枝川弘
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えだがわ ひろむ 枝川 弘 | |
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生年月日 | 1916年11月20日 |
没年月日 | 2010年7月10日(93歳没) |
出生地 |
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死没地 |
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職業 | 映画監督 |
ジャンル | 劇場用映画、テレビ映画 |
活動期間 | 1950年 - 1980年 |
配偶者 | 志賀眞津子 |
主な作品 | |
テレビ映画 『図々しい奴』 『おくさまは18歳』 『アイアンキング』 |
枝川 弘︵えだがわ ひろむ、1916年11月20日 - 2010年7月10日︶は、日本の映画監督である[1][2][3][4][5][6]。現代劇を専門とし、1963年以降に手がけたテレビ映画﹃図々しい奴﹄﹃おくさまは18歳﹄﹃アイアンキング﹄の監督として知られる[1]。
人物・来歴
[編集]
1916年︵大正5年︶11月20日、大阪府に生まれる[4][6]。
1939年︵昭和14年︶、日本大学法文学部芸術学科︵現在の日本大学藝術学部︶を卒業し、日活多摩川撮影所に入社する[6]。1940年︵昭和15年︶には軍隊に徴収され、1945年︵昭和20年︶に復員、同撮影所の後進である大映︵現在の角川大映撮影所︶に復職した[6]。同撮影所では、田中重雄に師事した[6]。
1950年︵昭和25年︶4月9日に公開された、今村貞夫のラジオ映画が製作した﹃人喰い熊﹄を監督している[2][3][4]。当時の評判はあまり芳しくはなかった[7]。
その後、大映東京撮影所で、同い年の鈴木英夫の助監督をもっぱら務め、1951年︵昭和26年︶3月3日公開の﹃恋の阿蘭陀坂﹄ではチーフ助監督を務めている[8]。1954年︵昭和29年︶4月14日、満37歳のときに﹃五ツ木の子守唄﹄で再び監督としてデビューを果たしている[2][3][4][6]。
1962年︵昭和37年︶12月26日、満46歳のときに公開された﹃団地夫人﹄が、枝川にとって、大映東京撮影所が製作した最後の劇場用映画となり[3]、翌年1963年︵昭和38年︶には、大映テレビ室︵現在の大映テレビ︶が製作する﹃図々しい奴﹄を始めとするテレビ映画に専念する[3][9]。
1964年︵昭和39年︶、大映を退社する[6]。満49歳を迎える1965年︵昭和40年︶からは、大映テレビ室のみならず、国際放映、日活、宣弘社、C.A.Lといった製作会社で現代劇を中心に手がけた[9]。同年には、テアトル・プロダクション︵現在のメディアボックス︶が製作し松竹が配給した﹃呼んでるぜあの風が﹄で、劇場用映画に復帰している[2][3][4]。
1975年︵昭和50年︶12月25日、満59歳のときに女優の志賀眞津子︵当時50歳︶と結婚する。
満63歳を迎える1979年︵昭和54年︶10月30日から1980年︵昭和55年︶3月15日にかけて、テレビ朝日で放映された﹃けっぱれ!大ちゃん﹄が、最後の連続テレビ映画として記録されている。
2010年︵平成22年︶7月10日午前9時5分、東京都三鷹市内の病院で死去した[1]。満93歳没。
フィルモグラフィ
[編集]劇場用映画
[編集]- 『人喰い熊』 : 製作ラジオ映画、配給東京映画配給、1950年4月9日公開
- 『恋の阿蘭陀坂』 : 監督鈴木英夫、1951年3月3日公開 - 助監督
- 『歌う女剣劇』 : 監督西村元男、製作大映東京撮影所、1953年4月29日公開 - 脚本
- 『五ツ木の子守唄』 : 製作大映東京撮影所、1954年4月14日公開
- 『母時鳥』 : 製作大映東京撮影所、1954年7月4日公開
- 『荒城の月』 : 製作大映東京撮影所、1954年11月3日公開
- 『春の渦巻』 : 製作大映東京撮影所、1954年12月29日公開
- 『暁の合唱』 : 製作大映東京撮影所、1955年3月18日公開
- 『講道館四天王』 : 製作大映東京撮影所、1955年7月3日公開
- 『見合い旅行』 : 製作大映東京撮影所、1955年11月15日公開
- 『恋と金』 : 製作大映東京撮影所、1956年1月22日公開
- 『無法者の島』 : 製作大映東京撮影所、1956年6月1日公開
- 『第三非常線』 : 製作大映東京撮影所、1956年12月5日公開
- 『朝の口笛』 : 製作大映東京撮影所、1957年3月13日公開
- 『哀愁列車』 : 製作大映東京撮影所、1957年5月13日公開
- 『誓いてし』 : 製作大映東京撮影所、1957年9月14日公開
- 『駐在所日記』 : 製作大映東京撮影所、1957年11月5日公開
- 『新婚七つの楽しみ』 : 製作大映東京撮影所、1958年1月9日公開
- 『南氏大いに惑う』 : 製作大映東京撮影所、1958年5月19日公開
- 『嵐の講道館』 : 製作大映東京撮影所、1958年8月12日公開
