日本の戦争犯罪一覧
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日本の戦争犯罪一覧︵にっぽんのせんそうはんざいいちらん︶は、日本および大日本帝国が行った行為のうち戦争犯罪行為と認定または主張される行為の一覧である。
凡例[編集]
日中戦争および太平洋戦争における該当行為については1945年に公布された国際軍事裁判所憲章(国際軍事裁判所条例︶で定義された戦争犯罪が極東国際軍事裁判などで適用されたもの、また公式に認定されていないが戦争犯罪として主張される行為も含む。 なおこれらの行為のうち、1948年に国際連合で採択されたジェノサイド条約で規定されたジェノサイド(集団構成員を殺すこと他の意味がある︶に該当するとして国際刑事裁判所(2003年に設置)などにおいて判定された事例はない。 戦争犯罪一般の事例については戦争犯罪を、日本の戦争犯罪に関する議論に関しては日本の戦争犯罪を、それぞれ参照。日清戦争[編集]
●旅順虐殺事件シベリア出兵[編集]
●イワノフカ事件︵抗日パルチザン(民間人偽装兵)掃討作戦中の民間人犠牲者︶日中戦争・太平洋戦争[編集]
日本軍が日中戦争・太平洋戦争において行った行為を下記に記す。アメリカ合衆国[編集]
●風船爆弾によるアメリカ市民の殺害事件[注 1] ●捕虜の虐待 ●大船収容所事件 ●バターン死の行進 ●﹁ヘルシップ﹂- 連合軍捕虜の海上移送に伴う大量死 ●搭乗員捕虜の殺害 - 戦犯︵民間人大量虐殺実行犯︶としての即時処分、民間人大量虐殺実行犯に対する住民による私刑、安楽死がある。 ●大阪憲兵隊事件[1]、ドーリットル事件 ●日吉村事件︵武士道裁判事件︶[1]、紙敷村事件[1]、能崎事件︵佐原町事件︶、東京立川憲兵隊事件[注 2] ●東海軍事件[1]、中部軍・中部憲兵隊事件[1]、東部軍一戸中佐事件[1]、青酸カリ捕虜毒殺事件[注 3] ●千住大橋事件︵東京上野憲兵隊事件︶、西部軍搭乗員斬首事件[注 4]、漢口連合軍航空機搭乗員虐殺事件[注 5] ●宮古島事件[1]、石垣島事件、喜界島事件[1]、台湾軍軍律裁判事件[1] ●小笠原事件 - 処刑後、さらに遺体を人肉食したとされる ●東京陸軍刑務所飛行士焼死事件︵搭乗員焼死事件︶ - 空襲時に捕虜を避難させなかったとされる ●東部憲兵隊事件 - 捕虜に十分な食事等を与えなかったとされる。軍医による薬物注射での重体者殺害を含む[1] ●高知憲兵隊事件 - 負傷した搭乗員捕虜の手当てを怠って死亡させたとされる[1] ●捕虜への人体実験 ●海軍生体解剖事件 ●九州大学生体解剖事件 ●パラワン島米兵捕虜焼殺事件︵en︶[注 6] ●マキン奇襲における捕虜殺害︵同作戦ではアメリカ軍による日本軍兵士に対する遺体凌辱事件も発生している︶ ●ウェーク島の戦いにおける捕虜処分 ●捕虜の強制労働 - 麻生鉱業#戦争捕虜問題など[3] ●橘丸事件イギリス・オーストラリア・英連邦諸国[編集]
●﹁サンダカン死の行進﹂と呼ばれる捕虜移送作戦時の死亡者。 ●香港の戦いにおける戦闘中の英軍捕虜処分。 ●セララン兵営事件 ●泰緬鉄道建設捕虜虐待事件 ●ビハール号事件 ●一宮町事件 ●聖ステファン中学校虐殺事件 ●アレクサンドラ病院事件 ●バンカ島事件 ●オーストラリア病院船セントー号︵en:AHS Centaur︶撃沈 ●カラゴン事件 ●シンガポール華僑粛清事件 ●双十節事件 ●アピ事件 ●マラッカ事件オランダ[編集]
●スマラン慰安所事件 ●フローレス島事件 ●マゲラン事件 ●櫻倶楽部事件 ●ジョンベル憲兵分隊事件 ●病院船﹁オプテンノール﹂の拘束、自沈。中華民国[編集]
●平頂山事件 ●南京事件 ●百人斬り競争 ●陽高事件 ●日本企業による強制労働︵花岡事件や西松建設事件)フィリピン[編集]
●マニラ大虐殺 ●バターン死の行進 ●慰安婦[注 7]︵戦時売春婦[注 8]︶ニューギニア[編集]
