技術知
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技術知︵ぎじゅつち、英語: techne[1][2]、古代ギリシア語: τέχνη︹technē[3], tekhnē[4]︺、ラテン語: ars︹アルス︺[5]︶またはテクネー、テクネとは、古代ギリシアで尊重されていた﹁制作活動一般に伴う知識や能力﹂のこと[6]。﹁技術﹂とも和訳されており[4]、古代ギリシア哲学では技術は本質の、または真のロゴス︵理知︶を持っている[6]。技術︵テクネー︶は学術・芸術・知識︵エピステーメー︶[6][7][5]や制作的な理知︵ロゴス︶・能力等も指す[6]。また、テクネーは英訳で﹁アート﹂︵芸術︶や﹁スキル﹂︵技能︶ともされる[2]。
ソクラテスとプラトンとアリストテレスは、金儲け術[8][9][10]・政治技術[11][12]・職人芸[13][14]・学問をも技術の一部として論じている[15][16]。アリストテレスいわく、技術は本質的に﹁美﹂と﹁善﹂において、自然との共通点がある[17][注 1]。
「ムーサ/ミューズ(技芸神)」、「ピタゴラスと音楽」、「アルキメデスの発見と発明」、「カドゥケウス/ケーリュケイオン」、「古代ギリシア文学」、「古代ギリシア演劇」、および「宇宙的音楽/天球の音楽」も参照
概要[編集]
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﹁技術﹂という言葉の語源はギリシア語のテクネー︵technē︶やラテン語のアルス︵ars︶で、﹁わざ、業、技、芸﹂を意味する[5]。厳密には、︽技術︾という概念は1870年代まで﹁芸術﹂や﹁技芸﹂と呼ばれていた[5]。
プラトンの﹃ゴルギアス﹄によると、技術︵テクネー︶とは︽本質についての理論的知識︵ロゴス︶を持つ働き︾である[6]。アリストテレス哲学では、技術は︽知識 エピステーメー︾と同義であるとされる[7][18]。特にアリストテレスの﹃ニコマコス倫理学﹄によると、技術は︽真の理知︵ロゴス︶を伴う制作能力︾である[6]。すなわち技術は単なる知的能力ではなく、︽学問的かつ経験的で普遍的かつ個別的な真理認識の能力︾だとされる[6]。ハイデッガーの著名な解釈によると、ここでの﹁技術﹂とは︽制作による一定の真理解明︾︵エントベルゲン Entbergen︶だと言う[6]。
技術の理論性・最善性[編集]
哲学者・倫理学者の中澤務は、プラトンの﹃ゴルギアス﹄の中でソクラテスが論じた、技術と非技術︵追従︶の違いをまとめている[11]。追従 | |
---|---|
「理論を欠いた熟練」によって快楽を目指すもの/ 技術へと忍び込み、技術であるかのように「擬態」しているもの | |
例: | |
技術 | 「理論の力」によって最善を目指すもの |
例: |
ソクラテスはこうも述べている[19][20]。
前者︹追従︺の、快楽を目指す仕事は、卑しいものであり、追従以外のなにものでもない。 …
これに対して、後者︹技術︺の仕事は、高貴なものであり、身体であっても魂であっても、ぼくたちの世話するものが、できるだけよいものになることを目指しているのだね。[19]
次のような場面を考えてみてほしい。ぼくたちは、国の公共事業に携わるつもりでいるのだが、建築事業を手がけたらいいと、互いに勧めあっている。それは、城壁とか造船所とか神殿といった、とても重要な建築物を作る仕事だ。さて、そのようなとき、ぼくたちは、ぼくたち自身について、よく調べてみる必要があるのではないだろうか。 …
ほかのすべての場合にも、これと同じことがいえるのではないだろうか。たとえば、ぼくたちが、公共の仕事に携わろうとして、自分たちは十分に資質のある医者だと考え、互いに勧めあうとしよう。だが、そのためには、ぼくたちはまず、よく調べておかなければならないだろう。ぼくはきみを、そして、きみはぼくをね。 …
ぼくたちは、﹇公の仕事に就くまえに﹈まず個人的にたくさんの仕事をいろいろとやって、たくさんのことをうまくできるようにして、その技術に十分に習熟しなければならないのだ。[20]
ソクラテスの技術論[編集]
