。初めは油絵に取り組んでいた。須藤の書いた油絵作品である﹁須藤光子 像画﹂︵1935年 作 [[豊田市郷土資料館]] 蔵)では、劉生の特徴である赤色が印象的に描かれており、劉生の影響を受けている。油絵は制作に費用がかかる為、10代後半になると[[日本画]]に転向。[[1916年]](大正5年)に[[中村岳陵]]に師事。その後も生活は困窮し、生活費を稼ぐ為、雑誌の挿絵などを手がけるようになる。この時代は[[竹久夢二]]の全盛時代でもあった。須藤は、夢二の大正ロマン画調を引き継ぎながらも、独自の絵の世界を築くようになる。[[少女倶楽部]]、[[少女の友]]などの少女雑誌で活躍するほか、[[少年倶楽部]]、[[令女界]]でも絵を発表する。戦前は[[西條八十]]の﹁天使の翼﹂や[[少女画報]]に連載された[[吉屋信子]]の﹁[[花物語 (吉屋信子)|花物語]]﹂の雑誌イラストを描いて脚光を浴び人気を博した。雑誌の付録にも彼の絵が全面的に使われたこともある。抒情画家として名を馳せた須藤は抒情画についてこのように考えていた。
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{{Quotation|抒情画の特色は、画家の甘美な陶酔が想像の道と写実の道とを形作った表現にあると思います。︵中略︶その画家自身の人生観、自然観を画のうちに盛り込んでその感情を画によって観る人に伝えようとする画のことであります。}}つまり、 |
{{Quotation|抒情画の特色は、画家の甘美な陶酔が想像の道と写実の道とを形作った表現にあると思います。︵中略︶その画家自身の人生観、自然観を画のうちに盛り込んでその感情を画によって観る人に伝えようとする画のことであります。}}つまり、須藤の定義する抒情画は、﹁画家の感情を絵で表現したもの﹂であり、ただ、物語や詩の内容を説明する挿絵とは明らかに違うもの、と考えていた。抒情画を描くにあたり、須藤が大切にしていたものは﹁線﹂である。﹁線こそが抒情画の最も必要な叙情的要素であり、線に対する感受性の敏感さが抒情画家の命とも言える﹂と語っている。叙情画家の中には、詩や小説などの文章作品を残した人もいるが、須藤はあくまで﹁画家﹂として通し、絵を描くことに対しての情熱は生涯持ち続けた。
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須藤は昭和21年に亡くなった。享年48。須藤が亡くなる数年前に残した日記の中で、胸が痛くなる病気に悩まされ死を非常に恐れていた事が記されている。 |
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{{Quotation|病気して一日全てのことを休む事は一日死に早く近づくわけだ。死を怖れて、死にたくなくて、ぢっと軆を守ってゐることは、理論では三十日を無意に死に近づくことだ。︵中略︶生まれた時から、死に近づく時をむかへなければならないのだ。死を喜んで迎へられる覚悟がどうしても必要だ。それは何によって得られるか。死こそ人間の新生であると思へる知識が必要だ。}}
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{{Quotation|病気して一日全てのことを休む事は一日死に早く近づくわけだ。死を怖れて、死にたくなくて、ぢっと軆を守ってゐることは、理論では三十日を無意に死に近づくことだ。︵中略︶生まれた時から、死に近づく時をむかへなければならないのだ。死を喜んで迎へられる覚悟がどうしても必要だ。それは何によって得られるか。死こそ人間の新生であると思へる知識が必要だ。}}
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日記には他に﹁死ぬのはいやだ﹂﹁死にたくない﹂﹁死ぬもんか﹂﹁生きるのだ﹂﹁生きてゆくのだ﹂﹁もう少し生かして下さい﹂﹁神様にも切願する﹂など、これ程までに死を恐れたのは、後に残す家族があり、そして絵を描きたい、という気持ちがあったからであろう。どれほど胸が痛く、また、死の恐怖に怯えていても、絵に対する思いは熱く、画家であることの思いは、最後までかわらなかったのである。日記の最後には、﹁自分は絵かきである生き方を少しづつすゝめたい。﹂とある。 |
日記には他に﹁死ぬのはいやだ﹂﹁死にたくない﹂﹁死ぬもんか﹂﹁生きるのだ﹂﹁生きてゆくのだ﹂﹁もう少し生かして下さい﹂﹁神様にも切願する﹂など、これ程までに死を恐れたのは、後に残す家族があり、そして絵を描きたい、という気持ちがあったからであろう。どれほど胸が痛く、また、死の恐怖に怯えていても、絵に対する思いは熱く、画家であることの思いは、最後までかわらなかったのである。日記の最後には、﹁自分は絵かきである生き方を少しづつすゝめたい。﹂とある。須藤が画家として抱いていた思いは、この言葉に集約されるのではないだろうか。また、須藤は叙情画のみならず油絵、日本画、[[デッサン]]に及ぶまで[[ジャンル]]を問わず真摯に絵に向かい、その存在を絵に刻んだ本物の画家である。
