傅説
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文献
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﹃史記﹄によると、武丁がある夜、夢に﹁説﹂という名前の聖人を見たため、役人に探させたところ、傅険という名の岩屋で罪人として建築工事にたずさわっているのが発見された。傅険で見つかったので傅を姓としたという[2]。傅説を用いることで、衰えていた殷はふたたび盛んになり、武丁は高宗とよばれるようになった[3]。
﹃国語﹄には、武丁が夢に見た人間の姿を描いて役人に探させ、傅説を得て公となし、自分に対して諫言させたという[4]。
﹃荀子﹄は、傅説がせむしであったと伝える[5]。
清華簡「傅説之命」
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﹃書経﹄に説命︵えつめい︶篇があるが、これは後世の偽書である。近年清華簡の中から戦国時代の本物の説命︵傅説之命︶が発見され、その内容は現行の説命とかなり異なっていた。それによると、傅説ははじめ失仲という人に仕えていた。殷王は傅説の夢をみて、役人に探させたところ、傅巌で城壁を築いていた傅説を弼人が発見した。天は傅説に失仲を討たせた。王は傅説を公に就任させ、訓戒を与えた[6]。
傅説がいた場所について、﹃墨子﹄尚賢下に﹁北海之洲、圜土之上﹂と記し、﹃史記﹄殷本紀の﹃集解﹄が引く﹃尸子﹄も傅巌が﹁北海之洲﹂にあるとする。清華簡﹁傅説之命﹂にも﹁北海之州、圜土﹂と記しており、これらに合致する︵圜土は監獄をいう︶。
脚注
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(一)^ ﹃荘子﹄大宗師﹁傅説得之︵=道︶、以相武丁、奄有天下、乗東維、騎箕・尾、而比於列星。﹂
(二)^ ﹃史記﹄殷本紀﹁武丁夜夢得聖人名曰説、以夢所見視群臣百吏、皆非也。於是廼使百工営求之野、得説於傅険中。是時説為胥靡、築於傅険。見於武丁。武丁曰﹁是也。﹂得而与之語、果聖人、挙以為相、殷国大治。故遂以傅険姓之、号曰傅説。﹂
(三)^ ﹃史記﹄封禅書﹁後十四世、帝武丁得傅説為相、殷復興焉、稱高宗。﹂
(四)^ ﹃国語﹄楚語上﹁昔殷武丁︵中略︶如是而又使以象夢求四方之賢、得傅説以来、升以為公、而使朝夕規諫、曰‥若金、用女作礪。若津水、用女作舟。若天旱、用女作霖雨。啓乃心、沃朕心。若薬不瞑眩、厥疾不瘳。若跣不視地、厥足用傷。﹂
(五)^ ﹃荀子﹄非相﹁傅説之状、身如植鰭。﹂
(六)^ 金城未来﹁清華簡﹃説命﹄の文献的特質 : 天の思想を中心に﹂﹃待兼山論叢 哲学篇﹄第47巻、大阪大学大学院文学研究科、2013年、1-16頁、ISSN 0387-4818。