出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木元 教子︵きもと のりこ、1932年12月19日 - ︶は、日本のエネルギー政策の評論家、ジャーナリスト。旧姓、町田︵まちだ︶[1][2][3][4]。
夫はTBSを経て、現在青森テレビ監査役、息子二人︵内の一人は、お笑いサイエンスライターの植木不等式︶。実母は、生活評論家の町田貞子。
来歴・人物[編集]
北海道苫小牧市生まれ。中国︵旧満州︶で育つ。
4歳の時、父の仕事で旧満州の吉林省敦化に移住。終戦の1年前に、父が南方に出征したため、北朝鮮の羅津から新潟港へ最後の貨客船で帰国している。そのため同年代の中国残留日本人や、北朝鮮による日本人拉致問題に対しては深い思い入れがある。
東京都立豊島高等学校、立教大学文学部英文科、立教大学法学部卒業。
大学在学中の1956年5月にTBS︵当時・ラジオ東京︶に嘱託採用され編成局嘱託アナウンサーとして勤務したのち、[1][3]1957年4月、社員採用され5期生アナウンサーとしてTBSに正式に入社する[2][4][注釈 1]。TBS朝の情報・報道番組として、生のニュース番組のはしりとなった﹁ニュースレーダー﹂を、時の政治評論家細川隆元とともに出演、話題となる。細川は、今日の木元を育てた一人でもある。
1958年3月、TBSを退社し[2][4]、フリーとなり、二人の子供を育てながら、フジテレビ﹁小川宏ショー﹂(1965年5月 - 1966年11月)、その後、同じくフジテレビ﹁3時のあなた﹂(1968年4月 - 1969年3月)の、各初代司会者となった。
その後、フジテレビと契約、初のメイン女性ニュースキャスターとなる。キャスター引退後、評論活動を中心とし、報道番組、社会情報番組等のコメンテーターをはじめ、フリーランスの立場で講演、執筆、シンポジウム等の総合企画・プロデュースを手がけ現在に至る。
近年は、エネルギー、特に原子力にウエイトを置き発言。原子力発電推進の急先鋒の一人である。一般国民とのパイプ役としての役割を意識し、原子力委員会に﹁市民参加懇談会﹂(2001年 - )を立ち上げた。木元の原子力へのかかわりは、﹁小川宏ショー﹂特番で毎年﹁原爆の日﹂に広島、長崎から生レポートを担当したことや、その後のニュースキャスターで、被爆国なのに﹁なぜ原子力か﹂との疑問から始まっている。だがその前の1963年 - 1964年に当時のNET(現在のテレビ朝日)で、﹁マンガのおじさん﹂という生番組の司会を木元が担当、手塚治虫と週一回の共演をしていた。木元が、エネルギー、原子力に取り組む原点には手塚治虫と﹃鉄腕アトム﹄が存在し、原子力委員になった木元の﹁原子力の平和利用﹂の主張に、大きな影響を与えている。2002年6月5日朝日新聞の朝刊2面。当時の福田康夫官房長官、また安倍晋三代議士が早稲田大学で、核兵器の保有は日本国憲法に違反しないとか、非核三原則の見直し発言を行ったことにつき、6月4日の原子力委員会で、木元委員が﹁原子力の平和利用に限っている原子力基本法にもそぐわない﹂と発言、抗議表明を求めた。しかし委員長は継続して検討するに留まった。その後、6月18日の朝日新聞﹁私の視点﹂に、木元の﹁核論議﹃平和利用限定﹄を忘れるな﹂の原稿が載っており、平和利用の番人とされる原子力委員会でただ一人、その立場を明確にしていた。また、1978年、当時小学5年の次男が学校から社会科の参考として﹁こわい原子力発電﹂というガリ版刷りの資料を持ち帰ってきた事に関心を抱き、自分の目で勉強し、確かめようと考え行動を起こしたと、原子力委員就任(1998年1月5日)の際に語った。またその時に、﹁見える﹂﹁逃げない﹂﹁行動する﹂原子力を委員のモットーとすると言明している。
2007年春、旭日中綬章を受章。
長男である木元俊宏は植木不等式のペンネームまたは本名で著作活動をしている。1979年9月、本名にて﹃母親への公開状﹄︵青娥書房︶を出版している。
主な公職[編集]
●内閣府 原子力委員会委員(1998年1月 - 2006年12月)
●経済産業省 総合資源エネルギー調査会・委員(1989年1月 - )