例‥アリストテレスの技術論[編集]
例:
理論性[編集]
アリストテレスはこう述べている[30][38]。
技術とは、真なるロゴス︵分別︶をそなえた、制作にかかわる性向なのである。[39]
あらゆる技術は﹇物事の﹈生成にかかわる。すなわち技術は … 物事をどのように生み出すのかについて、技術的に取り組み理論的に思索することにかかわっているのである。[40]
ロゴス︵分別︶こそ正しく、また最善の事柄へと向かうように人を促してくれるものだ … 。[38]
大工や靴職人には或る一定のはたらきや行為があるのに、人間にはそうした一定のはたらきは何もなく、人間は本来無為なものなのだろうか? …
人間のはたらきは、ロゴス︵分別︶に基づく、もしくはロゴスぬきにはないような、魂の活動であるとしてみよう。[14]
アリストテレスが言うには、われわれは﹁技術の領域で達人の域に達した﹂人々を﹁知恵﹂ある人と呼んでいる[16]。たとえばパルテノン神殿などを制作した﹁知恵ある彫刻家﹂や、﹁知恵ある彫像作家﹂が居る[16]。同時にわれわれは、特定の分野に限らず全体的に賢い人を﹁知恵﹂ある人だとも考えている[16]。つまり﹁知恵﹂とは﹁さまざまな学問的知識のなかでも、達人の域に達したもの﹂であるという[16]。
ソクラテスは﹁きちんとした説明もできないようなものを、技術と呼ぶつもりはない﹂[41]。彼はこうも述べている[21]。
医術は、自分が世話しているものについて、その本性も、自分が施す治療の根拠も、よく研究している。だから医術は、それらのいずれについても、きちんと説明することができる。[21]
一方で料理のような追従は、﹁すべて快楽に向けてなされる﹂[21]。追従は、快楽についての本性も根拠も研究しようとせず、全く理論を持たない[21]。﹁それはたんに、たいていの場合こうなるということを、熟達と熟練を通して記憶し、それによって快楽を提供しているにすぎないのだ﹂[21]。またソクラテスは、弁論も技術ではなく、弁論家はどの分野でも専門家でないと論じている[42]。
国が集会を開いて、医者や造船技師といった、さまざまな専門家を選考する場合、弁論家が意見を述べるなどということは、まさかありませんね。
なぜって、当然、それぞれの選考ごとに、その技術に最も長けたひとが選ばれるべきなのですから。
また、城壁の建造とか、港や造船所の建設について決めるときにも、意見を述べるのは、弁論家ではなくて建築技師でしょう。 さらに、軍司令官の選出とか、敵に対する軍の布陣とか、敵陣の占領などについて審議がなされる場合でも、そのとき意見を述べるのは、軍事に精通したひとたちであって、弁論家ではないでしょうね。[42]
しかしそれにもかかわらず、多くの人々はすぐれたことを為さないまま﹇ただの言葉による﹈議論へと逃れて、自分は知恵を愛している︹哲学をしている︺と思い、そんなやり方ですぐれた人間になれると思っているのである。 だがこれは、医者の言うことに注意深く耳を傾けながらも、医者が処方したことを何ひとつ実行しない患者と、同じようなことをしているだけなのである。[44] ソクラテスはこう述べる[13]。 すぐれた人物は最善を目指して語るが、なにを語るにしても、でたらめにではなく、なにかを見すえながら語るのではないだろうか。 たとえば、職人たちはみな … でたらめな素材を選んで組み立てていくようなことはせずに、自分の作品が一定のかたちを持つように製作するのだ。 もしよければ、具体例として、画家でも、建築技師でも、造船技師でも、あらゆる職人のなかから好きなものを選んで、調べてみてほしい。 それぞれの職人は、それぞれが作る作品に一定の秩序を与えている。すなわち、作品の諸部分が互いに適合して調和するように強制し、作品全体を秩序のある調和したものに仕上げるのだ。 こうした職人たちのなかには、さっきぼくたちが話していた、身体に関わる職人たちもいる。すなわち、体育教師と医者だ。彼らは、身体に調和と秩序を与えているのだ。[13] 建築を学んだ人が建築家であり、演奏家や医者も自分の専門分野を学んだ人であるとソクラテスは言う[45]。 知識というものが、おのおののひとを、そうした者にしてくれるわけです。 … これと同じ理屈によって、正しい事柄を学んだひとが、正しいひとですね。[45]
