吉弘統貞
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吉弘統貞 | |
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 七左衛門(通称)、統久、統定 |
戒名 | 一岳 |
主君 | 大友氏、立花宗茂 |
藩 | 筑後柳河藩 |
氏族 | 吉弘氏 |
父母 |
吉弘鎮信、臼杵鑑速娘玉流院妙泉 養父:臼杵鎮定 |
兄弟 |
統幸、田北鎮生(統員)[1]、統貞、 林クインタ[2]、大友親家室[3]、 戸次統常室、橋津伊兵衛室 |
妻 | 臼杵鎮続娘 |
子 | 茂勝[4]、光西寺[5]室 |
吉弘 統貞︵よしひろ むねさだ︶は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。大友氏の家臣。後に柳河藩士。従兄弟に立花宗茂、立花直次。
略歴[編集]
大友家臣吉弘鎮信の子、のち臼杵鎮定の養子となった。父子とも大友義統に仕えて、文禄・慶長の役にも出陣したが、義統がこの戦役の最中に改易されると、大友氏を退出して上洛した。鎮定はその後行方不明。 浪人になった統貞は豊後国に住していた際、従兄弟の立花宗茂に召し出されて30人扶持を与えられて柳河藩士となる。吉弘姓を復した。脚注[編集]
(一)^ 田北鎮周の跡は吉弘氏から婿養子に入った田北鎮生︵しげなり、のち統員に改名︶が継承した︵実子の鎮述︵しげのぶ、日差城主︶は早世していたものと思われる︶。鎮周の戦死後の天正8年︵1580年︶、田北氏の惣領であった紹鉄が反乱を起こし討伐されると、統員が田北氏の家督を継承し、のち豊薩合戦の際に佐伯惟定と共に島津軍と抗戦した。その後、主君の大友吉統が改易されると、統員は浪人して清成作平と改名し、寛永9年︵1632年︶には肥後国に移住して細川忠利に仕えたとされ、名を吉弘紹傳に改めた。統員の子・統生︵むねなり︶の家系は日差村の大庄屋として続いたともいわれている。﹃柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上﹄P.116 には茂吉、掃部助、法名紹傳だけで記述されている。﹃柳川の歴史4・近世大名立花家﹄P.426 吉弘氏系図 によると、始は田北平介と称す、子に吉弘治右衛門、池部彦允(彦左衛門、治右衛門。池部彦左衛門の養子)、吉弘傳左衛門、女子一名。
(二)^ ﹃志賀家系図﹄︵長崎歴史文化博物館蔵︶によると、林ジュリア︵元は吉弘鎮信側室、のちは大友宗麟の側室︶と吉弘鎮信の娘・林クインタ︵林ジュリアの連れ子として宗麟の養女となる︶。
(三)^ 大友吉弘氏系図によると、吉弘鎮信と側室・林ジュリア︵宗麟の室・奈多夫人の女中頭、のち宗麟の継室となった︶の女・利根河道孝室。﹃柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上﹄吉弘系図 P.116。隠された大友家の姫ジュスタ―﹁桑姫﹂再考
(四)^ 実は池部彦左衛門子﹃柳川の歴史4・近世大名立花家﹄P.426 吉弘氏系図
(五)^ 豊後府内