木村一歩
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木村 一歩 | |
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誕生 |
1850年(嘉永3年3月) 志摩国答志郡鳥羽(現・三重県鳥羽市) |
別名 | 且又 |
死没 | 1901年7月7日(満51歳没) |
職業 | 洋学者、官吏 |
国籍 | 日本 |
代表作 |
『万国歴史』(1891年) 『教育辞典』(1893年) |
子供 | 勘之助(長男)、雄次(次男)、相原千里(三男)、林敏雄(五男) |
親族 | 有馬百鞭(実兄) |
木村 一歩︵きむら いっぽ[1][2]、1850年︵嘉永3年3月︶ - 1901年︵明治34年︶7月7日︶は明治時代の日本の洋学者、官吏。旧鳥羽藩士[3]。旧名は且又[4]。
来歴[編集]
嘉永3年︵1850年︶3月[5]、鳥羽藩士有馬千里の次男として志摩国鳥羽に生まれ、文久3年︵1863年︶に同藩士木村忠之の養子となった。藩校で漢学・蘭学を学んだのち、自費での洋学修行を藩より許され江戸に遊学[6]。慶応3年︵1867年︶7月に同藩の洋学者・近藤芳隣に入門し、さらに明治元年︵1868年︶11月、近藤のはからいで福澤諭吉が主宰する慶應義塾に入社。翌年には義塾の教員を務め、門野幾之進ら鳥羽藩出身者を入社させている[4][7][8]。 明治3年︵1870年︶閏10月、肥田昭作、永田健助に続き義塾から新政府の大学に転じ、少助教に就任。12月に中助教となり、大学が廃止され文部省が置かれた明治4年︵1871年︶7月に文部権大助教に更任されたのち、文部中助教、文部省九等出仕を経て同年12月に文部大助教に昇任。翌年3月から大阪開成所勤務となった[5][9]。明治5年︵1872年︶10月、官制改革にともない文部省八等出仕となり、11月に本省の教科書編成課︵翌年3月に編書課と改称︶に異動。翌年11月、文部省七等出仕に進み、明治7年︵1874年︶7月には報告課勤務となったが、本省経費削減のための行政整理が進められる中、河津祐之、坪井為春、島村鼎、木村正辞、伊藤圭介、永田健助らとともに同年9月に出仕を免じられた[5][10]。免出仕後は明治7年11月から翌年9月まで大蔵省国債寮の雇となった[5]ほか、文部省による洋書翻訳にも携わっている。その後、明治14年︵1881年︶12月に准判任御用掛として文部省に復帰。翌年12月に准奏任に進み、明治18年︵1885年︶から翌年にかけての官制改革で文部一等属︵のち文部属︶に降任となったのち、明治24年︵1891年︶頃まで在職した。省内では編輯局に勤務し、明治19年︵1886年︶3月に西村茂樹に代わって伊沢修二が局長に就任すると、教科書の著訳・編述・校訂事務を担当する第一課の課長心得となって伊沢を補佐。行政整理により明治23年︵1890年︶6月に編輯局が廃止された後は、同局の事務を引き継いだ総務局図書課に移った[5][11]。 なおこの間、岡山藩出身の木庭繁︵坪田繁︶、鳥羽藩出身の栗原亮一、林友太郎に洋学を教え[12][13]、明治7年に東京赤坂に開設した鞭駘義塾では、木庭の招きで岡山から上京した小松原英太郎、関新吾、千賀鶴太郎らが師事[7][14]。明治9年︵1876年︶に設けられた神宮教院本教館でも博物学教師を務め[15]、さらに明治11年︵1878年︶には中村正直が主宰する英学塾・同人社の教頭を依嘱された[6][16]。