ハルシュタット文化
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ハルシュタット文化︵ハルシュタットぶんか︶は、中央ヨーロッパにおいて青銅器時代後期︵紀元前12世紀以降︶の骨壺墓地文化から発展し、鉄器時代初期︵紀元前8世紀から紀元前6世紀︶にかけて主流となった文化。後に中央ヨーロッパのほとんどはラ・テーヌ文化に移行した。
名称はオーストリアのザルツブルク州の南東の湖岸の村ザルツカンマーグートにある標式遺跡が出土したハルシュタットに由来する。一般的に西文化圏はケルト祖語及びケルト人と、東文化圏は︵祖ー︶イリュリア人と関係があるとされている。
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ホッホドルフの首長の墓、内部復元展示。ケルト博物館 (ホッホドル フ)
ハルシュタット遺跡[編集]
1846年ヨハン・ゲオルク・ラムザウアーはハルシュタット近郊で大規模な先史時代の墓地を発見し19世紀後半発掘を続けた。1863年までに980体の遺体と19,497点にのぼる埋葬品が見つかった[1]。 この墓地の墓は紀元前7世紀と紀元前6世紀のものがほとんどである[2]。 ハルシュタットの共同体はこの地域にある岩塩鉱山から岩塩を採掘していたが︵﹁halen﹂は古ケルト語で﹁塩﹂を意味する︶、それは新石器時代︵紀元前8世紀 - 紀元前5世紀︶から続いていた。墓地から見つかった副葬品は様式に特徴があり、この様式で作られたものはヨーロッパの広範囲に分布している。時代区分[編集]
ハルシュタット文化は紀元前1200年ごろから紀元前500年ごろまで続いたが、考古学では以下の4期に分けられる。 ●ハルシュタットA期‥紀元前1200年から紀元前1000年まで ●ハルシュタットB期‥紀元前1000年から紀元前800年まで ●ハルシュタットC期‥紀元前800年から紀元前650年まで ●ハルシュタットD期‥紀元前650年から紀元前475年まで ハルシュタットA期とB期は青銅器時代後期である。A期にはヴィラノヴァ文化︵Villanovan culture︶の影響が見られ、B期は火葬が主流であるが墳墓葬が普及しはじめた。 狭義の﹁ハルシュタット時代﹂はC期とD期に限定されるが、これは初期ヨーロッパ鉄器時代と時期が重なっている。ハルシュタットD期に次いでラ・テーヌ文化が起こった。地理的区分[編集]
1959年コサックは東西で文化が異なる地域があると提唱した。その境界は東経14度から15度にかけて位置しチェコとオーストリアを縦断している。 ハルシュタット西文化圏を含む地域 ●フランス北西部‥シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏、ロレーヌ地域圏、アルザス地域圏 ●スイス北部‥スイス高原 ●ドイツ南部‥シュヴァーベンとバイエルン州ほぼ全域。 ●チェコ‥ボヘミア ●オーストリア西部‥フォアアールベルク州、チロル地方北部、ザルツカンマーグート ハルシュタット東文化圏を含む地域 ●オーストリア東部‥ニーダーエスターライヒ州、シュタイアーマルク州 ●チェコ東部‥モラヴィア ●スロバキア南西部‥ダニューブ低地地方 ●ハンガリー西部‥ハンガリー平原 ●スロバキア東部‥シュタイエルスカ地方 ●クロアチア‥フルヴァツコ・ザゴリエ地方 東西の文化圏は主に埋葬習慣と副葬品の違いを基準に区分される。西文化圏では高い地位にあった者は剣︵C期︶もしくは短剣︵D期︶と共に葬られたが、東文化圏では斧と共に葬られていた。また西文化圏では戦車葬が行なわれていたが、東文化圏では戦士はしばしば甲冑をつけ葬られていた。 ハルシュタットが西文化圏の主要な定住地とされる一方で、オーストリアのシュタイアーマルク州南部からライプニッツ州西部にかかるズルム渓谷中部のブルクシュタルコーゲルはC期の中心であった。こんにちグラインシュテッテン近郊に、定住地を囲んでいた︵元は1,100を越える墳墓があったと推測される︶ネクロポリスの一部が見られる。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d8/Hochdorf_keltenmuseum0815.jpg/150px-Hochdorf_keltenmuseum0815.jpg)