フレディー・ペレン
表示
フレディー・ペレン︵Freddie Perren,本名: Frederick James Perren ,1943年5月15日 - 2004年12月16日)は 、北米の作編曲家・指揮者・プロデューサー。
ジャクソン5﹃帰ってほしいの﹄﹃ABC﹄﹃小さな経験﹄﹃ママの真珠﹄、シルバーズの"Boogie Fever"、グロリア・ゲイナーの﹃恋のサバイバル﹄、ピーチズ&ハーブの﹃シェイク・ユア・グルーヴ﹄のヒット曲で知られている
初期[編集]
1943年、ニュージャージー州イングルウッド生まれ。Dwight Morrow高校に通い、吹奏楽仲間で未来のパートナーFonce & Larry Mizellとともに1961年卒業。[1]ハワード大学に入学し、後にキャピトル・レコードのR&BのA&R責任者となるLarkin Arnoldと出会い1966年卒業。翌年Christine Yarianと出会い1970年結婚。モータウンとジャクソン5[編集]
1968年にカリフォルニアに引っ越し。ベースのマイゼル兄弟とともにギターのディーク・リチャーズに出会い共作開始。 1969年、ベリー・ゴーディーが彼らをThe Corporationに編入。ジャクソン5﹃帰ってほしいの﹄が1970年初頭にヒットし、﹃ABC﹄﹃小さな経験﹄﹃ママの真珠﹄まで4連続トップ、﹃きっと明日は﹄なども続いてヒットした。モータウンのサウンドトラック﹃ハーレム街の首領﹄﹃Cooley High﹄も担当した。後者からはG.C. Cameron﹃It's So Hard to Say Goodbye to Yesterday﹄がヒットし、同曲は後にボーイズIIメンがカバーしヒットさせた。ディスコの誕生、モータウンとの決別[編集]
その後ディスコ領域に突入し、ミラクルズの﹃Do It Baby﹄﹃Love Machine﹄がヒット。1976年、モータウンを去り、キャピトル・レコードで旧友・副社長Larkin Arnoldと仕事する。その後2年間で シルバーズの﹃Boogie Fever﹄﹃Hot Line﹄﹃High School Dance﹄が大ヒットした。タヴァレスと﹃Fever﹄[編集]
タヴァレスの三枚のアルバム﹃Sky High!﹄﹃Love Storm﹄﹃Future Bound﹄も売れた。シングル﹃Don't Take Away The Music﹄﹃Heaven Must Be Missing An Angel﹄はディスコで一位。ビージーズ﹃More Than a Woman﹄のカバーも売れ、1977年の歴史的サントラ﹃サタデー・ナイト・フィーバー﹄には両グループのバージョンが収録。ビージーズは自作の﹃アイ・キャント・ハヴ・ユー﹄を録音したが、ペレン制作のイヴォンヌ・エリマンバージョンを聴いて︵自分たちのバージョンよりも︶気に入り、同サントラのB面に収録、ポップチャートで一位、ミリオンセラー・ゴールドディスクになる。サントラは1500万枚以上売れ、グラミー賞の﹁アルバム・オブ・ザ・イヤー﹂となる。MVPプロダクションと﹃Reunited﹄[編集]
1978年、ピーチズ&ハーブと自身の会社MVP Productionsで契約。ポリドールでの最初のアルバム﹃2 Hot﹄からはゴールドでトップ5の﹃Shake Your Groove Thing﹄、バラード﹃Reunited﹄、﹃We've Got Love﹄がヒット。アルバム﹃2 Hot﹄は1979年初頭に6週間2位、プラチナムとなる。次作﹃Twice the Fire﹄はゴールドを獲得し、シングル﹃Roller Skate Mate (Part 1)﹄﹃I Pledge My Love﹄がヒットした。﹃恋のサバイバル﹄の大ヒットとディスコブーム終焉[編集]
1980年グロリア・ゲイナーの英米トップ﹃恋のサバイバル﹄で二度目のグラミー賞となる﹁最優秀ディスコ・レコーディング賞﹂を受賞した。Cake, Chantay Savage, ダイアナ・ロス、麻生よう子や布施明がカバーした。その後ディスコ狂時代は去り、グラミー賞﹁最優秀ディスコ・レコーディング賞﹂は1回限りで廃止された。後期[編集]
最後にニュー・エディションの1986年ドゥーワップ・アルバム﹃Under the Blue Moon﹄を制作。 1990年代にボーイズIIメンが﹃It's So Hard to Say Goodbye to Yesterday﹄をポップ2位R&Bトップにし、アイルランドのアイドル・グループWestlifeの1998年のカバーもヒット。イギリスの911は﹃More Than A Woman﹄をタヴァレス・バージョンで英二位。 1993年、重い心臓発作をわずらい、11年後の2004年に61歳でロサンゼルスのChatsworthの自宅で死去。遺体はハリウッドの丘のForest Lawn Memorial Parkに埋葬された。参照[編集]
- ^ Staff. "Freddie Perren", Contemporary Black Biography:Profiles from the International Black Community, p. 122. en:Gale (publisher), 2007. ISBN 0-7876-7932-1. Accessed August 19, 2011. "At Dwight Morrow High School, Perren was a member of the marching band, the orchestra, and sang in the chorus."
外部リンク[編集]
- Freddie Perren - IMDb :202の映画サウンドトラック・クレジット一覧表
- フレディー・ペレン - Find a Grave
- :bmr誌による死亡記事