ハイカラ
ハイカラは、西洋風の身なりや生活様式をする様、人物、事物などを表す日本語の単語。
1898年︵明治31年︶頃から当時東京毎日新聞[注 1]の主筆であった石川安次郎が紙上で使い始めたのが流行語となり、やがて定着した。皮肉を込めて漢字で灰殻と書かれることもある。対義語はバンカラ。
ハイカラという言葉を“発明”した石川安二郎
語源は、明治時代の男子洋装の流行であったハイカラー︵high collar、高襟︶、すなわちワイシャツに付ける丈の高い襟に因む。このような高い襟をつけた政治家や官吏を指して横浜毎日新聞の石川安次郎が紙面の﹃当世人物評﹄において1898年-1899年︵明治31-32年︶頃から﹁ハイカラア派﹂、﹁ハイ、カラア党﹂などと使い始めたのが1900年から流行したもの。一部の書籍には1900年︵明治33年︶6月21日に初めてこの言葉を使ったとの説[1]も見えるが、同評ではそれ以前から使用されており、必ずしもこの日を初出の日付とすることはできない。
当初は保守主義者を﹁チヨム髷党﹂と揶揄し、対比して開国主義者や進歩主義者のキザな感じを冷評する際に、その象徴として特徴的な高襟を着けた服装を指したものであった。従って本来は西洋かぶれ、あるいは外面や形式のみを追い求める軽佻浮薄な様子といった負の意味が強かったが、転じて進歩的、近代的、華麗、優美、お洒落など、肯定的な意味合いになっていった。
然るに、三十三年八月、築地のメトロポールホテルに於て、竹越与三郎氏の洋行送別会を開きたる時、来客代る代る起ちて演説を試みたりしが、其の際、小松緑氏起ちて、ハイカラーといふに就いて一場の演説を試み、世間多くは、ハイカラーを嘲笑の意味︵p67/p68︶に用ゆれども、決して左には非ず、ハイカラーは文明的にして、其の人物の清く高きを顕はすものなり。現に、平生はハイカラーを攻撃する石川氏の如きも、今夕は非常のハイカラーを着け居るに非ずや云々と滑稽演説を試みて、満場の哄笑を博したり。その記事、各新聞紙上に現はれて以来、ハイカラーといふ語の流行を来すに至れり。
最初は、この語を、気障生意気などの意に用ひ、髮の分け方苅り込方の気障なるをも、ハイカラと冷評し、女の庇髪の出過ぎたるをもハイカラと罵倒したりしが、小松氏の言、讖<しん>をなせしにや、終には、其義を引伸して、洒落者、或は最新式などの義にも用ひ、社会上下を通じて、一般の流行語となれり。特に可笑きは、小学の児童まで、何某はミツドを持ちたればハイカラなり、外套着たればハイカラなりなど言ふこと珍しからず。罪のなき奇語の、広く行はれしものかな。
奇語にて思ひ出せしが、日露開戦の初め、露探事件とて、大疑獄起こりたりしが、これより後、他人を悪罵するに、露探々々といふこと一時行はれたりし。芝居に行き、幕間長きを憤りてさへ、﹁早く幕明けないと、露探々々﹂など、罵る者ありしを聴きしことあ︵p68/p69︶り。一時の流行語には、一寸せし機会より生ぜし、想像外の奇語あるを知るべし。
概説[編集]
明治時代後期に西洋かぶれを意味する流行語・俗語として誕生したが、後に広く使用される一般的な単語となり、広義には第二次世界大戦までの西洋化風潮まで含める。明治後期から昭和初期にかけては﹁ハイカる﹂という動詞も派生し、﹁ハイカった人﹂などのように用いられた。 しかし、戦後になると原義に近いニュアンスで使用されることは少なくなり、むしろ﹁ハイカラ﹂という語が流行した時代の風俗を象徴したり、懐古調の雰囲気を出すために使用されることが多くなった。このため、ドラマや小説などではこの語を使用する人物の年齢や時代背景を演出するために用いられることもある。 多くの場合﹁彼はハイカラなり﹂﹁あの建物はハイカラだ﹂などのように、いわゆる形容動詞として使用されるか、﹁ハイカラ髪﹂﹁ハイカラうどん﹂﹁ハイカラ文士﹂などのように他の名詞に修飾的に冠せられて使われる。単独の名詞として用いられる場合は、﹁頭をハイカラ髪に結い﹂→﹁頭をハイカラに結い﹂、﹁私はハイカラうどんがいいな﹂→﹁わいはハイカラがええな﹂のようにハイカラが修飾語として付く名詞の省略形であることが多い。語源[編集]
流行のきっかけ[編集]
