市川百十郎
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市川 百十郎︵いちかわ ひゃくじゅろう、1882年︵明治15年︶5月15日 - 1969年︵昭和44年︶2月21日︶は、明治時代から昭和時代に活躍した歌舞伎役者、旅芸人。
岐阜県各務郡大宮村︵現・各務原市蘇原大島町︶出身。本名は加藤劔作[1]。
概略
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●歌舞伎のみならず、連鎖劇︵トーキー映画と舞台劇を組み合わせた劇︶を歌舞伎に取り入れ、東海一の歌舞伎と称された。
●昭和初期には旅一座を結成し、各地を巡業する。
●1930年︵昭和5年︶に故郷の大島︵当時稲葉郡蘇原町大字大島︶に立寄ったさい、境川放水路の工事の話を聞き、翌年、工事による犠牲者への鎮魂の意を込めて桜の植樹を行った。これが後の百十郎桜のきっかけとなった。
●戦後は故郷に戻り、地元の人々に歌舞伎や劇を教えたという。
略歴
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●1897年︵明治30年︶ - 3代目中山喜楽に弟子入り。中山楽枝を名乗る。後に喜楽の兄弟子の市川八百蔵の門下となる[2]。
●1912年︵大正元年︶ - このころ、市川百十郎を襲名する。
●1919年︵大正8年︶ - 連鎖劇を始める。この事が評判となる。
●1931年︵昭和6年︶ - 吉野桜1,000本を寄附し、故郷の境川放水路の堤防に地元住民と協力して植樹する。
●1932年︵昭和7年︶ - 前年に続き、吉野桜200本を寄附。
●1932年︵昭和7年︶ - 旅一座﹁市川百十郎一座﹂を旗揚げ。
●1944年︵昭和19年︶ - ﹁市川百十郎一座﹂を解散する。
●1946年︵昭和21年︶ - 故郷に戻る。以降は各地を巡業する傍ら、地元の人々に演劇指導をする。