何其鞏
表示
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/47/He_Qigong2.jpg/200px-He_Qigong2.jpg)
何 其鞏︵か ききょう、繁体字: 何其鞏; 簡体字: 何其巩; 拼音: Hé Qígŏng; ウェード式: Ho Ch'i-kung、1898年︵清光緒24年︶[1] - 1955年︶は、中華民国の政治家・教育者。国民政府統治下の初代北平︵北京︶市長である。1936年から10年以上にわたり中国大学校長代理も務めた。字は克之。安徽省安慶府桐城県の人。
事績[編集]
桐城県立中学、安徽省立蕪湖甲種農業学校で学ぶが、いずれも学生デモに参加したために除籍処分を受けている。[2]後に北京市北京で教員となり、さらに﹃正言報﹄の記者も務めた。1925年︵民国14年︶に馮玉祥が西北辺防督弁に任命されると、何其鞏はその秘書に起用されている。さらに馮の命令によりソビエト連邦に視察に向かい、帰国後は綏遠都統公署秘書長に任ぜられた。[3][4] 1926年︵民国15年︶、馮玉祥が﹁赤化﹂批判に耐えかねて下野、ソ連へ向かう際には、何其鞏もその機要秘書として随従している。同年に馮らは帰国し、五原誓師を行うと、何は国民聯軍総司令部秘書長に起用された。1927年︵民国16年︶5月、北伐に際して第2集団軍総司令部秘書長に改組され、翌月には豫南行政長官兼民団軍軍長に異動、その後も国民革命軍第2集団軍総司令部内防処処長、中国国民党河南省党部整理委員、国民政府顧問、中央政治会議開封分会委員などを歴任している。1928年︵民国17年︶6月、国民政府統治下の初代北平特別市市長に抜擢され、1年間その任にあった。翌年、首都建設委員会委員に転じ、1931年︵民国20年︶8月からは地元の安徽省に戻り省政府委員、省教育庁庁長、省財政庁庁長を歴任している。[4][5] 1933年︵民国22年︶5月、何其鞏は行政院駐平政務整理委員会委員兼秘書長に起用された。翌月には華北区救済委員会委員となり、1935年︵民国24年︶12月には冀察政務委員会委員に任命されている。翌1936年︵民国25年︶10月に北平中国学院︵後に中国大学と改称︶校長代理として招聘された。1937年︵民国26年︶以降、北平は日本側︵中華民国臨時政府︶の支配下となる。何は北平に留まったものの、臨時政府からの公職就任要請を拒絶し、中国大学校長代理としての職務に専念した。[6][4][7] 戦後、何其鞏は軍事委員会駐北平特派員として起用された。1947年、10年以上務めた中国大学校長代理の職務を退いている。中華人民共和国建国後も北京市に留まり、1955年に同地で病没した。享年58。[4][7]注[編集]
(一)^ 徐主編︵2007︶、669頁とWho's Who in China 4th ed. (1931), p.132による。劉国銘主編︵2005︶、1108頁は﹁1899年﹂としている。
(二)^ 徐主編︵2007︶、669頁による。劉国銘主編︵2005︶、1108頁は安徽公学、江淮大学で農業や政治経済を学んだとしている。
(三)^ 劉国銘主編︵2005︶、1108頁。
(四)^ abcd徐主編︵2007︶、669頁。
(五)^ 劉国銘主編︵2005︶、1108-1109頁。
(六)^ 何其鞏は、現在の中国でも一般には﹁漢奸﹂と見なされていない。
(七)^ ab劉国銘主編︵2005︶、1109頁。
参考文献[編集]
●徐友春主編﹃民国人物大辞典 増訂版﹄河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。 ●劉国銘主編﹃中国国民党百年人物全書﹄団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。 ●劉寿林ほか編﹃民国職官年表﹄中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。 ![]()
|
---|