石川の﹃当世人物評﹄は洒脱で辛口な文章と、次々と繰り出される新語・造語でテンポ良く読ませるスタイルをとっており、他にもチヨム髷党、ピストル党、コスメチツク党、ネクタイ党等々の語が新作されたが、本人曰くこれらは﹁少しも流行しなかッたが、唯此のハイカラと云ふ一語だけが、馬鹿に大流行を来した﹂︵石川、1912︶[2]という。 なぜハイカラという語のみが流行したかについては、石井研堂︵1908︶が﹃明治事物起源﹄という本の中の﹁ハイカラの始﹂という項で説明している[3]。それによれば1900年︵明治33年︶8月10日、竹越与三郎の洋行送別会が築地のメトロポールホテルで催された際、来客の何人かが演説をしたが、そのうちの一人である小松緑がハイカラーであることはむしろ文明的で、ハイカラを揶揄していた張本人の石川︵彼も出席していた︶でさえ今夕はハイカラーを着ているではないかと滑稽演説をし、このことが各新聞で取り上げられたことで流行したとしている。 これら初期の経緯はそれぞれ以下のように解説されている。石川安次郎自身による解説[編集]
この語を﹁発明﹂した石川はその由来について、自著﹃烏飛兎走録﹄の﹁第二フルベツキ先生のピストル﹂︵p11-19︶[2]の章で以下のように書いている︵旧漢字は新漢字に変更してある︶。 ︵p17︶ハイカラ語の由来︵p17/p18︶ 我輩がハイカラと云ふ言葉を書き始めた為めに、今日では大変に世間に行はれて居るが、此のハイカラと云ふ言葉を書いたのは、全く此のフルベツキ先生の話のピストルに対照させる為めで有ッた、即ち東京毎日新聞に掲げたる当世人物評中に、﹁山縣、鳥尾、谷などは保守主義の武断派、攘夷党の日本党、頑冥不霊なるチヨム髷党、ピストル党であるが、大隈、伊藤、西園寺等は進歩主義の文治派で、開国党の欧化党、胸襟闊達なるハイカラ党、ネクタイ党、コスメチツク党で有る﹂と書いたのが起因で、外のチヨム髷党、ピストル党、コスメチツク党、ネクタイ党などは少しも流行しなかッたが、唯此のハイカラと云ふ一語だけが、馬鹿に大流行を来した、今日では最早や我輩が発明したと云ふ事を知らずに用ひて居る者も多く、一の重要なる日本語となッて仕舞ふたが、然るに実は我輩が此のハイカ︵p18/p19︶ラと云ふことを書いた起因を申すと、全く此の時のフルベッキ先生の話を胸中に蓄えて居て、それを五六年の後に至って新聞の上に現はした結果で有る。 文中にある﹁フルベツキ先生の話のピストル﹂とは、1895年︵明治28年︶4月25日、当時石川が下宿していた長野県東筑摩郡松本町︵現・松本市︶の丸茂旅館でフルベッキと会った際、フルベッキがかつて西洋人の友人に、日本人のちょん髷は西洋人を撃つピストルだから日本に行くのは危険だ、と日本行きを止められたことがあったと語ったもの。丁髷を反西洋・保守主義の象徴とみなし、その形状がピストルに似ていたことから出た話である。﹃明治事物起源﹄による解説[編集]
石井研堂︵1908︶による﹃明治事物起源﹄[3]は明治に始まる種々の事物・事象について、過去の新聞雑誌の記事などを元に解説したもので、以下はハイカラの語の由来を説明した一文である︵同書 p.67-69、旧漢字は新漢字に変更してある︶。 ハイカラの始 明治三十一二年の比、毎日新聞記者石川半山氏、ハイカラーといふ語を紙上に掲げ、金子堅太郎氏の如き、洋行帰りの人々を冷評すること度々なりし。泰西新流行の襟の特に高きを用ひて済まし顔なる様、何となく新帰朝をほのめかすに似て、気障<きざ>の限りなりければなり。然るに、三十三年八月、築地のメトロポールホテルに於て、竹越与三郎氏の洋行送別会を開きたる時、来客代る代る起ちて演説を試みたりしが、其の際、小松緑氏起ちて、ハイカラーといふに就いて一場の演説を試み、世間多くは、ハイカラーを嘲笑の意味︵p67/p68︶に用ゆれども、決して左には非ず、ハイカラーは文明的にして、其の人物の清く高きを顕はすものなり。現に、平生はハイカラーを攻撃する石川氏の如きも、今夕は非常のハイカラーを着け居るに非ずや云々と滑稽演説を試みて、満場の哄笑を博したり。その記事、各新聞紙上に現はれて以来、ハイカラーといふ語の流行を来すに至れり。
最初は、この語を、気障生意気などの意に用ひ、髮の分け方苅り込方の気障なるをも、ハイカラと冷評し、女の庇髪の出過ぎたるをもハイカラと罵倒したりしが、小松氏の言、讖<しん>をなせしにや、終には、其義を引伸して、洒落者、或は最新式などの義にも用ひ、社会上下を通じて、一般の流行語となれり。特に可笑きは、小学の児童まで、何某はミツドを持ちたればハイカラなり、外套着たればハイカラなりなど言ふこと珍しからず。罪のなき奇語の、広く行はれしものかな。
奇語にて思ひ出せしが、日露開戦の初め、露探事件とて、大疑獄起こりたりしが、これより後、他人を悪罵するに、露探々々といふこと一時行はれたりし。芝居に行き、幕間長きを憤りてさへ、﹁早く幕明けないと、露探々々﹂など、罵る者ありしを聴きしことあ︵p68/p69︶り。一時の流行語には、一寸せし機会より生ぜし、想像外の奇語あるを知るべし。