北伐
表示
北伐︵ほくばつ︶は、中国では、一般的に、南方から軍隊を動かし北方勢力と戦うことを言う[1][2]。普通は、1920年代の中国国民党による﹁北伐﹂、とりわけ蔣介石が指導した﹁北伐﹂を指すことが多い[1][2]。
歴史上の北伐[編集]
秦・漢[編集]
●蒙恬の北伐︵前214年︶、秦の蒙恬による匈奴に対する軍事行動。 ●項梁の北伐︵前208年︶、楚の項梁による秦に対する軍事行動。項梁は、秦の章邯に敗北し斬首された。「定陶の戦い」を参照
「鉅鹿の戦い」を参照
「漢の対匈奴戦争」を参照
・漢の宣帝の北伐︵前103年~前71年︶、漢の宣帝による匈奴に対する軍事行動。漢は烏孫や烏桓の協力の下、匈奴を撃破した。
三国[編集]
●曹魏 ●曹操の烏桓に対する北伐︵206年~207年︶、曹操による袁尚・袁煕と烏桓に対する軍事行動。「白狼山の戦い」を参照
・孫呉
●合肥の戦い︵208年~253年︶、孫権︵一次・二次︶・呉︵三次~五次︶による曹操︵一次・二次︶・魏︵三次~五次︶に対する軍事行動。
・蜀漢
●関羽の北伐︵219年︶、関羽による曹操に対する軍事行動。関羽は孫権の攻撃で敗死した。
「樊城の戦い」を参照
・諸葛亮の北伐︵228年~234年︶、蜀の諸葛亮による魏に対する軍事行動。
・蔣琬による北伐︵未遂︶︵238年~244年︶、蜀の蔣琬による魏に対する侵攻計画。蔣琬の病気や費禕らの反対もあり実行されずに終わった。
・姜維の北伐︵238年~262年︶、諸葛亮の遺志を継いだ蜀の姜維による魏に対する軍事行動。
東晋・南北朝[編集]
●祖逖の北伐︵320年︶、東晋の祖逖による西晋の失地回復のための軍事行動。「北伐 (東晋)」を参照
「北伐 (東晋)」を参照
「北伐 (東晋)」を参照
「北伐 (東晋)」を参照
「北伐 (東晋)」を参照
●また、後秦を滅亡させた軍事行動を﹁西征﹂と呼ぶ。
・北魏の太武帝の北伐︵429年~449年︶、北魏の太武帝による北方遊牧民に対する反撃、柔然に対する七次にわたる軍事行動。
・元嘉年間の北伐︵430年、450年、452年︶、元嘉年間に南朝宋の文帝により実施された河南回復ための北魏に対する軍事行動。
・梁の武帝の北伐︵505年︶、梁の武帝による北魏に対する軍事行動。
・陳慶之の北伐︵528年~529年︶、梁の武帝が北魏での六鎮の乱勃発に乗じて陳慶之に命じた北魏に対する軍事行動。
・陳の宣帝の北伐︵573年︶、陳の宣帝による淮南回復のための北斉に対する軍事行動。
隋・唐[編集]
五代[編集]
●後周の世宗の北伐︵959年︶、後周の世宗柴栄による燕雲十六州のうちの瀛州及び莫州回収のための、遼︵契丹︶に対する軍事行動。北宋[編集]
●雍熙年間の北伐︵986年︶、雍熙年間に北宋の太宗による燕雲十六州奪還のための、遼︵契丹︶に対する軍事行動。 ●宋の真宗の北伐︵1004年︶、北宋の真宗が寇準の建議に応じて親征した、遼︵契丹︶に対する軍事行動。「澶淵の盟」を参照
・宣和年間の北伐︵1122年~1123年︶、宣和年間に北宋の徽宗により実施された遼︵契丹︶に対する軍事行動。
南宋[編集]
●岳飛の北伐︵1134年~1140年︶、岳飛による北宋の失地回復のための、金に対する軍事行動。 ●張浚の第一次北伐︵1136年︶、張浚による北宋の失地回復のための、金に対する軍事行動。 ●張浚の第二次北伐︵1163年︶、隆興年間、完顔亮殺害に乗じ、失地回復のために張浚により実施された、金に対する軍事行動。 ●開禧年間の北伐︵1206年︶、開禧年間に韓侂冑が主導した領土回復を目的とした、金に対する軍事行動。 ●端平入洛︵1234年︶、南宋とモンゴル帝国の攻撃で金を滅し、南宋が西京河南府を回復した軍事行動。元[編集]
●紅巾党の北伐︵1357年~1362年︶、元に対する軍事行動。明[編集]
●徐達の北伐︵1367年~1369年︶、徐達と常遇春の指導する明の軍隊による元に対する軍事行動。この間、トゴン・テムルはモンゴル高原に撤退し、以降、歴史上、北元と称される。 ●朱元璋の北伐、明の朱元璋による北元に対する八次にわたる軍事行動︵1370年、1372年、1380年、1381年、1387年、1387年~1388年、1390年、1396年︶。 ●永楽帝の北伐、明の永楽帝による北元の残余勢力たるタタール・オイラト・ウリャンハイに対する軍事行動。1409年、1414年、1422年、1423年、1424年の五次にわたり親征が実施された。 ●英宗の北伐︵1449年︶、明の英宗によるオイラトに対する軍事行動。英宗は土木堡で俘虜となった。「土木の変」を参照