パンジャーブ
表示
パンジャーブ︵PunjabあるいはPanjab、パンジャブとも︶は、インド北西部からパキスタン北東部にまたがる地域。インド・パキスタンの分離独立の際に、インド側とパキスタン側に分割されている。
地理[編集]
パンジャーブの語源は、ペルシア語で﹁5つの水﹂を意味するパンジュ・アーブ (panj ab) で、この地を潤す5つの河川、北から順にインダス川とその4つの大きな支流、ジェルム川、シェナブ川、ラーヴィー川、サトレジ川に由来する。パンジャーブはこれらの大河に囲まれた地域で、灌漑によって小麦・米の生産力に優れた豊かな農地となっており、インド・パキスタン両国にとっては重要な穀倉地帯である。 現在の行政区分では、パンジャーブ州︵インド、パキスタン︶、ハリヤーナー州、ヒマーチャル・プラデーシュ州付近にあたる。歴史[編集]
詳細は「パンジャーブの歴史」を参照
先史時代、インダス文明がパンジャーブにも及び、当時の都市遺跡・ハラッパーなどの痕跡を後世に残した。
古代にはガンダーラ︵紀元前6世紀 - 11世紀︶が栄え、中心都市はペシャーワル︵現カイバル・パクトゥンクワ州︶、チャールサダ︵現カイバル・パクトゥンクワ州︶、タクシラ︵現パンジャーブ州 (パキスタン)︶、フント︵現カイバル・パクトゥンクワ州︶などに移り変わった。
また、紀元前6世紀以来、ペルシャ帝国︵アケメネス朝︶の版図はインダス川流域付近まで及んでいたが、紀元前4世紀にアレクサンドロス3世︵大王︶率いるマケドニア王国︵アルゲアス朝︶軍はペルシャ王ダレイオス3世を破った後インドに侵入し、紀元前326年のヒュダスペス︵ジェルム︶河畔の戦いが行われた。当時、東部パンジャーブのジェルム川からシェナブ川に至る地域はパウラヴァ族︵Paurava︶の王であったポロスの領土となっていた。
紀元前4世紀末頃から、インダス流域を含む北西インド地方は、マウリヤ朝︵マガダ国︶のチャンドラグプタの版図に含まれた。紀元前2世紀頃から西暦後1世紀頃まで、インド・グリーク朝の治世となっていた。
この節の加筆が望まれています。 |
1757年、マラーターのインド北西部征服でパンジャーブが占領される。
1761年、第三次パーニーパットの戦いでドゥッラーニー朝とアワド太守などのムスリム同盟軍が、ヒンドゥー教のマラーター同盟に勝利。パンジャーブの領土を拡張した。
現在のヒマーチャル・プラデーシュ州付近には、Chamba、Bilaspur、Bhagal、Dhamiといった諸国が並立していた。グルカ戦争︵1814年 - 1816年︶を経てBritish India領となった。
1823年、ノウシェーラの戦いでドゥッラーニー朝がシク王国に敗北し、ペシャーワル一帯の領土を失い、カイバル峠を越えて撤退した。
シク戦争︵1845年 - 1849年︶では、第一次シク戦争でラホール条約を締結しカシミール地方をイギリスに譲渡︵ジャンムー・カシミール藩王国の成立︶、第二次シク戦争で敗れ併合され、British Indiaのパンジャーブ州となり、マリー︵Murree︶が夏の首都となった。
1858年にイギリス領インド帝国が成立。1864年、シムラーがイギリス領インド帝国の夏の首都となる。
この節の加筆が望まれています。 |
住民[編集]
民族[編集]
パンジャーブ人、en:Arain、ジャート族、en:Chamar、en:Scheduled Castes and Scheduled Tribes、ラージプート、en:Malik Jat clan、en:Khatri、en:Aheer、en:Gurjar。
言語[編集]
●パンジャーブ語宗教[編集]
住民の宗教は、イスラーム教、シク教、ヒンドゥー教の3宗教によって大別される。各宗教の信者はイギリス統治期には入り混じって暮らしていたが、現在ではおおむね前者がパキスタン領、後二者がインド領に分かれている。画像[編集]
-
ファイズ・マハル
-
バティンダの砦