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この項目では、広島県佐伯郡にあった自治体について説明しています。広島市西区にある地区については「己斐」をご覧ください。 |
己斐町︵こいちょう︶は、かつて広島県佐伯郡に存在した町である。1889年︵明治22年︶の町村制発足時には﹁己斐村﹂として設置されたが、1911年︵明治44年︶町制を施行して己斐町となり、1929年︵昭和4年︶4月1日、広島市に編入合併して消滅した。
●旧町域は現在の己斐︵﹁己斐﹂を冠する広島市西区の各町︶にほぼ相当する。
●己斐川(山手川の下流名)︵現在は拡幅され太田川放水路︶を挟んで広島のデルタ︵福島町・観音町など︶と向かい合う位置にあり、三方を山に囲まれる。町のほぼ中心を己斐川が流れ、先述の福島川に注いでいる。
●広島市のほか、安佐郡三篠町・長束村︵のち祇園町の一部︶・伴村︵のち沼田町の一部︶・石内村︵のち五日市町の一部︶・古田村・草津町に隣接していた︵現在はいずれも広島市に編入され、三篠町・草津町・古田村は西区、長束・伴2村は安佐南区、石内村は佐伯区の、それぞれ一部となっている︶。
地名の由来[編集]
﹁己斐﹂は鎌倉時代以来の歴史ある地名で、その由来についてはいくつかの説がある。一つは神功皇后が長門の熊襲族征討に際してこの地に立ち寄ったとき、県主が大きな鯉を献上したので﹁鯉村﹂と称したというもの︵国郡志下調書出帳︶、﹁山間の村﹂を意味する﹁峡村﹂︵かひむら︶が変化したというもの︵秋長夜話︶、古くは﹁許斐﹂とも書いたことから筑前宗像の﹁許斐神社﹂と何らかの関係を有するというもの︵芸藩通志︶、などである。
中世・近世[編集]
中世においてこの地は近隣の草津・古江・山田・井口と同様に厳島神社の社領であり、同社神領衆である己斐氏が己斐城に居城し村を支配していた。その後安芸守護家の武田氏、ついで大内氏が進出し、天文23年︵1554年︶、草津城と同様毛利氏の攻撃により落城し、毛利支配下に入った。この頃から村には町屋が形成されていた。
藩政期、己斐村は己斐橋を通って隣の古江村に抜ける西国街道沿いに賑わった。特産としては花卉盆栽が有名であり、近接する広島城下への行商や奉公・出稼ぎが盛んであった。
1889年︵明治22年︶、町村制発足により佐伯郡己斐村が発足、1897年︵明治30年︶には村内を通る山陽鉄道︵現在のJR山陽本線︶の広島 - 徳山が開通すると己斐駅︵現在の西広島駅︶が開業した。同駅は乗降客も多く、1906年︵明治39年︶には乗合馬車組合が設立され広島市内および郊外︵廿日市方面︶の路線を運行した。1911年︵明治44年︶には町制施行により佐伯郡己斐町と改称、1912年︵大正元年︶には広島市内から広島電軌︵現在の広島電鉄︶の路面電車線が己斐まで延長され己斐駅が開業した。電車線は1922年︵大正11年︶に至って己斐から草津まで延伸︵現在の広島電鉄宮島線︶、己斐は広島西部の陸上交通の玄関口としての位置を占めるに至った。これらを背景に町民の職業は専業農家が極めて少数となったのに対し商工業が多数を占めるようになり、広島市内への通勤者のための郊外住宅地としての性格が強くなった。その一方で江戸時代以来の植木・盆栽・花卉類の栽培は相変わらず盛んであった。そして1929年︵昭和4年︶の広島市への編入合併に至る。
●1889年4月1日 ‥ 町村制発足により佐伯郡己斐村を設置。
●1911年10月1日 ‥ 町制を施行し佐伯郡己斐町と改称。
●1929年4月1日 ‥ 広島市に編入し消滅。旧町域は同市﹁己斐町﹂となる。
近世以来の﹁己斐村﹂がそのまま町村制による己斐村︵己斐町︶に移行したため大字は編成されなかったが、比較的大きな集落の名として、﹁本町﹂︵現在の西広島駅東口周辺︶・﹁紅葉谷﹂︵現在の己斐中三丁目付近︶・﹁中郷﹂︵現在の己斐上三丁目付近︶などがある。