●スパイ、ゲリラ掃討作戦の過程で発生した原住民の殺害事件[注 9]フランス[編集]
●ランソン事件 仏印で日本軍が共同統治者であったフランス側に対して起こしたクーデターである明号作戦で、ランソン要塞で捕えた仏軍捕虜の殺害。謀計で捕らえたフランス側要塞司令官に部下を降伏させるよう迫ったものの拒否され、これを殺害。さらに、ランソン要塞の攻防ではフランス側は120人が戦死、降伏後には生存者と負傷者のうち立っていられる460人が虐殺されたという。 日本軍側責任者である当時連隊長であった大佐は、次期作戦のため即時転進を命じられており、要塞から脱出した仏兵や未降伏の他の要塞の兵が多数いたため、残置部隊の負担を軽くするために、捕虜を﹁遅滞なく処刑すべし﹂との命令を部下に出したと、戦後のサイゴン裁判での公判で語っている[5]。 大佐は作戦行動である旨を主張したが通らず、処刑命令の決定責任者として、また、部下の中隊長ら3人が処刑命令を伝えたとして死刑︵伝えたといっても、それぞれ配下の部隊に伝えて実行させたものであるため、実質、処刑実行の命令責任者である︶となった。なお、この事件の起訴状によれば、ドンダンでも同様の虐殺があったが、こちらは容疑者が特定できなかったとしている。その他の主張によるもの[編集]
戦争当時の日本国内[編集]
韓国[編集]
慰安婦問題に関する国際連合人権委員会などの主張によるもの[編集]
慰安婦制度における性暴力については、1996年1月に家庭内暴力を主要対象としたクマラスワミ報告の付属文書において取り扱われ、国連人権委員会に提出された。また、旧ユーゴスラビアでの戦争とルワンダ虐殺を主な報告対象とした1998年8月のマクドゥーガル報告書においても取り扱われた。2000年には民間の運動団体による民衆法廷である日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷が開かれた。2007年1月には米国下院でも非難決議がなされた。しかし、これらの報告書の事実認定の一部、また加害者側の吉田証言に虚構があったことも判明しており、議論が続いている(慰安婦参照)。
戦争犯罪ではないと指摘されることがあるもの[編集]
●南京事件 ●日本統治時代には朝鮮などで行われた皇民化政策が行われた ●平頂山事件等、満州国での抗日ゲリラによる日本人ないし施設への襲撃に対する報復として、日本軍がゲリラとの関連を疑った近隣集落等の住民の虐殺 ●朝鮮︵三・一独立運動など︶、台湾︵台湾抗日運動︶での独立・共産運動及び抗日組織に対する制圧・掃討作戦に伴う行為 ●731部隊[注 10] ●慰安婦制度における性暴力 - 2007年1月米国下院決議[注 7]。なお、一般的には自由意思に基づく売春婦だとする主張もある[注 8]。 ●チルボン島事件 ●強制連行・強制労働 - 自主的に出稼ぎに来た労働者であるという主張がある脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ピクニック中だった女性1人と子供5人が亡くなっている。 (二)^ 1945年8月8日、憲兵が立川で捕獲した連合国軍航空機搭乗員を、爆撃被害直後の住民たちの前で街中での引き回しを行った。翌日予想された住民の激した﹁殺せ﹂などの声に応じたとばかりに、捕獲搭乗員のうちの1人が目隠しをされ、手錠をはめられ、裸足のまま連れ出され、付近の学校まで再度街中を引き回された。子どもを含む800人以上の住民がその後に列をなして続き、捕獲搭乗員は学校で校庭の柱に縛りつけられ、憲兵隊は住民たちに代わる代わる竹刀や木刀による暴行を加えさせ、空襲警報によって中止を余儀なくされるまでおよそ2時間虐待が続いた。捕獲搭乗員は苦痛の限界に達して精神錯乱に陥ったまま墓地に連れて行かれて斬首された。憲兵隊は最後まで住民に様子を公開した。