マキノ登六
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マキノ 登六︵-とうろく、1910年4月8日 - 1932年6月7日︶は、日本の俳優である。本名は林 喜一郎︵はやし きいちろう︶、マキノ家の人間ではない。当初は片岡 十六︵かたおか とうろく︶を芸名とし、マキノ 十六︵-とうろく︶、嵐寛寿郎プロダクションでは片岡 市太郎︵かたおか いちたろう︶と名乗った[1]。
来歴・人物
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1910年︵明治43年︶4月8日、京都市に生まれる。下京区中立売通猪熊通下ルの京都市立聚楽小学校︵1997年に西陣中央小学校に統合されて廃校︶を卒業、旧制東山中学校に在学、天然色活動写真を経て、1923年︵大正12年︶に牧野省三のマキノ映画製作所に入社した[1]。まだ13歳のときであった。
﹁マキノ・プロダクション﹂設立後の1926年︵大正15年︶には、井上金太郎のオリジナル脚本による監督作﹃喧嘩日記﹄で、主演のマキノ正唯︵のちのマキノ正博︶の友人役を、﹁片岡十六﹂名義で、滝沢憲︵のちの映画監督滝沢英輔︶や玉木潤一郎︵のちの映画プロデューサー︶とともに演じている。
1927年︵昭和2年︶、牧野省三に認められ、﹁マキノ登六﹂となる。翌1928年︵昭和3年︶、マキノ家の人間ではないが﹁マキノ﹂姓を戴いた五人組﹁マキノ青年派﹂を結成した。
●マキノ潔 ︵のちの春本富士夫︶
●マキノ久夫 ︵のちの菊本久夫︶
●マキノ登六
●マキノ政美
●マキノ梅太郎
マキノ青年派結成第1作﹃神州天馬侠﹄は同年2月3日に公開され、同年中に全4作が製作された。その後も多く主演を張った[1]。
マキノ・プロダクション解散直前の1931年︵昭和6年︶3月13日に公開された主演作﹃ぴんころ長次﹄に主演したのち、東活映画社を経て、同年12月、嵐寛寿郎の嵐寛寿郎プロダクションに入社する。﹁片岡市太郎﹂名義で、山中貞雄の監督デビュー作﹃磯の源太 抱寝の長脇差﹄︵1932年︶などに出演する[1]。
1932年︵昭和7年︶春、マキノ正博の日活京都撮影所入社に際し、入社第1作の﹃七人の花嫁﹄に出演する予定であったが、同年6月7日、急性肺炎で死去[1]。22歳没。出演叶わなかった同作は、没後10日の6月17日に公開された。
おもなフィルモグラフィ
[編集]- 喧嘩日記 1926年 監督・脚本井上金太郎、原作秋篠珊次郎、主演マキノ正唯(マキノ正博) ※「片岡十六」名義
- 神州天馬侠 1927年 監督曾根純三、原作吉川英治、脚本椎名良太、主演マキノ青年派
- 崇禅寺馬場 1928年 監督マキノ正博、原作・脚本山上伊太郎、主演南光明
- ぴんころ長次 1931年 監督マキノ正博、原作・脚本中川信夫 ※主演作
- 磯の源太 抱寝の長脇差 1932年 監督・脚本山中貞雄、原作長谷川伸、主演嵐寛寿郎 ※「片岡市太郎」名義
註
[編集]外部リンク
[編集]- マキノ登六 - 日本映画データベース
- 片岡市太郎 - 日本映画データベース(144.以降)
- Tôroku Makino - IMDb