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タタル部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
12世紀のモンゴル高原の諸部族

TatarQaum Tātār[1][2]

歴史

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起源

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タタルの起源はモンゴル部同様に、6世紀から10世紀にかけて中国東北部に存在した室韋であり、8世紀突厥によって刻まれた『オルホン碑文』にある「三十姓(オトゥズ)タタル Otuz Tatar」もこれにあたる[3]

モンゴル部との争いの始まり

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(Qarālqū)(Sāīn Tīkīn)(Charqil Nūdūī)[4][5]

[6][7][8][9][10]

ウルジャ河の戦い

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1196年、テムジンがキヤト氏族のカンとして即位した頃、タタル部の首長メグジン・セウルトゥらが金朝の議に従わないということで、皇帝の命を受けた王京丞相(オンギン・チンサン、完顔襄)が軍勢を率いてタタル討伐を始めた。これを聞いたテムジンは父の仇を討つ絶好の機会と考え、同盟者であるケレイトのトオリル・カン(後のオン・カン)とともにタタルのメグジン・セウルトゥの所へ攻め入った。メグジン・セウルトゥは砦を築いて籠城していたが、テムジンらに捕えられ、その場で殺害された。これを聞いた王京丞相は大いに喜び、テムジンに「ジャウト・クリ」という称号を、トオリル・カンには「オン(王)」という称号を与え、以来トオリル・カンはオン・カンと呼ばれるようになった。

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反テムジン同盟

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1201

[12]

タタル部の滅亡

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1202[13]

21500500[14]

構成氏族

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元朝秘史』によると、タタル部族には以下の4氏族があるという。

  • アルチ(Alči)
  • チャガン(Čaγan)
  • ドタウト(Duta'ud)
  • アルクイ(Aluqui)

一方、『集史』では以下の計6氏族が数えられている。

  • トトクリウト(Tūtūqlī'ūt)
  • アルチ(Ālčī)
  • チャガン(Čaγān)
  • クイン(Kūyīn)
  • テレイト(Terēīt)
  • バルクイ(Barqūī)

[3]

脚注

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(一)^ 使

(二)^ 121981

(三)^ ab 1970,p68

(四)^  1989,p27

(五)^  2013,p821-822

(六)^ 31

(七)^ ǰü~ǰu使 1970,p69

(八)^ (TemüJ̌in Üge,TemüJ̌in Öke)temürčinomen agentisčihükerhükečirügeögö~öke 1970,p79

(九)^ (Qori Buqa,Qūrū Būqā) 1970,p79

(十)^  1970,p66-91

(11)^  1970,p282-285

(12)^  1970,p312-316

(13)^  1972,p49-53

(14)^  2013,p824-825

参考資料

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  • ドーソン(訳注:佐口透)『モンゴル帝国史1』(1989年、平凡社、ISBN 4582801102
  • 訳注:村上正二『モンゴル秘史1 チンギス・カン物語』(平凡社、1970年、ISBN 4582801633
  • 訳注:村上正二『モンゴル秘史2 チンギス・カン物語』(平凡社、1972年、ISBN 4582802095
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』(東京大学出版会、2013年)