憲兵隊が住民の支持や人気を得ようと、街中で拷問虐待というショーを行ったとされる[2] (三)^ 大阪俘虜収容所桜島分所において、軍医が捕獲された逃亡捕虜に青酸カリを注射して殺害した。軍医は、中部軍司令官の﹁適当に処置しろ﹂という命令によったと主張した[2]。 (四)^ 1945年6月20日、8月10日、8月15日に起きた、西部軍管区における、爆撃や敗戦に対する怨嗟や復讐心とみられる斬殺事件。連合国航空機搭乗員33人が犠牲になった[2]。 (五)^ 1944年12月、捕獲された連合国軍航空機搭乗員3人が市中を引き回されて住民に嘲弄され、殴打と拷問を受けたあと、ガソリンをかけられて生きたまま焼殺された[2]。 (六)^ 1944年12月14日にフィリピン・パラワン島で139人の捕虜が日本軍により焼き殺された。地下防空壕に捕虜を押し込み、バケツでガソリンが注がれ、続いてたいまつが投げ入れられた。パラワン虐殺の生存者ユージン・ニールソンの娘、ローナ・ニールソン・マーレイが作成した犠牲者リスト (七)^ abcマイケル・ホンダ議員によって2007年1月に提出された﹁慰安婦をめぐる対日謝罪要求決議案がアメリカ議会に提出され審議された(2007年7月30日、下院本会議採択)。その後、各国で同様の決議が続いて行われた。 (八)^ ab慰安制度は、主に出征先での男性兵士の性犯罪を防ぐことと、兵士の士気を維持するために設置されたものであり、日本だけに存在したものではない︵世界各国にもあった慰安婦・慰安所︶。また従軍慰安婦と呼ばれるが、これが都市等の長期固定の女郎屋でなく軍部隊の移動としばしば共に移動したものという意味であれば言葉としても当てはまるものも多いかもしれないが、慰安婦が軍属扱いないし軍管理下にあったかどうかについてはケースバイケースで、慰安所の管理・運営は民間業者が独自に商売として行っていたケース︵女郎屋とほぼ同じシステム︶も多かったとみられる。慰安婦は日本・朝鮮・台湾・中国などから民間業者が人身売買︵身売りや遊郭で働いていた売春婦など︶や騙すことで集められたとされるが、中国・東南アジアなどの戦争地域では、軍自体が女性を狩り立てて強制的に確保したケースも多いとみられる。
韓国では女子挺身隊と慰安婦が同じものとして、かつては間違って認識されていたことが多かった︵もっとも、慰安婦として連れ出す際に、外聞を憚って特殊挺身隊等といった形で呼ぶケース、女子挺身隊になるものと騙して連れ出すケース等は当然あった︶。この問題については、裁判や外交等でその時々でおきた事象につきしばしば正しいか、正しくないかの議論・論争が起こるものの、加害側・被害側ともに本当の意味での歴史認識がされておらず、双方とも客観的な視点で解決することを目的に対応していないことも多い。また、この問題が、国家レベルでの政治的・法的な駆引きや、個人や民族における感情問題のレベルに終始し、学術検証レベルでの調査・認識がなされなかったり、あるいは無視されてしまうことも多いというのが実状である。
・^ 原住民には民兵として日米両軍につき、戦ったものも多い。またアメリカ軍に対して、食糧などの物資の譲渡を条件に原住民達が日本兵を拉致したり、殺害されることも多数あった。[4]。
・^ 部隊の実態について諸説がある。詳細は当該項目を参照
出典[編集]
(一)^ abcdefghijk“横浜BC級戦犯裁判で裁かれた搭乗員処刑事件”. POW研究会. 2012年6月1日閲覧。
(二)^ abcd立川京一﹁旧軍における捕虜の取扱い﹂﹃防衛研究所紀要﹄第10巻第1号、2007年7月。
(三)^ 日本は国際社会の流れに従い第二次大戦時の 強制労働の歴史に向き合うべし - マイケル・ベイズラー (チャップマン大学法科大学院教授)
(四)^ 関連資料‥滝口岩夫﹃新版・戦争体験の真実―イラストで描いた太平洋戦争一兵士の記録﹄、第三書館、1999年初版 ISBN 4-807-499181。
(五)^ ﹃﹁BC級裁判﹂を読む﹄日本経済新聞出版社、2010年8月2日、97頁。