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﹃母べえ﹄︵かあべえ︶は、映画スクリプターの野上照代の実話にもとづいたエッセイ作品及び映画化作品。
元々は、1984年の読売女性ヒューマン・ドキュメンタリー大賞に﹁父へのレクイエム﹂という題名で応募され、優秀賞を受賞。山路ふみ子功労賞もあわせて受賞した。2007年12月、翌年の映画公開を前に、中央公論新社から﹃母べえ﹄として、単行本として刊行された。父・野上巖は、戦前から新島繁のペンネームで活躍したドイツ文学者、芸術研究者で、作品とは異なり、1940年に転向したため保釈された。戦後は神戸大学教授などを歴任した。単行本収録時に吉永小百合と山田洋次のエッセイが添えられた。
あらすじ[編集]
1937年のある日の早朝、父べえ︵とうべえ=野上滋︶は、特高警察によって検挙され、巣鴨拘置所に収監される。思想犯が国体変革を狙う不届き者として白眼視される時代に、父との往復書簡を挿入して、家族が支え合って明るく暮らす姿が描かれている。
2008年1月26日公開の日本映画。
ストーリー[編集]
昭和15年︵1940年︶の東京、野上家ではユーモアを愛する父の考えからか家族に﹁べえ﹂をつけるのが習慣になっていて、母親のことを﹁母べえ﹂父親のことを﹁父︵とお︶べえ﹂と呼んでいた。
娘の初子︵初べえ︶と照美︵照べえ︶は、そのふたりの大きな愛に包まれて育ち、家庭には平穏があった。
だが日中戦争の激化とともに国情は大いに変化し、帝国大学出身のドイツ文学者で反戦思想をもっていた父が治安維持法違反の思想犯として、2月5日投獄され、暮らしが一変する。残された三人はそれでも父を信じ、陰膳をして待っている。やがて母の故郷・山口から警察署長をしている祖父・久太郎が上京してきて﹁恥をかかせた﹂と、佳代を厳しく罵る。それでも、彼女らの家を温かい目で見つめる人々が去来する。父のかつての教え子で小さな出版社に勤めていた山崎徹は不器用だが優しい性格で初子と照美に親しまれ、﹁山ちゃん﹂の愛称で野上家に欠かせない存在となる。父がいつ帰れるか全く見通しが立たないため、母は隣組長の世話で小学校の代用教員として一家の家計を支え始める。帰宅すれば深夜まで家の雑事に追われる。時折、父の妹で画家を目指す久子が手伝いにきてくれる。夏休みの間だけ、﹁招かれざる客﹂叔父が奈良から上京してくる。変わり者の仙吉はデリカシーのない発言をして思春期を迎えた初子に嫌われてしまうが、﹁何でも話せる﹂自由奔放な姿は佳代の心を癒し、金の指輪を母にと山崎に託して帰る︵戦後、自身の予言通り吉野の山で野垂れ死にしていた︶。
ふみと再婚した久太郎が上京してきて、思想犯となった父との離婚を命じ、できなければ自害せい、勘当じゃと迫るが母の心は少しも揺るがなかった。照美はすき焼きが食べられずにお腹がすいたと泣く。母が倒れ、山崎が飛んでくるが、疲労からの病気だった。夏になり、海水浴に行くが山崎が溺れそうになり、母が助ける。秋になり、山崎と結婚しないの?と尋ねる母に山崎は母に恋心を抱いていることを告げて久子が故郷に帰る。
昭和16年︵1941年︶12月8日、太平洋戦争が勃発。昭和17年の正月に父が獄死という電報が来て、その後にクリスマスに書いた父の手紙が届く。追い打ちをかけるように、近眼で左の耳が聞こえない山崎にも赤紙が届く。
3年後に終戦。久子は広島で被爆して亡くなっていた。山崎の戦友がきて﹁僕はもうこの世にはいないけれど、魂はいつまでもあなた方といて護ってあげる﹂との南方の海に消えた山崎の最後の言葉を伝える。
美術教師となった照美が初子が医師として勤める病院に入院している母の容態が悪化したと聞いて駆けつける。﹁もうすぐ父べえに会えるね﹂というと、母は﹁あの世でなんか会いたくない、生きている父べえに会いたい﹂と悲痛な言葉を呟く。
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