今川義彰
表示
今川義彰 | |
---|---|
時代 | 江戸時代 |
生誕 | 宝暦6年(1756年)[1] |
死没 | 文政元年8月17日(1818年9月17日)[1] |
改名 | 彦松(幼名)→義幹→義彰 |
別名 | 刑部、主馬(通称) |
戒名 | 賢亮院殿英忠雄威大居士[2] |
墓所 | 長延寺 |
官位 | 従四位下、侍従、丹後守 |
幕府 | 江戸幕府奥高家 |
氏族 | 清和源氏足利氏流今川氏 |
父母 | 父:今川義泰 |
妻 | 小笠原政方の娘 |
子 | 義用 ほか |
生涯
[編集]
高家今川義泰の長男として生まれる。初名は義幹︵よしより︶。
安永2年︵1773年︶8月15日、将軍徳川家治に御目見する。天明4年︵1784年︶4月5日、父義泰の死去により家督を相続する。﹃寛政重修諸家譜﹄編纂時の今川家当主である。
享和2年︵1802年︶12月20日に高家職に就き、従五位下・侍従に叙任され、丹後守を称した。文化14年︵1817年︶3月11日には光格天皇譲位・仁孝天皇受禅に際して、将軍家斉・世子家慶の名代として京都に派遣され、その褒賞として4月28日に従四位下に昇進する。
文政元年︵1818年︶8月17日死去、享年63。
系譜
[編集]
﹃寛政重修諸家譜﹄は子女として義用と養女を載せる。長延寺過去帳によると実子は2男3女。家督を継いだ義用以外の1男3女は夭折し、死去日と法名しかわからない。また、今川の遠い同族である瀬名貞如の娘を養女としている。いずれも長延寺に葬られている。
父母
●父‥今川義泰
●母‥盛寿院︵某氏︶
妻
●正室
旗本小笠原政方︵5000石︶の五女。宝暦9年︵1759年︶生まれ、安永8年︵1779年︶7月8日に縁組。天保3年︵1832年︶5月29日、74歳で没し長延寺に葬られる。法名‥栄寿院殿繁室良昌大禅定尼。
子女
●今川義用
●養女‥早知
旗本瀬名貞如︵500石︶の三女。寛政7年︵1795年︶11月20日没。法名‥梅芳院殿南窓妙枝大姉。
●娘
安永8年︵1779年︶1月25日没。法名‥幻了童女。
●娘
安永9年︵1780年︶10月29日没。法名‥炉雪禅童女。
●娘
天明5年︵1785年︶7月13日没。法名‥秋露禅童女。
●子
天明5年︵1785年︶8月14日没。法名‥影輪禅童子。
参考文献
[編集]- 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)