もちろん、もし何か恥ずかしい仕事をしようとしているのなら、そんなことはしないで、むしろ死を選んだほうがよいだろう。しかし … 人は誰でも自分が知っている仕事であればこそ、もっともたやすく、もっとも速く、もっとも立派に、またもっとも楽しく行うものだ﹂。 ﹁だから﹂とソクラテスは続けた。﹁ためらうことなく、君自身にも彼女たちにも利益になる仕事を勧めてやるといい。きっと喜んで聞き入れてくれるから﹂。[54] ソクラテスの助言を聞き入れたアリスタルコスは、資金を借りて羊毛を買い入れ、親族を統率し仕事をさせた[55]。その後ソクラテスを訪問したアリスタルコスは、自分たちが事業経営で成功して生活苦から抜け出せたことを嬉しそうに語ったという[56]。 アリストテレスは﹃ニコマコス倫理学﹄でこう述べている[10]。 すべての思案は探究である。[57] おそらく、思案の対象となりうるのは、愚かな人や狂気の人が思案するものではなくて、知性をそなえた人が思案するものだと言わねばならないだろう。 … われわれが思案するのは、われわれの手によって生じはするが、しかしつねにまったく同じように生じるわけではない事柄についてである。たとえば、医術にかかわる事柄や金儲け術にかかわる事柄は、思案の対象である。 …
たとえば財貨を必要としているのにそれを用意できない場合のように、もし不可能な事柄に出くわしたら、人々は思案の営みをそこで停止する。しかし、もし可能であることが明らかになれば、それを為そうと企てるのである。 … 或る時には道具が探究され、また或る時には道具の使い方が探究される。[10] 共同体では全てが金銭に換算され、計測されることになる[58]。 共同体のフィリア︵友好︶においては、履物職人に対して靴の価値に応じて支払いが為され、織物職人やほかの職種の人々に対しても同じように為される … 。 こうして、この共同体のフィリア︵友好︶においては、貨幣が共通の尺度として供給されている。そして貨幣にすべてが換算されて、すべてのものがこれを尺度に測られるのである。[58] アリストテレスは、支払いとその見返りについても論じている[59]。 物惜しみしない人は、自分の専門のことをよく知っている人に似ている。というのもこの人は、ぴったりの額を︽見極めることができ︾、大規模な出費を︽粛々とおこなうことができる︾からである。 … 物惜しみしない人のもろもろの出費は … 大規模であると同時に、成果にぴったり合ったものとなる … 。[59]
これに対して、壁画と装飾物なんかは、喜びを与えるよりもむしろ奪うほうが多いのだ﹂。[66] クセノフォンは次のようにも記している[65]。 もっともすぐれていて、もっとも神々に愛される人々とは、農耕においては農耕の仕事を、医療においては医療の仕事を、政治においては政治の仕事をうまくやる者たちである、と彼︹ソクラテス︺は言っていた。 他方、何一つうまくやらない者たちは、何の役にも立たないし、神々にも愛されない、と彼は言っていた。[65]
また、城壁の建造とか、港や造船所の建設について決めるときにも、意見を述べるのは、弁論家ではなくて建築技師でしょう。 さらに、軍司令官の選出とか、敵に対する軍の布陣とか、敵陣の占領などについて審議がなされる場合でも、そのとき意見を述べるのは、軍事に精通したひとたちであって、弁論家ではないでしょうね。[42]
最善性[編集]
アリストテレスは﹃ニコマコス倫理学﹄第1巻第1章で、次の通り書き出している[43]。 どのような技術も研究も、そして同様にしてどのような行為も選択も、なんらかの善を目指しているように思われる。それゆえ、善はあらゆるものが目指すものであるとする人々の主張はすぐれていたのである。[43] 邦訳者ら︵渡辺邦夫・立花幸司︶の訳注によると、ここでの﹁善﹂は、数学者兼天文学者兼哲学者エウドクソスなどの主張を指している[33]。前掲書の第1巻第10章では、アリストテレスはこう述べている[34]。 