島田宮成
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島田 宮成︵しまだ の みやなり、生没年不詳︶は、奈良時代の貴族。姓は臣。官位は従五位下・周防守。
出自[編集]
島田臣は﹃新撰姓氏録﹄﹁右京皇別﹂に多朝臣と同祖で、神八井耳命の後なりと記されている。続けて、成務天皇の時代に、尾張国の島田の上下二県に悪神がいて、島田臣の先祖が派遣されて平服させ、島田臣の号を得た、と述べられている。 この﹁島田﹂は尾張国海部郡島田郷︵現在の愛知県あま市七宝町・美和町付近の地名によるものだとされている[1][2]。経歴[編集]
桓武朝の延暦2年︵783年︶正月、天皇の詔により、筑紫広島・津真道らとともに、正六位上から外従五位下に昇叙している。彼らが早朝から深夜まで公事に励み、つつしみ勤めておこたることがなかった、という理由からである。同年11月12日、吉弥侯横刀の後任の上野介に任命される[3]。 同4年︵785年︶10月、右京亮になり[4]、翌5年︵786年︶9月29日、畿内の班田使が派遣された際には、大和国の右次官として職務に従事した。この時の右長官は佐伯久良麻呂。同7年︵788年︶3月、従五位下に叙爵され、同時に石川宿奈麻呂の後任の周防守に就任した[5]。官歴[編集]
﹃続日本紀﹄による。- 時期不詳:正六位上。
- 延暦2年(783年)正月20日:外従五位下。11月12日:上野介
- 延暦4年(785年)10月12日:右京亮
- 延暦5年(786年)9月29日:大和国班田右次官
- 延暦7年(788年)3月21日:従五位下・周防守