オデッタ
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オデッタ Odetta | |
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オデッタ(2006年) | |
基本情報 | |
出生名 | Odetta Holmes |
別名 | Odetta Felious (継父の姓), Odetta Gordon |
生誕 |
1930年12月31日 アメリカ合衆国アラバマ州バーミングハム |
死没 |
2008年12月2日(77歳没) アメリカ合衆国ニューヨーク |
ジャンル | フォーク、ブルース、スピリチュアル |
職業 | 歌手、ミュージシャン |
担当楽器 | ボーカル、アコースティック・ギター、キーボード |
活動期間 | 1944年 - 2008年 |
共同作業者 | レッドベリー、ジャニス・ジョプリン、ザ・ステイプル・シンガーズ、ベッシー・スミス、ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、ボニー・レイット[1]、ハリー・ベラフォンテ |
公式サイト | M.C. Records |
オデッタ・ホームズ︵Odetta Holmes, 1930年12月31日 - 2008年12月2日︶は、アフリカ系アメリカ人のフォーク歌手、女優、ギタリスト、作詞作曲家および人権運動家である。しばしば﹁The Voice of the Civil Rights Movement﹂と呼ばれた。日本では、オデッタ・ゴードンという名前でも知られている。
人物[編集]
オデッタはアラバマ州バーミングハムで生まれ、カリフォルニア州ロサンゼルスで幼少期を過ごした。 ロサンゼルス・シティー・カレッジで音楽を勉強した。13歳からのオペラのトレーニングをした。1944年、ハリウッドでエルザ・ランチェスターらとミュージカルのアンサンブル・メンバーとして4年間働いた。1949年にはミュージカル﹃フィニアンの虹﹄の全米公演に参加している。 ﹃フィニアンの虹﹄のツアーで、オデッタ曰く﹁サンフランシスコで若手のバラード歌手グループと親しくなって﹂1950年以降はフォークソングを歌うようになった[2]。そして、ニューヨークやサンフランシスコなどアメリカ中のナイトクラブで演奏し、オデッタは有名になっていった。そして、ラリー・モーアという歌手とフォークデュオ﹁オデッタ&ラリー﹂を結成し、1954年にファンタジー・レコードからレコードを出した。 その後はソロ歌手としてキャリアを積み、アルバム﹃Odetta Sings Ballads and Blues﹄︵1956年︶、﹃At the Gate of Horn﹄︵1957年︶を発表、1963年の﹃Odetta Sings Folk Songs﹄はその年最も売れたフォーク・アルバムとなった。1959年には、全米で放送されたテレビ番組﹃Tonight With Belafonte﹄に出演し、オデッタは﹁ウオーター・ボーイ﹂(Waterboy) を歌い、さらにハリー・ベラフォンテと﹁バケツに穴が﹂(There's A Hole In My Bucket) をデュエットで歌った[3]。 1961年にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアがオデッタを﹁アメリカン・フォークミュージックの女王﹂と呼んだ[4]。同年、ハリー・ベラフォンテとの﹁バケツに穴が﹂が全英シングルチャートで32位を記録した[5]。さらに、1963年のワシントン大行進で﹁O Freedom﹂を歌っている[6]。オデッタは人種差別撤廃の市民運動には﹁非常に大きな私的活動の1つ﹂として関与している[7]。 オデッタは音楽の範囲を広げてソロからバンドへ転換してジャズのスタイルに近づき、﹃Odetta and the Blues﹄︵1962年︶、﹃Odetta﹄︵1967年︶を発表した。1968年にはウディ・ガスリー・メモリアル・コンサートで印象的な演奏を行った。 音楽活動と並行して映画への出演も行っており、﹃Cinerama Holiday﹄︵1955年︶やウィリアム・フォークナー原作の﹃サンクチュアリ (フォークナー)﹄︵1961年︶、﹃ミス・ジェーン・ピットマン物語﹄︵1974年︶に出演している。 1976年にはオペラ﹁喜びあれ、アメリカ﹂(Be Glad Then America) に出演した。 その後オデッタは1977年から1997年までの20年間で、アルバムを2枚しか発表しなかった︵﹃Movin' It On﹄、﹃Christmas Spirituals﹄︶。 1998年から積極的に音楽活動を再開し、友人のエラ・フィッツジェラルドに捧げた﹃To Ella﹄︵1998年︶、グラミー賞ベスト・トラディショナル・ブルース・アルバムにノミネートされた﹃Blues Everywhere I Go﹄︵1999年︶、レッドベリーをカバーした﹃Looking for a Home﹄︵2001年︶、再度グラミー賞にノミネートされた﹃Gonna Let It Shine﹄︵2005年︶を発表した。 1999年9月29日、ビル・クリントン大統領よりオデッタに文化功労賞ともいえる“National Medal of Art”を授与された。2005年にはアメリカ議会図書館より“Living Legend Award”︵生きた伝説賞︶を授与された。 2008年夏、77歳にてオデッタは北米ツアーを始め、車いすで歌った[8][9]。最後の大きなコンサートは同年10月4日のサンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークでのフェスティバルへの出演だった[10]。10月25日にトロントでの演奏が最後の演奏である[10]。 2008年11月、オデッタは体調を崩し、ニューヨークの病院で治療を受け始めた。2009年1月20日のバラク・オバマ大統領の就任式で演奏することをオデッタは願っていた[10][11]が、2008年12月2日はニューヨークで死去した[10][12][13]。 2009年2月、ニューヨークでオデッタの追悼式が行われた。マヤ・アンジェロウやピート・シーガー、ハリー・ベラフォンテ、ジェフリー・ホールダー、スティーヴ・アール、スウィート・ハニー・イン・ザ・ロック、ピーター・ヤロー、トム・チェイピンらが参列し、タヴィス・スマイリーとジョーン・バエズが賛辞をビデオテープから送った[14] 。脚注[編集]
- ^ Bonnieraitt.com
- ^ Odetta biography, 1956: back cover of "Sings Ballads and Blues"
- ^ [1][リンク切れ]
- ^ Folk Alley radio - about Odetta
- ^ ChartArchive.org - Harry Belafonte and Odetta
- ^ World mourns passing of Odetta
- ^ I'm Gonna Let It Shine
- ^ Lark Street BID official website Monday Nights in the Park Concert Series web page. Accessed July 21, 2008. アーカイブ 2008年6月7日 - ウェイバックマシン
- ^ Malachowsky, David, "A frail Odetta is strong, sure, confident, Albany Times-Union, found at "Review on Times Union Website". Blogs.timesunion.com. Accessed July 23, 2008.
- ^ a b c d Weiner, Tim (December 3, 2008). “Odetta, Voice of Civil Rights Movement, Dies at 77”. The New York Times (December 3) 2008年12月3日閲覧。.
- ^ Guardian (UK) article 01 December 2008
- ^ International Herald Tribune, 3 December 2008. IHT.com
- ^ “US folk icon Odetta dies aged 77”. BBC (December 3). (December 4, 2008) 2008年12月3日閲覧。.
- ^ Ryzik, Melena (2009年2月26日). “Remembering Odetta, Who Sang of Freedom”. New York Times
外部リンク[編集]
- Odetta Vanguard Records
- Odetta's oral history video excerpts at The National Visionary Leadership Project
- AP Obituary in The New York Times