レナート・ドゥルベッコ
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(リナート・ダルベッコから転送)
Renato Dulbecco レナート・ドゥルベッコ | |
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![]() レナート・ドゥルベッコ(1966) | |
生誕 |
1914年2月22日![]() |
死没 |
2012年2月19日 (97歳没)![]() |
国籍 |
![]() |
研究分野 | ウイルス学 |
研究機関 |
カリフォルニア工科大学 ソーク研究所 |
出身校 | トリノ大学 |
博士課程 指導学生 | ハワード・マーティン・テミン |
主な業績 | 逆転写酵素 |
主な受賞歴 |
アルバート・ラスカー基礎医学研究賞(1964) ノーベル生理学・医学賞(1975) |
プロジェクト:人物伝 |
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レナート・ドゥルベッコ︵伊: Renato Dulbecco、1914年2月22日 - 2012年2月19日︶はイタリア出身のウイルス学者。アメリカ・イギリスなどで活動しているため、英語風にリナート・ダルベッコと呼ばれることも多い。腫瘍ウイルスの研究により1975年度ノーベル生理学・医学賞を受賞した。
略歴[編集]
カラブリア州カタンザーロ生まれ。トリノ大学でジュゼッベ・レーヴィに医学を学び、研究生活に入る。ここでサルヴァドール・ルリアとリータ・レーヴィ=モンタルチーニに会い親交を結んだ。1940年第二次世界大戦が勃発すると軍医として召集されてフランス・ロシアの前線に派遣され、負傷した。ファシスト政権崩壊後はレジスタンス運動に参加した。 戦後研究を再開したが、まもなくレーヴィ=モンタルチーニとともにアメリカへ渡り、ルリアとともにインディアナ大学︵ブルーミントン︶でバクテリオファージの研究を始めた。1949年にカリフォルニア工科大学に移ってマックス・デルブリュックのグループに加わった。さらにここで動物ウイルス、特に腫瘍ウイルスの研究を始めた。1952年には培養細胞を用いた動物ウイルスのプラーク定量法を導入した。 1950年代後半にはハワード・テミンが学生となる。1962年にはソーク研究所に移り、ここではデビッド・ボルティモアや利根川進を指導している。1972年にはイギリス王立がん研究所に移る。 1975年にテミン、ボルティモアとともにノーベル賞を受賞。1986年には他の研究者とともにヒトゲノムプロジェクトの立ち上げに加わった。1993年にはイタリアに帰り、CNR生物医学研究所︵ミラノ︶所長を務めた。 ドゥルベッコのグループは、腫瘍ウイルスと呼ばれるウイルスが正常細胞に感染すると、ウイルス由来の遺伝子が細胞のゲノムに取り込まれ、これが形質転換︵細胞レベルのがん化︶の原因になることを明らかにした。腫瘍ウイルスは人間の一部のがんの原因ともなる。また一部の腫瘍ウイルス︵レトロウイルス︶では、遺伝子の取り込みの第一段階は逆転写酵素︵RNAからDNAへの転写を行う︶によることが、テミンとボルティモアによって明らかにされた。これが彼ら3人のノーベル賞受賞理由となっている。 さらにレトロウイルスの持つ遺伝子によく似たがん遺伝子は正常細胞にもあり、これが一般の発がんにも関係することが後に明らかにされた。このようにドゥルベッコの発見は、その後のがんに関する研究すべての基礎となっている。 ポール・バーグ︵1980年ノーベル賞︶、リーランド・ハートウェル︵2001年ノーベル賞︶もダルベッコ研究室に長期滞在している[1][2]。 2012年2月19日、カリフォルニア州サンディエゴ市ラホヤ地区の自宅で死去[3]。97歳没。受賞歴[編集]
- 1964年 - アルバート・ラスカー基礎医学研究賞(ハリー・ルービンと共に)
- 1967年 - パウル・エールリヒ&ルートヴィヒ・ダルムシュテッター賞
- 1973年 - コロンビア大学よりルイザ・グロス・ホロウィッツ賞(ハリー・イーグル、シオドア・パックと共に)
- 1975年 - ノーベル生理学・医学賞(ハワード・テミン、デビッド・ボルティモアと共に)
脚注[編集]
- ^ ダルベッコと師匠ルリア、ルリアの弟子ワトソン、ダルベッコの弟子ボルティモア、テミン、バーグ、テミン、利根川と師弟関係で8人ものノーベル賞受賞者が出ている。
- ^ 「ダルベッコ先生 環境整え口は出さず」私の履歴書 利根川進⑫ 日本経済新聞2013年10月12日
- ^ Renato Dulbecco, Nobel Winner in Physiology-Medicine, Dies at 97 NYtimes 2012年2月21日閲覧