文芸協会
表示
文芸協会︵ぶんげいきょうかい︶は、坪内逍遥、島村抱月を中心に結成された文化団体で、新劇運動の母体となった。
活動内容から、前期・後期に分けられている[1]。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ea/Hayashi_Chitose.jpg/220px-Hayashi_Chitose.jpg)
文芸協会演劇研究所2期生、林千歳
抱月らと逍遥が相談した結果、演劇を中心に再出発することになった。1909年、逍遥の自邸内に協会附属の演劇研究所を設置し、研究生を養成した。翌1910年、逍遥を会長とする演劇団体に改組した。1911年5月、演劇研究所の1期卒業生らが帝国劇場で﹃ハムレット﹄を演じ︵﹃ハムレット﹄完全上演は日本初︶、オフィーリア役を演じた松井須磨子が評判となった。同年11月、松井はイプセンの戯曲﹃人形の家﹄︵抱月訳︶のノラ役などで大当たりを取った。﹃人形の家﹄は﹁青鞜﹂︵1911年創刊︶とともに﹁新しい女﹂の象徴となった。
第5回公演を終えた頃、妻子ある抱月と松井須磨子の恋愛スキャンダルが発覚し、協会内が分裂の危機を迎えた。結局、抱月は辞任し、松井は退所処分となった。やがて、抱月は松井と共に芸術座を結成した。
1913年の﹃ジュリアス・シーザー﹄︵逍遥訳︶を最後に文芸協会は解散した。逍遥が演劇研究所の土地建物を処分して負債を整理した。
歴史[編集]
前期文芸協会[編集]
早稲田大学講師の島村抱月は1902年から1905年にかけて、欧州に留学した。その抱月の発案によって、1906年︵明治39年︶文芸協会が結成された。大隈重信を会頭とし、坪内は顧問的な立場で、復刊した﹁早稲田文学﹂︵第二次︶を機関誌にした。 当初は文学、美術、演劇などの革新を目指すとしていたが[2]、実際には演劇が中心になった。結成の1906年、歌舞伎座で﹃桐一葉﹄︵逍遥作︶、翌年本郷座で﹃ハムレット﹄︵逍遥訳、抜粋上演︶などを試演した。しかし、実態は素人の演芸会の域を出なかったようで、400円ほどの負債を残して活動を停止した。 ●第1回大会︵1906年11月、歌舞伎座︶ 桐一葉︵逍遥︶、ベニスの商人、常闇︵逍遥︶ ●第2回大会︵1907年11月、本郷座︶ 大極殿︵杉谷代水︶、ハムレット、浦島︵逍遥︶ - 夏目漱石﹃三四郎﹄第12章の﹁演芸会﹂のモデル。 翌1908年、小山内薫・市川左団次による自由劇場が始まった。後期文芸協会[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ea/Hayashi_Chitose.jpg/220px-Hayashi_Chitose.jpg)