このほか、明治17年︵1884年︶4月に西村茂樹が会長を務める日本講道会の講師・会計員長となり、明治20年︵1887年︶9月に同会が日本弘道会に改組されると常議員に選ばれた[17]。 文部省を退いてからは、かつて同省から分冊刊行し未完であった訳書﹃教育辞林﹄の版権を譲り受け、これに本邦に関する事項と教育家伝を加えた﹃教育辞典﹄を編纂。明治26年︵1893年︶に完成を見た[1][16]。晩年は明治28年︵1895年︶頃から農商務省農事試験場本場の書記を務め[4][18]、またインド哲学の講究を志して仏教書を渉猟。他日、仏教の入門書を著すことを企てていたが、これを果たさないまま明治34年︵1901年︶7月7日に死去した。享年52[19]。親族[編集]
有馬家 ●父‥千里︵- 1858︶ - 通称・安太夫、字は利綱。鳥羽藩納戸役[20]。 ●母‥喜野︵1815 -︶ - 栗原此右衛門の娘[20]。 ●兄‥百鞭︵1835 - 1906︶ - 幼名・助麿、字は希駿、号は酔漁、醒仙。漢学者、旧鳥羽藩士。藩校・尚士館教師、藩主稲垣長行侍読、同藩権大属を務めたのち、伊勢神宮神職、神宮教院本教館︵のち皇學館︶教師となった[21]。 ●姉‥本︵1838 -︶ - 一歩の養父・木村忠之の妻[6]。 木村家 ●父‥忠之︵1828 -︶ - 旧名・謙太郎。鳥羽藩勘定方、同藩権少属を務めた[6]。 ●母‥本︵1838 -︶ - 一歩の実姉[6]。 ●妻‥きん︵1851 -︶ - 東京府平民市川善助次女[22]。 ●長男‥勘之助︵1867 -︶ - 東京帝国大学法科大学卒。十五銀行抵当課長、共益人造肥料社長、水戸鉄道取締役、釧路炭砿社長[22][23]。 ●次男‥雄次︵1874 -︶ - 東京帝国大学法科大学卒。第一銀行京城支店副支配人、朝鮮銀行理事・内地総支配人、東洋生命保険社長、不二興業会長[3][24]。 ●娘‥ます︵1883 -︶ - 東京府人太田和太郎夫人[22]。 ●三男‥相原千里︵1885 -︶ - 医学博士。東京帝国大学医科大学卒。日本赤十字社長野支部病院長。母の実家相原家を継ぐ[25]。 ●五男‥林敏雄︵1888 -︶ - 医学博士。東京帝国大学医科大学卒。市立札幌病院長。一歩の教え子である医師・林友太郎の養子[13][26]。著作[編集]
●﹁合衆国管商事務ノ事﹂ ウヰルヤムス筆述︵早稲田大学図書館所蔵大隈文書︶ ●﹁百物為神ノ教衰ヘテ理学興ル﹂︵﹃同人社文学雑誌﹄第38号、1880年1月︶ ●﹁上古教育沿革﹂︵﹃同人社文学雑誌﹄第51号、1881年4月︶ ●﹁中古教育沿革論﹂︵﹃同人社文学雑誌﹄第63号、1881年10月 / 第64号、1881年11月︶ ●﹁近世教育沿革論﹂︵﹃同人社文学雑誌﹄第67号、1881年12月 / 第68号、1882年1月︶ ●﹁普刺多氏伝﹂︵﹃同人社文学雑誌﹄第78号、1882年6月︶ ●﹁教育ノ主義﹂︵﹃脩身学社叢説﹄第26冊、1882年6月︶ ●﹁哈里斯氏文明論﹂︵﹃脩身学社叢説﹄第30冊、1883年1月︶ ●﹁女子教育沿革﹂︵﹃同人社文学雑誌﹄第89号、1883年2月 / 第90号、1883年3月︶ ●﹁欧米五十傑伝記﹂︵﹃日本弘道叢記﹄第13号、1893年5月 / 第14号、1893年6月 / 第15号、1893年7月 / 第17号、1893年9月︶ 訳書 ●﹃百科全書 温室通風点光﹄︵情報︶ 文部省、1877年 ●﹃百科全書 第六冊﹄ 文部省 / 有隣堂 ●﹃百科全書 上巻﹄ 丸善商社出版、1884年1月 / ゆまに書房、1985年2月 ●﹃文部省百科全書7﹄ 青史社、1984年12月 ウィリアム・チェンバース、ロバート・チェンバース編 Chambers's Information for the People 中の "Warming-Ventilator-Lighting" の翻訳。 ●﹃百科全書 菜園篇﹄︵情報︶ 文部省、1877年 ●﹃百科全書 第七冊﹄ 文部省 / 有隣堂 ●前掲 ﹃百科全書 上巻]﹄ ●﹃文部省百科全書8﹄ 青史社、1985年2月 Chambers's Information for the People 中の "The Kitchen Garden" の翻訳。 ●﹃低洛爾氏 万国史﹄ 文部省、1978年5月巻一 / 1878年10月巻二 William Cooke Taylor. A Manual of Ancient and Modern History. の翻訳。巻三・巻四は永田健助らが訳出。 ●﹃洛氏天文学﹄ 内田正雄共訳、文部省、1879年3月︵上下2冊︶ ノーマン・ロッキャー Elements of Astronomy. の翻訳。 ●﹃教育辞林﹄ 文部省、1880年12月第五冊・第六冊 / 1881年3月第七冊 / 1882年4月第八冊・第九冊 / 1882年6月第十冊 / 1882年8月第十一冊 / 1883年1月第十二冊・第十三冊 / 1883年2月第十四冊 / 1883年3月第十五冊 / 第十六冊 / 第十七冊 / 第十八冊 / 第十九冊 / 第二十冊 / 第二十一冊 Henry Kiddle & Alexander Jacob Schem, ed. The Cyclopædia of Education. 1877. の翻訳。第四冊までは小林小太郎が訳出。 ●﹃教育辞典﹄ 博文館、1893年4月 ●﹃万国歴史﹄ 文部省図書課、1891年9月 ●﹃英訳古事記序説﹄︵国立公文書館、國學院大學図書館所蔵梧陰文庫︶ / ﹃和訳古事記序説﹄︵宮内庁書陵部図書寮文庫︶ / ﹃英訳古事記誘導篇﹄︵早稲田大学図書館所蔵大隈文書︶ バジル・ホール・チェンバレン訳 Translation of "Ko-ji-ki" or "Records of ancient matters" 中の "Introduction" の翻訳。脚注[編集]
(一)^ ab﹃図説 教育人物事典 上巻﹄。
(二)^ ﹃福沢諭吉門下﹄。﹃明治時代史大辞典1﹄。
(三)^ ab﹁木村雄次﹂︵内尾直二編輯 ﹃第十三版 人事興信録 上﹄ 人事興信所、1941年10月︶。
(四)^ abc﹃慶應義塾150年史資料集1﹄。
(五)^ abcde﹁公文録・明治十五年・第二百七巻﹂。
(六)^ abcde村林・小木曽、85頁。
(七)^ ab﹃東京教育史資料大系 第二巻﹄。
(八)^ ﹃慶應義塾150年史資料集2﹄。﹃門野幾之進先生 事蹟文集﹄ 103頁、97-98頁、104-106頁。
(九)^ ﹃職員録﹄明治3年11月、120丁表。慶応義塾編 ﹃慶応義塾百年史 上巻﹄ 慶応義塾、1958年11月、571頁。倉沢剛著 ﹃学制の研究﹄ 講談社、1973年3月、276頁、262-264頁、268-269頁、271頁、273頁。﹁大阪開成所教員月給取越方の件﹂︵﹃大阪府教育百年史 第四巻 史料編(3)﹄ 大阪府教育委員会、1974年3月︶。
(十)^ 前掲 ﹃学制の研究﹄ 664-665頁。明治6年3月13日文部省達︵内閣記録局編輯 ﹃法規分類大全第一編 官職門十四﹄ 1891年2月、65頁︶。﹁﹁学制﹂期における文部省の教科書編纂・出版・供給政策﹂︵掛本勲夫著 ﹃明治期教科書政策史研究﹄ 皇學館大学出版部、2010年12月、ISBN 9784876441662︶16-19頁。﹁信義の日記︵明治七年︶﹂︵落合町教育委員会編 ﹃郷土の蘭医 石井宗謙の足跡をたどる﹄ 落合町教育委員会、1992年8月︶273頁。﹃太政官日誌﹄明治7年第124号、5-6頁。
