佐藤尚中
表示
![]() |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d0/Sato_Takanaka.jpg/240px-Sato_Takanaka.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/75/Satotakanaka.jpg/240px-Satotakanaka.jpg)
佐藤 尚中︵さとう たかなか、さとう しょうちゅう、1827年5月3日︵文政10年4月8日︶- 1882年︵明治15年︶7月23日︶は、幕末から明治初期の蘭方医。幼名を竜太郎、舜海と称し、笠翁と号す。佐藤泰然の弟子でのちに養子となる。下総国小見川︵現・千葉県香取市︶出身。東京順天堂の第2代堂主、順天堂医院の初代院長。生年については諸説ある。
略歴
[編集]
●1827年 小見川藩藩医の山口甫僊の次男として生まれる。
●1842年︵天保13年︶、江戸四谷の医者安藤文沢に蘭方医学を学ぶ。文沢の勧めで和田泰然︵のち佐藤泰然︶の﹁和田塾﹂入門。
●1843年佐藤泰然に同行し佐倉に移り住んだ。
●1853年︵嘉永6年︶、佐藤泰然の養嗣子、佐倉藩医となる。この後、偉人となる。
●1859年︵安政6年︶、順天堂第二代堂主となる。
●1860年︵万延元年︶、長崎で1年余りポンペ・ファン・メーデルフォールトにオランダ医学を学ぶ。
●1867年︵慶応3年︶、佐倉藩に﹁佐倉養生所﹂開設。
●1868年︵慶応4年︶、戊辰戦争のため閉鎖。
●1869年︵明治2年︶明治政府の要請により﹁大学東校︵現・東京大学医学部︶﹂に勤め大博士・初代校長となる。
●1870年︵明治3年︶、明治天皇の侍医長となる。
●1872年︵明治5年︶、佐々木東洋らと共に日本初の私立病院﹁博愛舎﹂を設立。
●1873年︵明治6年︶、下谷練塀町に順天堂を開院。
●1875年︵明治8年︶、私立の﹁順天堂医院﹂開設、初代院長。
家族・親族
[編集]
●妻‥サダ︵高橋忠三郎の次女︶
●後妻‥ナホ(城氏)
●養嗣子‥進︵妻・サダの甥︶
●長女‥志津︵養嗣子・進の妻。女子美術学校長︶
●長男‥百太郎︵ニューヨークで実業家︶
●次女‥藤︵三宅艮斎の長男・三宅秀の妻︶
●次男‥哲次郎︵1860-1929︶ ‐ 東金町の薬種業大野家の婿養子となり9代目大野伝兵衛を襲名する。大野家は東金を代表する豪商のひとつで、6代目の伝兵衛︵秀澄、1750-1825︶の代に小児薬﹁一角丸﹂を製造販売し巨富を得た。その孫の8代目伝兵衛︵秀頴、1830-1876︶は東金領主の福島藩 主板倉家の御用金御用達頭取となり、さらに山林を拓いて茶園も経営し、﹁東嘉園﹂の名を有栖川宮熾仁親王より賜り、茶の輸出も行なった。11代藩主板倉勝長から名字帯刀を許され、水戸徳川家の出入りも許された。東金に郵便局を設立し、死後は娘婿の哲次郎が受け継いだ。哲次郎は合資会社大野銀行を創立し、千葉県農工銀行の取締役も務めた。[1][2][3][4]
●養子‥舜海(前名大道、旧名岡本道庵。後年、佐倉順天堂主となる。妻は佐藤進の実妹トシ)
●養子‥佐(旧名‥井上虎三)
●三女‥楽(佐藤佐の妻)
●三男‥衛(のち母の実家・城氏を継ぐ。米国工学士)
●四女‥梅尾(佐藤進の養女になり、佐藤恒久(旧姓松下)の妻・佐藤清一郎の養母)
●五女‥幸(佐藤進の養女となり、日本鋼管創設者の一人・今泉嘉一郎の妻に)
●四男‥福待(幼名華江(はなえ)。米国写真学士・東京で写真館主)
●五男‥潤家(ますえ)(大滝富三の養子となる。子息は紀雄)
脚注
[編集]- ^ 大野伝兵衛『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 大野伝兵衛(六代秀澄)(豪商)東金市/東金市デジタル歴史館
- ^ 大野伝兵衛(八代秀頴)(豪商・俳人)東金市/東金市デジタル歴史館
- ^ 大野銀行東金市/東金市デジタル歴史館