実際、真に善き人や思慮深い人とは、あらゆる運不運に立派に耐え、与えられた状況のもとにそのつど最善のことを為す人だとわれわれは思っている。 それはちょうど、すぐれた将軍がいまある軍隊をもっともうまく戦えるように用いたり、すぐれた革職人が与えられた革からもっともできの良い履き物を作ったりすることと同じである。 そして、同じことがほかのあらゆる技術にも当てはまる。[34] アリストテレスいわく、正義や節制は医術と同様である[44]。正義や節制を議論するだけで実行しない多くの人々は、医術的処方を聴くだけで実行しない患者に似ている[44]。 ﹁正しいことを為すことから正義の人になり、節制あることを為すことから節制の人になる﹂というあの説は、正しいのである。 …しかしそれにもかかわらず、多くの人々はすぐれたことを為さないまま﹇ただの言葉による﹈議論へと逃れて、自分は知恵を愛している︹哲学をしている︺と思い、そんなやり方ですぐれた人間になれると思っているのである。 だがこれは、医者の言うことに注意深く耳を傾けながらも、医者が処方したことを何ひとつ実行しない患者と、同じようなことをしているだけなのである。[44] ソクラテスはこう述べる[13]。 すぐれた人物は最善を目指して語るが、なにを語るにしても、でたらめにではなく、なにかを見すえながら語るのではないだろうか。 たとえば、職人たちはみな … でたらめな素材を選んで組み立てていくようなことはせずに、自分の作品が一定のかたちを持つように製作するのだ。 もしよければ、具体例として、画家でも、建築技師でも、造船技師でも、あらゆる職人のなかから好きなものを選んで、調べてみてほしい。 それぞれの職人は、それぞれが作る作品に一定の秩序を与えている。すなわち、作品の諸部分が互いに適合して調和するように強制し、作品全体を秩序のある調和したものに仕上げるのだ。 こうした職人たちのなかには、さっきぼくたちが話していた、身体に関わる職人たちもいる。すなわち、体育教師と医者だ。彼らは、身体に調和と秩序を与えているのだ。[13] 建築を学んだ人が建築家であり、演奏家や医者も自分の専門分野を学んだ人であるとソクラテスは言う[45]。 知識というものが、おのおののひとを、そうした者にしてくれるわけです。 … これと同じ理屈によって、正しい事柄を学んだひとが、正しいひとですね。[45]
技術の分類例[編集]
親切の技術[編集]
アリストテレスは、親切をする人と﹁職人﹂は同様だと言う[31]。相手が役立たないとか将来も役立ちそうにないとしても、人がその相手へ親切にするならば、それは相手への愛と慈しみである[37]。これは手工業や詩歌でも起きることであり、つまり作者は自分の作品を愛し慈しんでいる[31]。作者は、自分が愛し慈しんでいる――親切にしている――ものを作品として仕立てて、存在させている[31]。 すなわち、親切にする者とは言わば﹁作者﹂である[46]。親切にされる者は、﹁作品﹂のように仕立て上げられたから存在している[46]。また、﹁作者﹂と﹁作品﹂は同一であり得る[46]。︵古代ギリシア語では技芸[47]・芸術全般[48]・さまざまな時間芸術︵音芸術・詩の朗誦の芸術・舞踊など︶[47]・総合芸術が﹁ムーシケー﹂(mousike)と総称されている[48]。︶ つまり根本的には、人類が存在している――生活・活動している――ことは、互いに親切にして互いを存在させていることである[46]。﹁作品﹂︵自他︶は﹁作者﹂︵自他︶から親切にされ存在させられており、かつ、﹁作者﹂︵自他︶は﹁作品﹂︵自他︶へ親切にして存在させている[46]。 作品︹親切にされる自他︺は或る意味で、そうした活動において存在しているような、作者︹親切にする自他︺であるということである。 したがって、そのような作者︹親切にする自他︺は、自分の存在︹自分という作品︺を愛するがゆえに、作品︹親切にされる自他︺をも愛好するのである。つまり、このことは﹇人間としての﹈自然本性に根ざすことなのである。[46]金儲けの技術[編集]