(11)^ ﹃文部省職員録 明治十九年七月十日調﹄13頁。﹃改正官員録﹄ 1886年2月、174丁表。﹃文部省職員録 明治二十三年十二月廿三日調﹄9頁。学海日録研究会編 ﹃學海日録 第六巻﹄ 岩波書店、1992年7月、ISBN 4000916262、307頁。山縣悌三郎著 ﹃児孫の為めに 余の生涯を語る : 山縣悌三郎自伝﹄ 弘隆社、1987年7月、107頁。梶山雅史﹃近代日本教科書史研究 : 明治期検定制度の成立と崩壊﹄ミネルヴァ書房、1988年、6,58頁。ISBN 4623018121。 NCID BN02024708。全国書誌番号:88030728。
梶山雅史﹃近代日本教科書史研究 : 明治期検定制度の成立と崩壊﹄ 京都大学︿教育学博士 乙第6438号﹀、1988年。doi:10.14989/doctor.r6438。hdl:2433/68906。
(12)^ ﹃小松原英太郎君事略﹄ 木下憲、1924年11月、30頁、25頁。﹁皆無庵居士小伝﹂︵﹃皆無庵遺響﹄︶1頁。﹁近世志摩国の寺子屋 : 鳥羽町栗原家を事例として﹂︵梅村佳代著 ﹃近世民衆の手習いと往来物﹄ 梓出版社、2002年10月、ISBN 4872626176︶65頁。
(13)^ ab﹁林友太郎先生之伝﹂︵近藤修之助編輯 ﹃明治医家列伝 第四篇﹄ 近藤修之助、1894年4月︶。
(14)^ 東京市赤坂区役所編纂 ﹃赤坂区史﹄ 東京市赤坂区役所、1941年3月、653-654頁。前掲 ﹃小松原英太郎君事略﹄30頁。
(15)^ 神宮司庁編 ﹃神宮・明治百年史 上巻﹄ 神宮司庁文教部、1968年10月、109頁。
(16)^ ab﹃門野幾之進先生 事蹟文集﹄ 105頁。
(17)^ 日本弘道会百十年史編集委員会編 ﹃日本弘道会百十年史﹄ 日本弘道会、1996年9月、132頁、152-155頁。
(18)^ ﹃明治二十八年 職員録 甲﹄ 411頁。﹃農商務省職員録 明治廿九年十一月調﹄72頁。﹃明治三十四年 職員録 甲﹄ 649頁。
(19)^ ﹃門野幾之進先生 事蹟文集﹄ 105-106頁。日置昌一著 ﹃国史大年表 第五巻﹄ 平凡社、1935年5月、347-348頁。
(20)^ ab村林・小木曽、82-83頁。
(21)^ 村林・小木曽、82-84頁。牟禮仁 ﹁有馬百鞭﹂︵皇學館百二十周年記念誌編纂委員会編 ﹃皇學館百二十周年記念誌 : 群像と回顧・展望﹄ 皇學館、2002年4月︶。前掲 ﹃近世民衆の手習いと往来物﹄ 73-74頁。
(22)^ abc﹁木村勘之助﹂︵内尾直二編輯 ﹃第二版 人事興信録﹄ 人事興信所、1908年6月︶。
(23)^ ﹁木村勘之助﹂︵内尾直二編輯 ﹃第四版 人事興信録﹄ 人事興信所、1915年1月︶。
(24)^ ﹁木村雄次﹂︵野依秀一編輯 ﹃明治大正史 第拾参巻︵人物篇︶﹄ 実業之世界社、1930年12月︶。
(25)^ ﹁医学博士 相原千里﹂︵井関九郎監修 ﹃大日本博士録 第参巻 医学博士之部︵其之弐︶﹄ 発展社出版部、1926年11月︶。﹁相原千里﹂︵谷元二著 ﹃第十三版 大衆人事録 中部篇﹄ 帝国秘密探偵社ほか、1940年4月︶。
(26)^ ﹁林敏雄﹂︵勝田一編纂 ﹃帝国大学出身名鑑﹄ 校友調査会、1932年12月︶。﹁林敏雄﹂︵内尾直二編輯 ﹃第十三版 人事興信録 下﹄ 人事興信所、1941年10月︶。