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後撰和歌集 巻十二
﹃後撰和歌集﹄︵ごせんわかしゅう︶は、村上天皇の下命によって編纂された二番目の勅撰和歌集。950年代成立。体裁は﹃古今和歌集﹄に倣い、春︵上・中・下︶、夏、秋︵上・中・下︶、冬、恋︵六巻︶、雑︵四巻︶、離別︵附 羇旅︶、賀歌︵附 哀傷︶の20巻からなり、総歌数は1425首。離別歌と羇旅歌とを、賀歌と哀傷歌とを併せて収めた所が独特である。
後撰和歌集には、古今和歌集のような序文が付されていないため、その成立年時は不明である。だが、天暦5年︵951年︶10月、宮中の昭陽舎︵梨壺︶に撰和歌所が置かれ、その寄人に任命された源順・大中臣能宣・清原元輔・坂上望城・紀時文︵以上、梨壺の五人︶が中心となって﹃万葉集﹄の訓詁と新たな勅撰集の編纂に当たり、藤原伊尹が別当となってそれを統括した旨、史書[1][2]に見えるので、遅くとも天暦末年には奏覧されたと見られる。奥村恒哉[3]は、作者名の表記の仕方から、天暦9年から天徳2年︵958年︶の間に成立したとする。また山口博[4]は、天暦7年︵953年︶10月28日に皇太后藤原穏子により昭陽舎で菊合が開かれており、穏子は翌年昭陽舎で没していることから、その頃には完成していたとしている。しかしいずれの説も定説とはなっていない。
また、序文がないことや詞書が物語的であること、部立てと配列の乱れ、歌の重出などから、後撰和歌集が﹁未定稿﹂であったとする説が古来からあり、藤原清輔や北村季吟、中山美石などが主張している。村瀬敏夫[5]は、天徳4年︵960年︶9月23日に内裏の火災があり、その際に奏覧本︵正式な本︶が炎上したために、草稿本が流布し後世に伝来したのではないかとしている。
前代の古今集と違うのは、撰者の歌がない点である。﹃古今集﹄撰進から40余年しか経っていないこともあり、紀貫之︵81首︶・伊勢︵72首︶・藤原兼輔︵24首︶ら、古今時代の歌人が再び主役を演じた。入集を果たした当代歌人の中で、上位は藤原師輔・同実頼・同敦忠などで、権門の作が多く採られているが、中務・右近ら当代の女流歌人の活躍も見られる。また、歌物語の影響を受けてか、詞書が長文化した。これについては上記のように﹁未定稿﹂であるため、物語的な詞書が残ったとする見解がある[6]。宇多法皇や藤原時平、仲平と伊勢との間の贈答をはじめとする贈答歌など、貴人の日常生活に基づいた﹁褻︵け︶の歌﹂が多いのもこの集の特色である。
(一)^ 源順 ﹃本朝文粋 巻十二 奉行文﹄、pp.342.新日本古典文学大系本。
(二)^ ﹁後撰和歌集 藤原定家天福2年書写本書入定家勘物﹂、p.443.﹃新日本古典文学大系本﹄。
(三)^ 奥村恒哉校注・解説﹁八代集1﹂、平凡社東洋文庫参照。
(四)^ 山口博 ﹃王朝歌壇の研究﹄、桜楓社。
(五)^ 村瀬敏夫 ﹃平安朝歌人の研究﹄、新典社研究叢書、1994年。
(六)^ 片桐洋一解説 (岩波書店、1990)
- 勅撰和歌集
- 舟橋蒔絵硯箱 - 源等の歌「東路の 佐野の舟橋 かけてのみ 思ひわたるを 知る人ぞなき」(恋二 619)を蓋の意匠に取り入れている。