ソクラテスは、人間を自由にする技術の一つとして金儲け術を挙げている[8]。 ひとを貧乏から解放するのは金もうけの技術であり、病気から解放するのは医術であるが、放埒や不正から解放するのは﹇正義を執行する﹈司法である … 。[8][注 2] ソクラテスの弟子にして歴史家であるクセノフォン[50]の回顧録﹃ソクラテスの思い出﹄によると、ソクラテスは経営的助言もしていた[51]。奴隷や職人が行う金稼ぎを蔑視する自由人アリスタルコスは、戦禍により親族の女性たちを養わねばならなくなって、共に困窮していた[52]。彼はソクラテスに相談を持ちかけた[53]。 ソクラテスは言った。﹁自由人であり、自分の身内でもあるから、その者たちは … 生計を立てるのに役立つことを知っていてそれに励む人︹奴隷・職人︺よりも、いっそうよい暮らしを送り、いっそう幸福に生きているというのかね? … 知るにふさわしいことを学び、学んだことを記憶し、身体を健康で強壮なものとし、生活の役に立つものを獲得し保全するのに、無為と怠慢は人の助けになるのに対して、労働と精進は何の役にも立たないと、そんなふうに君は感じているのかね? … 無為に過ごすのと、役に立つ仕事に励むのとでは、人間にとってどちらが節度のある振る舞いなのだろうか? …もちろん、もし何か恥ずかしい仕事をしようとしているのなら、そんなことはしないで、むしろ死を選んだほうがよいだろう。しかし … 人は誰でも自分が知っている仕事であればこそ、もっともたやすく、もっとも速く、もっとも立派に、またもっとも楽しく行うものだ﹂。 ﹁だから﹂とソクラテスは続けた。﹁ためらうことなく、君自身にも彼女たちにも利益になる仕事を勧めてやるといい。きっと喜んで聞き入れてくれるから﹂。[54] ソクラテスの助言を聞き入れたアリスタルコスは、資金を借りて羊毛を買い入れ、親族を統率し仕事をさせた[55]。その後ソクラテスを訪問したアリスタルコスは、自分たちが事業経営で成功して生活苦から抜け出せたことを嬉しそうに語ったという[56]。 アリストテレスは﹃ニコマコス倫理学﹄でこう述べている[10]。 すべての思案は探究である。[57] おそらく、思案の対象となりうるのは、愚かな人や狂気の人が思案するものではなくて、知性をそなえた人が思案するものだと言わねばならないだろう。 … われわれが思案するのは、われわれの手によって生じはするが、しかしつねにまったく同じように生じるわけではない事柄についてである。たとえば、医術にかかわる事柄や金儲け術にかかわる事柄は、思案の対象である。 …
たとえば財貨を必要としているのにそれを用意できない場合のように、もし不可能な事柄に出くわしたら、人々は思案の営みをそこで停止する。しかし、もし可能であることが明らかになれば、それを為そうと企てるのである。 … 或る時には道具が探究され、また或る時には道具の使い方が探究される。[10] 共同体では全てが金銭に換算され、計測されることになる[58]。 共同体のフィリア︵友好︶においては、履物職人に対して靴の価値に応じて支払いが為され、織物職人やほかの職種の人々に対しても同じように為される … 。 こうして、この共同体のフィリア︵友好︶においては、貨幣が共通の尺度として供給されている。そして貨幣にすべてが換算されて、すべてのものがこれを尺度に測られるのである。[58] アリストテレスは、支払いとその見返りについても論じている[59]。 物惜しみしない人は、自分の専門のことをよく知っている人に似ている。というのもこの人は、ぴったりの額を︽見極めることができ︾、大規模な出費を︽粛々とおこなうことができる︾からである。 … 物惜しみしない人のもろもろの出費は … 大規模であると同時に、成果にぴったり合ったものとなる … 。[59]
軍事費・兵站の技術[編集]
ソクラテスは商人の擁護もしている[60][注 3]。﹁金を蓄えること以外には何も知らない男﹂であるアンティステネスが将軍に選ばれたことを、ある隊長がソクラテスの前で非難し、以下のように続く[62]。 ソクラテスは言った。﹁それはよいことではないか? もし彼が、必要な物資を兵士に供給する力をもっているというのなら。 … アンティステネスは競争心も強いからね。これは将軍にはうってつけの資質だ。 … アンティステネスは歌も踊りも教えた経験がなかったが、それでもその道でもっとも腕の立つ人たちを見つけ出す力はあったのだよ。 … 戦争の場合にも、あの男がもっとも腕の立つ人たちを見つけて採用すれば、そこでもきっと勝利を収めるだろう﹂。[62]機械の技術[編集]