- 『別れたっていいじゃないか』 : 製作大映東京撮影所、1958年10月15日公開
- 『濡れた瞳』 : 製作大映東京撮影所、1959年1月9日公開
- 『薔薇の木にバラの花咲く』 : 製作大映東京撮影所、1959年3月11日公開
- 『私の選んだ人』 : 製作大映東京撮影所、1959年5月13日公開
- 『嫌い嫌い嫌い』 : 製作大映東京撮影所、1960年2月24日公開
- 『時の氏神 新夫婦読本』 : 製作大映東京撮影所、1960年10月18日公開
- 『母桜』 : 製作大映東京撮影所、1960年11月16日公開
- 『新夫婦読本 恋愛病患者』 : 製作大映東京撮影所、1961年2月15日公開
- 『投資令嬢』 : 製作大映東京撮影所、1961年5月10日公開
- 『七人のあらくれ』 : 製作大映東京撮影所、1961年11月29日公開
- 『サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ』 : 製作大映東京撮影所、1962年5月12日公開
- 『団地夫人』 : 製作大映東京撮影所、1962年12月26日公開
- 『呼んでるぜあの風が』 : 製作テアトル・プロダクション、配給松竹、1965年6月12日公開
テレビ映画
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﹁単発﹂と明記されているもの以外は連続テレビ映画であり、その一部あるいは全部を監督している[9]。
●﹃図々しい奴﹄ : 製作大映テレビ室/TBS、1963年6月3日 - 同年9月9日放映
●﹃そろりと参ろう﹄ : 製作大映テレビ室/TBS、1963年12月16日 - 1964年3月9日放映
●﹃国際事件記者﹄ : 製作国際放映、1965年3月10日 - 同年7月28日放映
●﹃がいな奴﹄ : 製作フジテレビジョン、1965年10月7日 - 1966年4月7日放映
●﹃山のかなたに﹄ : 製作日活/NTV、1966年1月17日 - 同年4月11日放映
●﹃ただいま見習中﹄ : 製作フジテレビジョン、1966年9月11日放映︵単発︶
●﹃渥美清の泣いてたまるか﹄ : 製作TBS/国際放映、1966年4月17日 - 1968年3月31日放映
●﹃エプロン父さん﹄ : 製作TBS、1968年10月6日 - 1969年3月30日放映
●﹃胡椒息子﹄ : 製作TBS、1969年7月7日 - 同年10月27日放映
●﹃ただいま同居中﹄ : 製作大映テレビ室/TBS、1970年1月6日 - 同年6月30日放映
●﹃恋人はLサイズ﹄ : 製作大映テレビ室/フジテレビジョン、1970年5月7日 - 同年9月24日放映
●﹃おくさまは18歳﹄ : 製作大映テレビ室/TBS、1970年9月29日 - 1971年9月28日放映
●愛の劇場﹃北信濃絶唱﹄ : 製作大映テレビ室/TBS、1972年1月4日 - 同年3月3日放映
●タケダアワー﹃アイアンキング﹄ : 製作TBS/宣弘社、1972年10月8日 - 1973年4月8日放映
●﹃走れ!ケー100﹄ : 製作TBS/C.A.L、1973年4月13日 - 1974年3月29日放映
●﹃若い!先生﹄ : 製作TBS/国際放映、1974年5月13日 - 同年11月4日放映
●﹃玄海の女﹄ : 製作フジテレビジョン、1975年3月31日 - 同年6月27日放映
●ライオン奥様劇場﹃異母兄弟﹄ : 製作フジテレビジョン、1975年11月17日 - 1976年1月2日放映
●﹃天下一大物伝﹄ : 製作国際放映/東京12チャンネル、1976年10月5日 - 1977年3月29日放映
●土曜ワイド劇場﹃死の大滑降﹄ : 製作大映テレビ室/テレビ朝日、1978年3月4日放映︵単発︶
●﹃けっぱれ!大ちゃん﹄ : 製作国際放映/テレビ朝日、1979年10月30日 - 1980年3月15日放映
●﹃心の忘れ物カメオ﹄ : 製作モラロジ—研究所、1979年11月完成
脚注
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(一)^ abc枝川弘氏死去 映画監督、47NEWS、2010年7月20日付、2012年4月26日閲覧。
(二)^ abcde枝川弘、日本映画情報システム、文化庁、2012年4月26日閲覧。
(三)^ abcdefg枝川弘、日本映画データベース、2012年4月26日閲覧。
(四)^ abcdef枝川弘、キネマ旬報映画データベース、2012年4月26日閲覧。
(五)^ 枝川弘、映像作品データベース、武蔵野美術大学、2012年4月26日閲覧。
(六)^ abcdefg枝川弘、日本映画監督協会、2010年7月30日付、インターネットアーカイブ、2012年4月26日閲覧。
(七)^ ﹃映画年鑑 1952﹄、p.78.
(八)^ 鈴木英夫︿その6﹀対談:鈴木英夫×木村威夫、木全公彦、マーメイドフィルム、2012年4月25日閲覧。
(九)^ abcd枝川弘、テレビドラマデータベース、2012年4月26日閲覧。
参考文献
[編集]- 『映画年鑑 1952』、時事映画通信社、1952年