ゲッティンゲン七教授事件
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(ゲッティンゲン7教授事件から転送)
ゲッティンゲン七教授事件︵ゲッティンゲンしちきょうじゅじけん、ドイツ語: Göttinger Sieben︶は、ドイツのゲッティンゲン大学で1837年に、ハノーファー国王エルンスト・アウグストの政策に異議を唱えた7人の教授が追放ないし免職となった事件。通称ゲッティンガー・ジーベン︵ゲッティンゲンの7人の意︶。
ゲッティンゲンの7教授‥︵1︶ヴィルヘルム・グリム、︵2︶ヤーコ プ・グリム、︵3︶ヴィルヘルム・エドゥアルト・アルブレヒト、︵4︶フリードリヒ・クリストフ・ダールマン、︵5︶ゲオルク・ゴットフリート・ゲルヴィーヌス、︵6︶ヴィルヘルム・エドゥアルト・ヴェーバー、︵7︶ハインリヒ・エーヴァルト
ハノーファーにあるゲッティンゲン七教授の記念碑
●中心となった教授
●フリードリヒ・クリストフ・ダールマン︵歴史学︶
●ヤーコプ・グリム︵ドイツ語学︶
●ゲオルク・ゴットフリート・ゲルヴィーヌス︵文学史︶
●中心ではないが、名を連ねた教授
●ヴィルヘルム・エドゥアルト・アルブレヒト︵国家法学︶
●ヴィルヘルム・グリム︵ドイツ文学・文献学︶
●ハインリヒ・エーヴァルト︵ヘブライ語・オリエント学︶
●ヴィルヘルム・エドゥアルト・ヴェーバー︵物理学︶
市民は勇気づけられ、内外の新聞は大きくこれを報じたが、大学当局および国王はこれを受け入れなかった。中心となった3人は3日以内に国外退去することを命じられ[4]、残りの4人も免職となった。学生達はデモを繰り広げ、教授達の抗議書の写しを国内外に広めた。それに対して当局は戒厳令を出し、学生50人を逮捕したため、騒ぎはますます大きくなった。
7人の教授はそれぞれに亡命したり、失職のまま知人の元に身を潜めた。ヤーコプ・グリムは、亡命先のカッセルで自分たちの主張をまとめた弁明書﹃私の免職について﹄[5]を発表、スイスのバーゼルで発刊した。エーヴァルトは、ドイツ中部のテュービンゲン大学に迎えられた。アルブレヒトはライプツィヒ大学の、ダールマンはボン大学の教授となった[6]。グリム兄弟は失職の身のままドイツ語辞典の編纂にあたっていたが、1840年にプロイセンの国王がフリードリヒ・ヴィルヘルム4世に代わると、ベルリン大学の教授として迎えられた。また、エーヴァルトとヴェーバーの2人は、後に再びゲッティンゲン大学の教授として迎えられている。
﹁事件の影響の大きさに驚いた国王は、しぶしぶ国民と妥協し、破棄された憲法に近い新憲法が1840年に発布される﹂[6]。
﹁この事件の10年後に起こった1848年の 三月革命では、全ドイツ統一憲法審議のために、ドイツ国民議会がフランクフルトで開かれるが、・・・7教授のうち、アルブレヒト、ダールマン、ヤーコプ・グリム、そしてゲルヴィヌスの4人が﹂それに加わることになる[7]。