ソクラテスは、機械技師が一国全てを﹁救う﹂こともあると述べた[23]。 機械技師は、救うことにかけては、ときには、操舵手はおろか、軍司令官にも、ほかのだれにも負けない力を持つことがあるのだ。なにしろ、一国をまるごと救うことだってあるのだからね。 きみは、機械技師が法廷弁護士に比肩する存在だとは思わないって? だけどねえ、カリクレスくん、機械技師がその気になって、きみたちみたいなことを言い出したら、どうなるだろうね。 彼は、偉そうな態度で、自分の仕事の話をすることだろう。そして、きみたちを言葉で圧倒してしまうだろう。きみたちも機械技師になるべきだ、ほかの仕事などどれも無価値なんだからなんて言いながら、けしかけるのだよ。なにしろ、﹇経験豊かな﹈彼には、いくらでも話すことがあるのだからね。 … だれであろうが、自分と自分のものを救うことさえできれば、それこそが徳なのだとしたら。もしそうだとしたら、機械技師だろうが、医者だろうが、あるいは、なにかを救うために作られたほかのどんな技術だろうが、きみが難癖をつけるのは笑止千万だということになるよ。[23]帝国の技術︵帝王学︶[編集]
ソクラテスは帝王術︵原語では﹁バシリケー・テクネー﹂[63] basilikē technē[3]︶を、最も﹁立派な徳﹂かつ﹁偉大な技術﹂と見なしていた[25]。 ﹁ゼウスにかけて﹂とソクラテスは言った。﹁君が目指しているのは、もっとも立派な徳であるとともに、もっとも偉大な技術だ。それは王がもつもので、帝王術と呼ばれているのだから﹂。[25]技術者と哲学者[編集]
ソクラテスはどんな場合でも役立つ人だったと、クセノフォンは述べている[64]。 ソクラテスはあらゆる場合にあらゆるかたちで人の役に立ったので、この問題︹教育問題︺を考えてみる人に普通の洞察力があれば、ソクラテスと交際し、どこでもまたどんな場合にも彼と一緒に過ごすこと以上に有益なことはなかったということがわかるはずである。[64] ソクラテスは、﹁職人﹂にとっても﹁役に立った﹂人だった[65]。たとえばソクラテスは画家や彫刻家に助言していた他[28]、武具︵胸当て︶作りのピスティアスと対話した際には﹁あんたは実に正しく理解しているよ﹂と評価された[27]。 またソクラテスは、﹁美﹂と﹁有用﹂は同一だと論じており、それには住宅建築も含まれている[66]。 ﹁一言で言えば、あらゆる季節を通じて自分自身にとってもっとも快適な避難所であるとともに、自分の財産をもっとも安全に置いておける家が、当然ながら、もっとも快適でもっとも美しい住居ということになるだろう。これに対して、壁画と装飾物なんかは、喜びを与えるよりもむしろ奪うほうが多いのだ﹂。[66] クセノフォンは次のようにも記している[65]。 もっともすぐれていて、もっとも神々に愛される人々とは、農耕においては農耕の仕事を、医療においては医療の仕事を、政治においては政治の仕事をうまくやる者たちである、と彼︹ソクラテス︺は言っていた。 他方、何一つうまくやらない者たちは、何の役にも立たないし、神々にも愛されない、と彼は言っていた。[65]
技術と自然の共通点[編集]
アリストテレスによれば、自然も技術も本来的には美であり、善はそれを際立たせる[17]。
自然のものは、可能な限り美しくあることが自然本来のあり方であり、これと同様に、技術やいかなる原因によるものもそうである。
とくに、もっとも善い原因に基づくものは、きわだってそうである … 。[17]
「真善美」も参照
関連項目[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 『Weblio英語表現辞典』「技術知」
- ^ a b 『Merriam-Webster』"techne"
- ^ a b クセノフォン 2022, p. 索引.
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