井上三綱
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井上 三綱︵いのうえ さんこう、1899年1月15日 - 1981年5月19日︶は、日本の画家。元国画会会員。海外の展覧会にも多く作品を出品した。日本と西欧の要素が融合する神秘的な画風で知られる[1]。
来歴[編集]
福岡県八女郡︵現・筑後市︶の宝満宮竈門神社の神官の家に生まれた[2]。1916年︵大正5年︶、福岡県小倉師範学校に入学。在学中に画家を志し、卒業後、郷里で小学校の教諭をしながら制作を続ける。22歳の頃、恩師の勧めで上京。本郷絵画研究所に学んだのち、1923年︵大正12年︶から同郷の先輩の坂本繁二郎に師事した。 1926年︵昭和元年︶、酒匂尋常高等小学校︵現・小田原市立酒匂小学校︶に赴任。同年、第7回帝展︵現・日本美術展覧会︶に﹁牛﹂が初入選。以後7回帝展・新文展に出品した。1930年︵昭和5年︶、牧雅雄について彫刻も学び、日本美術院展に彫刻作品を2度︵第15回、16回︶出品した。 1931年︵昭和6年︶、小田原の芸術家たちとともに相州美術会︵現・西相美術協会︶を結成。美術展を開催するなど地域の美術の発展にも力を尽くした[2]。 1944年︵昭和19年︶、造形芸術社から﹃万葉画集﹄を刊行。1945年︵昭和20年︶には﹁古事記屏風﹂を制作。その翌年から箱根町の早雲寺に参禅した。 1950年︵昭和25年︶にイサム・ノグチの訪問を受け、また、ジャパンタイムズ美術記者のエリーゼ・グリリーを知り、制作上の自信を得て同年の第24回展から国画会展に出品した。 1951年︵昭和26年︶、小田原市入生田︵いりうだ︶の長興山にアトリエを構え、生涯を終えるまでこの地で過ごす。同年の25回展に﹁たいくつした牛﹂﹁水辺の馬﹂を出品し、国画会会員に推挙された。 1953年︵昭和27年︶、第2回日本国際美術展に﹁農﹂他1点、1954年︵昭和29年︶、第1回日本現代美術展に﹁第一の日﹂﹁牛小屋﹂を出品した。 1955年︵昭和30年︶、ニューヨークのブルックリン展に前年作の﹁裸婦群像﹂﹁浴後﹂を出品。1957年︵昭和32年︶にはサンパウロのビエンナーレ展に﹁しゃがみかけた牛﹂と﹁驚﹂を出品。また、ニューヨーク近代美術館における国際水彩展にも出品した。イサム・ノグチのほかにロバート・オッペンハイマーやベン・シャーンからもその実力を認められる。 1961年︵昭和36年︶、国画会を退会し、以後無所属となる。1962年︵昭和37年︶、筑後市の桑鶴区納骨堂に壁画﹁天女と手漉和紙作りの図﹂を描いた[3]。 1974年︵昭和49年︶、東京セントラル美術館で屏風絵による個展を開催した。国展への出品作に﹁海辺の牛﹂︵第26回︶、﹁まるまげの女﹂︵第30回︶、﹁はたおり﹂︵第31回︶、﹁働く女﹂︵第34回︶などがある。 1981年︵昭和56年︶1月15日、小田原市の自宅で死去[4]。82歳没。展覧会[編集]
●﹁井上三綱展 : 生誕100年記念﹂︵平塚市美術館、1998年4月25日 - 6月7日︶[5] ●﹁湘南と作家Ⅰ 井上三綱 線描と文字の芸術展﹂︵平塚市美術館、2008年7月25日 - 9月28日︶[6] ●﹁受贈記念特別展 井上三綱―入生田のアトリエから―﹂︵松永記念館、2012年8月4日 - 9月17日︶[7]出版物[編集]
●﹃万葉画集﹄造形芸術社、1944年。 ●﹃井上三綱 : 画集﹄美術出版社、1959年6月。脚注[編集]
(一)^ “﹁騎士団長殺し﹂舞台、沸く小田原 題材?の人・梅林…”. 朝日新聞. (2017年3月17日) 2017年3月17日閲覧。
(二)^ ab#03 世界が注目した小田原の画家 井上三綱小田原市公式ホームページ
(三)^ 井上三綱と桑鶴納骨堂壁画|筑後市公式ホームページ
(四)^ 井上三綱 :: 東文研アーカイブデータベース
(五)^ 井上三綱展 : 生誕100年記念 (平塚市美術館): 1998|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
(六)^ TAB イベント - ﹁湘南と作家Ⅰ 井上三綱 線描と文字の芸術﹂展
(七)^ 小田原市 | 記者発表資料﹁井上三綱氏の作品を寄贈~記念特別展を開催﹂
参考文献[編集]
- 東京国立文化財研究所美術部編『日本美術年鑑 昭和57年版』大蔵省印刷局、1982年3月、276頁。