元恂
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経歴
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483年︵太和7年︶、生母の林氏は北魏の慣例︵子貴母死︶により、死を賜った。このため元恂は文明太后に養育された。493年︵太和17年︶7月、11歳で皇太子に立てられた。
孝文帝が南朝斉に遠征するにあたって、元恂は新都の洛陽の留守を任された。しかし元恂は河南の暑熱を嫌って、北方の地を懐かしがった。胡服の着用について高道悦にしばしば諫められ、このため高道悦を憎んだ。496年︵太和20年︶、元恂は平城に逃れ、高道悦を禁中に召し出して手ずから誅殺した。
驚いた孝文帝は汴口から引き返し、元恂を引き立ててその罪を数え、咸陽王元禧が元恂に杖刑を与えた。元恂は城西別館に拘禁され、孝文帝は群臣を清徽堂に召し出して太子の廃位を議論させた。太子の教導にあたった穆亮や李沖は冠を脱いで陳謝し、孝文帝も﹁大義親を滅す﹂と言って太子の廃位を決め、庶民に落とさせた。孝文帝が長安に行幸したとき、中尉の李彪は元恂が謀反を計画していると上表し、孝文帝は咸陽王元禧と邢巒を派遣させ、元恂は河陽で毒殺︵賜死︶された。享年15。
家族
[編集]- 婚約者:馮氏(馮誕の長女)
- 側室:左孺子劉氏、右孺子鄭氏