●文部科学省 中央教育審議会・スポーツ振興特別委員会委員(1998年8月 - )
●農林水産省21世紀村づくり塾 100人委員会委員(1989年10月 - )
●ETT﹃フォーラム・エネルギーを考える﹄運営企画委員(1990年7月 - )
●食の教育推進協議会 共同創設者・実行委員(1993年11月 - )
●生活構造改革フォーラム・代表(1994年3月 - )
●︵財︶社会経済生産性本部・評議員(1994年4月 - )
●NPO法人﹃21世紀の食は私達が作る会﹄代表(2005年12月 - )
ほか
●結婚も仕事もしたいあなたに︵大和出版、1980年7月︶
●﹃子離れ親離れのすすめ﹄経済界、1981年12月14日。NDLJP:12142221。
●﹃キャンパスへの旅﹄サンケイ出版、1982年6月25日。NDLJP:12122610。
●結婚・こども、どう考えますか︵三笠書房、1985年5月︶
●姑ばなれ、嫁ばなれ︵海竜社、1988年2月︶
●わたしの人生、今が一番︵海竜社、1993年10月︶
●ちょっと待って!暮らしとエネルギーを考える︵株式会社エネルギーフォーラム、2001年12月︶
● 絵本﹁100年後の地球﹂︵株式会社エネルギーフォーラム、2003年11月︶
ほか
●普通・自二・自動車運転免許
●小型船舶操縦士・海技免許、
●アマチュア無線技士
など
出演番組[編集]
●かなりやゲーム(TBSラジオ)司会[1][3]
●歌くらべ学校めぐり(TBSラジオ)司会[1][3]
●ホモちゃんの天気予報(TBSテレビ)[1][3]
●僕も私も会いたい人(1958年、TBSテレビ)[2][4]
●小川宏ショー(フジテレビ)
●ライオン奥様劇場 教育スペシャル 母と子の教育戦線︵1981年、フジテレビ、﹃ライオン奥様劇場﹄シリーズ唯一の非ドラマ︶
●月曜ドラマスペシャル﹁セクシャル・ハラスメン キャスター裕子の奪われた時間﹂︵1989年、TBSテレビ︶
●みのもんたの朝ズバッ!(TBSテレビ)
その他[編集]
●レモンの天使︵1971年10月 - 1972年3月、フジテレビ︶- 主題歌及び副主題歌の作詞を担当した。作・編曲は越部信義。
(一)^ ﹃TBS50年史﹄では﹁1957年5月社員採用﹂となっている。
(一)^ abcde東京放送 著﹁III.放送関係 7.アナウンサーの活動記録﹂、東京放送 編﹃TBS50年史 資料編﹄2002年1月、236頁。"1956.5<嘱託採用> 町田教子 R﹁かなりやゲーム﹂﹁歌くらべ学校めぐり﹂司会など。 TV﹁ホモちゃんの天気予報﹂ 〜︵1957.5社員採用︶"。
(二)^ abcd東京放送 著﹁III.放送関係 7.アナウンサーの活動記録﹂、東京放送 編﹃TBS50年史 資料編﹄2002年1月、236頁。"1957.4<5期生> 1957.4<5期生> 15人入社︵男5・女10︶ 町田教子﹇1958.3退社﹈ TV﹁僕も私も会いたい人︵1958︶﹂"。
(三)^ abcde東京放送 著﹁TBSアナウンサーの動き﹂、東京放送 編﹃TBS50年史 ハイブリッド検索編﹄︵DVD-ROM & PDF︶2002年1月、9頁。"56.5 <嘱託採用>3人 編成局嘱託 町田 教子・・・立教大学在学中、1955年KR﹁かなりやゲーム﹂﹁歌くらべ学校めぐり﹂の司会など TV﹁ホモちゃんの天気予報﹂〜︵57.5 社員採用︶"。
(四)^ abcd東京放送 著﹁TBSアナウンサーの動き﹂、東京放送 編﹃TBS50年史 ハイブリッド検索編﹄︵DVD-ROM & PDF︶2002年1月、11頁。"57.4 <5期生> 15人入社︵男5・女10︶ 応募2600人 町田 教子・・・﹇58.3退社﹈TV﹁僕も私も会いたい人(58)﹂"。
参考文献[編集]
●TBS50年史︵2002年1月、東京放送編・発行︶…国立国会図書館の所蔵情報
●資料編
●付属資料のDVD-ROM﹃ハイブリッド検索編﹄
●﹃TBSアナウンサーの動き﹄︵ラジオ東京→TBSの歴代アナウンサーの記録を、同社の歴史とともにまとめた文書。PDFファイル。全34ページ︶
外部リンク[編集]
●木元教子インタビュー - ウェイバックマシンシリーズ﹁日本のエネルギーを考える﹂
●木元教子プロフィール