日比谷平左衛門
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日比谷 平左衛門︵ひびや へいざえもん、弘化5年2月21日︵1848年3月25日︶ - 大正10年︵1921年︶1月9日︶は、明治期の紡績実業家。東京富士瓦斯紡績や日清紡績など紡績業に深く関わり、東京商業会議所副会頭を務めた。鐘淵紡績、東京毛織物各社長。
経歴[編集]
越後国蒲原郡裏館村の旅宿営業者・大島栄造の3男として生まれる。万延元年︵1860年︶より江戸日本橋堀留の綿糸棉花問屋松本屋・斎藤弥助のもとで奉公し、のち日比谷家の養子となる。明治11年︵1878年︶に独立して浅草区茅町に綿糸染糸店を開くが、松本屋廃業によりそれを受け継ぎ、事務所を堀留に移して 綿糸・綿花を扱う卸商・日比谷商店を設立[1]。福沢諭吉︵慶應義塾︶に学び、絹糸業を営む一方、紡績の将来性に着目し東京富士瓦斯紡績を設立し専務取締役。明治34年︵1901年︶頃、森村市左衛門の懇意により、武藤山治、和田豊治、佐久間福太郎と共に、日清紡績、鐘淵紡績の設立に関わり、﹁日本紡績界の巨人﹂といわれるようになった。大正8年︵1920年︶には埼玉県の所沢銀行を買収して日比谷銀行︵その後野村銀行に買収され、現在はりそなホールディングス︶と改称、綿業相手の金融を手がけると共に中国にも支店を持った。その他にも第一生命保険、九州水力電気などの設立・経営に携わる。また、大正5年︵1916年︶に慶應義塾の医学科振興のため寄附を行い、学事の振興にもつとめた。墓所は青山霊園(1イ7-1)。脚注[編集]
- ^ 『会員追悼録』p30日本工業倶楽部, 1925
参考文献[編集]
- 日比谷平左衛門 - ウェイバックマシン(リンク切れ)
- 日本橋新材木町商業史覚書:問屋と街
- 慶應義塾年表:創立百二十五年
関連人物[編集]
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