徳川斉温
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徳川 斉温 | |
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文政2年5月29日(1819年7月20日) |
死没 | 天保10年3月20日(1839年5月3日) |
改名 | 直七郎(幼名)→斉温 |
諡号 | 僖公 |
戒名 | 良恭院殿譲譽盛徳源僖大居士 |
墓所 | 名古屋市東区筒井の徳興山建中寺 |
官位 | 従二位・権大納言 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
藩 | 尾張藩主 |
氏族 | 尾張徳川家 |
父母 |
父:徳川家斉、母:戸田政方娘・青蓮院 養父:徳川斉朝 |
兄弟 | 清湛院、家慶、敦之助、峰姫、斉順、浅姫、虎千代、元姫、斉明、文姫、斉荘、盛姫、池田斉衆、溶姫、和姫、松平斉民、末姫、喜代姫、斉温、松平斉良、永姫、斉彊、松平斉善、蜂須賀斉裕、松平斉省、松平斉宣、泰姫ら26男27女 |
妻 |
正室:徳川斉匡十四女・琮樹院 継室:近衛基前養女・俊恭院 |
子 | 養子:斉荘 |
徳川 斉温︵とくがわ なりはる︶は、江戸時代後期の大名。尾張藩11代藩主。官位は従二位・権大納言。12代将軍・徳川家慶は異母兄。13代将軍・徳川家定、14代将軍・徳川家茂の叔父にあたる。
生涯[編集]
11代将軍・徳川家斉の十九男として誕生した。母は側室・お瑠璃の方︵青蓮院︶。幼名は直七郎。 文政5年︵1822年︶6月13日、従兄にあたる徳川斉朝の養子になった。文政10年︵1827年︶8月15日、斉朝の隠居を受け、9歳で家督を相続した。 倹約令を出して尾張藩の財政の建て直しなどに尽力し、凶作に苦しんだ領民に救恤米を施したといわれる。しかし、天保7年︵1836年︶に福君の入輿の際に華美な行列を行ったことや、天保9年︵1838年︶に江戸城西の丸再建に際して9万両と木曾檜を献上したことなどにより、財政が更に悪化した[1]。また、無類の鳩好きで、江戸藩邸に数百匹の鳩を飼育し、全ての鳩に名前をつけており、世話役の藩士は苦しみ藩費も浪費した。餌代を誤魔化して不正を働く家臣もいた。侍読の石川魯庵は斉温を諌め、物に執着して志を失う義を申し立てたところ、斉温は即座に鳩を解き放ったという。斉温には諫言を聞き入れる素直さがあり、また家臣と共に講義を聞くほど学問好きであった[2]。 病弱の故をもって江戸藩邸に常住し、襲封後21歳で死去するまでの12年間、尾張藩領内に一度も入ることがなかった。 死去に際して実子がなく、異母兄の斉荘が養子となって家督を相続した。官職および位階等の履歴[編集]
※日付=旧暦
●1822年︵文政5年︶6月13日、尾張藩主徳川斉朝の養子となる。
●1826年︵文政9年︶5月28日、元服し、父である将軍徳川家斉から偏諱を与えられ斉温と名乗る。従三位に叙し、左近衛権中将に任官。
●1827年︵文政10年︶8月15日、藩主となる。
●1830年︵文政13年︶4月18日、参議に補任。
●1831年︵天保2年︶12月1日、権中納言に転任。
●1837年︵天保8年︶8月28日、従二位に昇叙し、権大納言に転任。
●1839年︵天保10年︶3月20日、薨去。法名は良恭院殿譲譽盛徳源僖大居士。諡は僖公。墓所は名古屋市東区筒井の徳興山建中寺。
系譜[編集]
●父‥徳川家斉 ●母‥青蓮院 - お瑠璃の方、戸田政方の娘 ●正室‥琮樹院 - 愛姫、徳川斉匡の十四女で従姉妹にあたる ●継室‥俊恭院 - 福君、定子、近衛基前の養女、鷹司政煕の娘 ●養子‥徳川斉荘 ー 徳川家斉の十二男脚注[編集]
- ^ 工藤寛正 編『徳川・松平一族の事典』東京堂出版、2009年
- ^ 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X