レオポルト・アウアー
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レオポルト・アウアー Leopold Auer | |
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基本情報 | |
出生名 | アウエル・リポート(Auer Lipót) |
生誕 |
1845年6月7日![]() |
死没 |
1930年7月15日![]() |
職業 | ヴァイオリン奏者、指揮者、作曲家 |
レオポルト・アウアー︵Leopold Auer, マジャル語ではアウエル・リポート︵Auer Lipót︶。1845年6月7日 - 1930年7月15日︶は、ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリン奏者、教育者、指揮者、作曲家である。
経歴[編集]
ヴェスプレームに生まれ、ブダペストとウィーンでヤーコプ・ドントらからヴァイオリンを学び、ハノーファーでヨーゼフ・ヨアヒムに師事した。 1868年からサンクトペテルブルクに移り、1917年までペテルブルク音楽院で教鞭を執る。1918年にアメリカ合衆国に移り、最後はフィラデルフィアでカーティス音楽院の教壇に立った。 ドレスデン郊外のロシュヴィッツに客死し、ニューヨーク州ハーツデールのファーンクリフ墓地に埋葬された。レパートリー[編集]
多くの作曲家から作品を献呈されており、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲もその一つであったのだが、そのときにアウアーは演奏を断わっている。この曲を演奏不可能と考えたためであったが︵またはチャイコフスキーが自分にではなく、別人に作曲の助言を受けていたことに立腹したためとも言われる︶、後に考え直し、この曲を演奏するようになった。 販売用のレコード録音は行わなかったが、生徒に配布する為にSP盤片面をアメリカヴィクターで2枚録音︵チャイコフスキーのメロディー、ブラームスのハンガリー舞曲第1番︶した。そのレコードの一曲目は生徒4人に、二曲目はその他の生徒に後に配布したのみで、本人物故後に日本ビクターのマネジャーが未亡人を訪ねたが、この時には一般発売は断られ、LP普及後にやっと許可が出て復刻されるに及んだ。教育活動[編集]
弟子たち[編集]
アウアーは最も重要なヴァイオリン教師の一人として知られており、多くの有名なヴァイオリニストが子供時代からアウアーの指導を受けた。その中に、ボリス・シボー、エフレム・ジンバリスト、ミッシャ・エルマン、ナタン・ミルシテイン、トーシャ・ザイデル、ヤッシャ・ハイフェッツ、ベンノ・レビノフ、エディ・ブラウン、キャスリン・パーロー等がいる。教育方針[編集]
生徒が自分で考えることを重視しており、生徒の演奏でうまくいかない箇所があったときは、すぐに解決法を示すのではなく﹁なぜ今はっきりしていなかったかわかるかい?﹂と尋ねた[1]。同様に、エチュードは自分自身で考案することを推奨していた[2]。 また、トーシャ・ザイデルによれば、アウアーの門下生たちは毎日すべての重音で音階練習をしていた[2]。作曲[編集]
アウアーは数少ないがヴァイオリン曲を作曲している。その中にはヴァイオリンとピアノのための﹁ハンガリー狂詩曲 Rhapsodie hongroise﹂がある。また、多くの作曲家のヴァイオリン協奏曲︵ベートーヴェンとブラームスのものを含む︶のためにカデンツァを作った。著書に﹃Violin Playing as I Teach It ﹄(1920)、﹃My Long Life in Music ﹄(1923)などがある。親族[編集]
ジャズ・ヴィブラフォーン奏者のヴェラ・アウアーは姪。俳優のミッシャ・アウアー︵ミシャ・オウア;本名はミッシャ・ウンスコフスキー︶は孫にあたる。参考文献[編集]
●フレデリック・H・マーテンス著、角英憲訳﹃ヴァイオリン・マスタリー 名演奏家24人のメッセージ﹄全音楽譜出版社、2017年、ISBN 978-4-11-810141-5。脚注[編集]
(一)^ マーテンス (2017)、28頁。 (二)^ abマーテンス (2017)、30頁。外部リンク[編集]
●レオポルト・アウアーの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png)