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シーチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(:Січ)1619

概要

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3017

Військова радаЧорна рада

ПисарСуддяОсавул

161916177517751828

図表

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ザポロージャのシーチ群
名称  期間   位置   当時   現在   移転の理由
トマキーウカのシーチ  ?-1593 ドニプロ川の下流、
トマキーウカ島 
ポーランド・リトアニア共和国キエフ県南部  ウクライナ
ドニプロペトロウシク州マールハネツィ市辺り 
イスラム教徒と戦うための拠点であったため、1593年クリミア・タタール人によって破壊される。
バザウルークのシーチ 15931638 ドニプロ川の下流、
バザウルーク島
ポーランド・リトアニア共和国、キエフ県南部 ウクライナ
ドニプロペトロウシク州、カプリウカ村辺り
コサックが起こした多数の蜂起の拠点であったため、1638年にポーランド・リトアニア共和国の官軍によって破壊される。
ムィクィーティンのシーチ 16381652 ドニプロ川の下流、
ムィクィーティン半島
ポーランド・リトアニア共和国、キエフ県南部 ウクライナ
ドニプロペトロヴシク州、ニーコポリ市辺り
防衛性には戦略的弱点があったため、1652年にウクライナ・コサックによって廃止された。
チョルトムルィークのシーチ 16521709 ドニプロ川とその支流の合流地、
チョルトムルィーク島
ロシア・ツァーリ国の属国、ヘーチマン国家ザポロージャ地方 ウクライナ
ドニプロペトロウシク州、カプリヴカ村辺り
大北方戦争中、コサックの棟梁イヴァン・マゼーパヘーチマン国家をロシアの支配から解放しようと叛乱を起こしたため、1709年にロシアの軍によって破壊される。
カームヤンカのシーチ 17091711 ドニプロ川の支流地、
旧カームヤンカ川の右岸
クリミア・ハン国の北部 ウクライナ
ヘルソーン州レスプブリカーネツィ村辺り
防衛性には戦略的弱点があったため、1652年にウクライナ・コサックによって廃止された。
オレーシュクィのシーチ 17111734 ドニプロ川の下流、
オレーシュクィ岡
クリミア・ハン国の北部 ウクライナ
ヘルソーン州、ツュループィンシク市辺り
イスラム教の国家への不満と、ロシア皇帝ピョートル一世が失明のため、1734年にウクライナ・コサックによって廃止された。
新たなシーチ 17341775 ドニプロ川の支流ピドピーリナ川、
オレーシュクィ岡
ロシアの属国、ヘーチマン国家のザポロージャ地方 ウクライナ
ドニプロペトロウシク州、旧ポクローウシケ村
ロシア帝国の拡大と強化を妨げる共和制と分離主義の拠点として、1775年にロシアの軍によって破壊される。
ドナウ川のシーチ群
名称  期間   位置   当時   現在   移転の理由
ドナウ川口のシーチ 17761786 ドナウ川 オスマン帝国ドブロジャ地方の北部 ウクライナ
オデッサ州ヴィールコヴェ市辺り
難民のロシア・コサックとの領土争いがために、1786年にウクライナ・コサックによって廃止される。
セイメーニのシーチ 17861813 ドナウ川の下流、
セイメーニ村落
オスマン帝国、シリストラ地方の北部 ルーマニア
コンスタンツァ県
防衛性には戦略的弱点があったため、1813年にウクライナ・コサックによって廃止された。
カテルレーズのシーチ 18131815 ドナウ川の下流、
カテルレーズ村落 
オスマン帝国、ドブロジャ地方の南部  ルーマニア
トゥルチャ県
防衛性には戦略的弱点があったため、1815年にウクライナ・コサックによって廃止された。
ドナヴェツィのシーチ 18151828 ドナウ川の支流、
ドナヴェツィ川 
オスマン帝国、ドブロジャ地方の南部  ルーマニア
トゥルチャ県、ムリギョル村辺
露土戦争中、コサックの一部がロシア側に寝返ったため、オスマン帝国の軍によって破壊される。

参考文献

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  • (日本語) 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20)
  • (ウクライナ語) Яворницький Д. І. Історія запорізьких козаків, у трьох томах. — К.: Наук. думка, 1990. — Т. 1-3.

外部リンク

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