梅文鼎
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略歴
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幼少から父に従って﹃周易﹄を読み、天体観測や暦算の学を好んだ。弟の梅文鼐・梅文鼏とともに同郷の倪正を師として学ぶ。﹃臺官交食法﹄を伝授されたときにその訂正・註釈として﹃暦学駢枝﹄2巻を著す。27歳の頃には師の倪正に大いに嘆賞されるに至る。仕官はしなかったが、康煕28年に北京で李光地と知り合い、康熙帝に紹介された。帝はかねて暦算に興味をもっていたので、康熙44年︵1705年︶の南巡のさいに文鼎を召して3日にわたって談論を交わした。帝は文鼎が仕官するには年をとりすぎたことを惜しみ、その孫である梅瑴成︵梅以燕の子︶を朝廷に召すことにした。徐光啓に始まった科学的暦学の建設は、梅文鼎によって大成されたと言える。暦学を数学と関連づけ、数学への関心を高めたのも彼の貢献による。全集﹃暦算全書﹄の一部﹃三角法挙要﹄では、﹃幾何原本﹄の記述に添いながらも、点・線・面・体などの定義をより分かりやすく説明している[1]。汪中は﹁中西の暦学は、梅氏にいたって精密になった﹂と称え、銭大昕は梅文鼎を﹁清朝第一の算学家﹂と呼んでいる。
著書
[編集]著書は80余種といわれ、その多くは『梅氏叢書輯要』や『勿庵暦算全書』75巻におさめられた。内容は
に分かれる。
- 『暦学疑問』3巻
- 『古今暦法通考』
参考文献
[編集]出典
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(一)^ 小林龍彦﹁長井忠三郎と﹃三角法挙要﹄ (数学史の研究)﹂﹃数理解析研究所講究録﹄第1739巻、京都大学数理解析研究所、2011年4月、51-64頁、CRID 1050001335761979008、hdl:2433/170886、ISSN 1880-2818。