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== 出典一覧及び関連リンク == |
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2018年7月1日 (日) 12:46時点における版
須藤しげる︵すどう しげる、1898年︵明治31年︶9月17日 - 1946年︵昭和21年︶2月3日︶は、愛知県挙母町︵現・豊田市︶出身のイラストレーター。本名は須藤源重︵げんじゅう︶。須藤重名義でも作品を発表。大正から昭和にかけて多くの雑誌や絵本などに挿絵を描き、抒情画家として活躍した。
生涯
須藤の生家は代々麩屋を営む商家だった。1904年(明治37年︶4月 挙母町尋常小学校︵現 挙母小学校︶入学。大人しい少年で、友人と矢作川へ釣りに出かけたり、塩や酒を運ぶ帆船を見に行ったりしていた。こういった彼の少年時代の資料はほとんど残っておらず、須藤を直接知る人も今ではほとんどいない。今も、挙母小学校には須藤が20歳の時、挙母に戻った際に描いた油絵が掛けられている。 14歳で上京すると、近くに住んでいた縁で岸田劉生の手ほどきを受ける。初めは油絵に取り組んでいた。須藤の書いた油絵作品である﹁須藤光子 像画﹂︵1935年 作 豊田市郷土資料館 蔵)では、劉生の特徴である赤色が印象的に描かれており、劉生の影響を受けている。油絵は制作に費用がかかる為、10代後半になると日本画に転向。1916年(大正5年)に中村岳陵に師事。その後も生活は困窮し、生活費を稼ぐ為、雑誌の挿絵などを手がけるようになる。この時代は竹久夢二の全盛時代でもあった。須藤は、夢二の大正ロマン画調を引き継ぎながらも、独自の絵の世界を築くようになる。少女倶楽部、少女の友などの少女雑誌で活躍するほか、少年倶楽部、令女界でも絵を発表する。戦前は西條八十の﹁天使の翼﹂や少女画報に連載された吉屋信子の﹁花物語﹂の雑誌イラストを描いて脚光を浴び人気を博した。雑誌の付録にも彼の絵が全面的に使われたこともある。抒情画家として名を馳せた須藤は抒情画についてこのように考えていた。 抒情画の特色は、画家の甘美な陶酔が想像の道と写実の道とを形作った表現にあると思います。︵中略︶その画家自身の人生観、自然観を画のうちに盛り込んでその感情を画によって観る人に伝えようとする画のことであります。 つまり、須藤の定義する抒情画は、﹁画家の感情を絵で表現したもの﹂であり、ただ、物語や詩の内容を説明する挿絵とは明らかに違うもの、と考えていた。抒情画を描くにあたり、須藤が大切にしていたものは﹁線﹂である。﹁線こそが抒情画の最も必要な叙情的要素であり、線に対する感受性の敏感さが抒情画家の命とも言える﹂と語っている。叙情画家の中には、詩や小説などの文章作品を残した人もいるが、須藤はあくまで﹁画家﹂として通し、絵を描くことに対しての情熱は生涯持ち続けた。 須藤は昭和21年に亡くなった。享年48。須藤が亡くなる数年前に残した日記の中で、胸が痛くなる病気に悩まされ死を非常に恐れていた事が記されている。 病気して一日全てのことを休む事は一日死に早く近づくわけだ。死を怖れて、死にたくなくて、ぢっと軆を守ってゐることは、理論では三十日を無意に死に近づくことだ。︵中略︶生まれた時から、死に近づく時をむかへなければならないのだ。死を喜んで迎へられる覚悟がどうしても必要だ。それは何によって得られるか。死こそ人間の新生であると思へる知識が必要だ。 日記には他に﹁死ぬのはいやだ﹂﹁死にたくない﹂﹁死ぬもんか﹂﹁生きるのだ﹂﹁生きてゆくのだ﹂﹁もう少し生かして下さい﹂﹁神様にも切願する﹂など、これ程までに死を恐れたのは、後に残す家族があり、そして絵を描きたい、という気持ちがあったからであろう。どれほど胸が痛く、また、死の恐怖に怯えていても、絵に対する思いは熱く、画家であることの思いは、最後までかわらなかったのである。日記の最後には、﹁自分は絵かきである生き方を少しづつすゝめたい。﹂とある。須藤が画家として抱いていた思いは、この言葉に集約されるのではないだろうか。また、須藤は叙情画のみならず油絵、日本画、デッサンに及ぶまでジャンルを問わず真摯に絵に向かい、その存在を絵に刻んだ本物の画家である。出典一覧及び関連リンク
・けやきの会 編集﹁主婦の調べた郷土の文化人﹂︵豊田市中央図書館 発行︶豊田市中央図書館 蔵書検索システム ・ヒストリーチャンネル︵CS342ch) 第4回ヒストリーアワード入選作品 ひまわりネットワーク︵愛知県 豊田市CATV 地域情報チャンネル ひまわりネットワーク︶﹁刻の遺産 須藤しげるの世界 〜郷土が生んだ抒情画家〜 ﹂番組内のナレーションからほぼ抜粋。ヒストリーチャンネル公式サイト ・須藤しげる 日記︵昭和15〜昭和17︶豊田市郷土資料館 ・豊田市郷土資料館 ﹁資料館だより﹂主な作品
- 『須藤しげる抒情画集』(国書刊行会、1985年(昭和60年))
- 油彩『かこ川風景』(1919年)けやきの会 編集「主婦の調べた郷土の文化人」より
- 油彩『板倉与五郎氏』(1931年)けやきの会 編集「主婦の調べた郷土の文化人」より
- 油彩『川』(1919年)けやきの会 編集「主婦の調べた郷土の文化人」より