海獣葡萄鏡
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海獣葡萄鏡︵かいじゅうぶどうきょう︶は、唐代に製作された銅鏡の一種。名称は鏡背の葡萄唐草文と禽獣の文様に因むが、海獣はいわゆる海獣類ではない。唐鏡の典型とされる鏡式で、日本には飛鳥時代から奈良時代に輸入されて正倉院などに伝世するほか、法隆寺五重塔や高松塚古墳からの埋納品・出土品などが著名である。また輸入だけでなく、日本国内でも仿製鏡が制作された[1][2]。日本では禽獣葡萄鏡[3]・円鏡鳥獣花背[4]・鳥獣葡萄鏡[5]などの別表記もみられるほか、中国では瑞獣葡萄鏡の名称が一般的である[6]。
概要
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海獣葡萄鏡は中国唐代に盛んに制作された銅鏡である[注釈 1]。肉厚の鏡胎をもち、鏡背には葡萄唐草を一面に表し、唐草文様の間に禽獣︵狻猊・龍・獅子・麒麟・孔雀・天馬・マカラ・小鳥・雀・蝶・蜂・蜻蛉など︶が精緻な高肉彫りで表される。中央の鈕︵紐を通す突起︶は獣形であることがほとんどで、表される動物は狻猊とされる[2][8][9][10]。
海獣葡萄鏡の名称は、清代の図譜﹃西清古鑑﹄での名称に因む。﹁海獣﹂は内区主文と鈕に表される四脚の獣︵狻猊︶を指すと考えられるが、これは実在するいわゆる海獣類ではない。また﹁海獣﹂と称された理由についていくつかの仮説が挙がっているが、定説には至っていない[11][12][8]。
葡萄唐草文は、ディオニュソス信仰から生まれた楽園の図像がルーツで、西アジアから中央アジアを経由してシルクロードを伝わって中国に伝来した[13]。中国での葡萄唐草文は、早くは漢代の織物に見られるが、北魏時代には仏教寺院の装飾などに用いられるようになった[14]。
日本では、古社寺などの伝世品・墳墓への副葬・仏塔の鎮壇具・仏像の荘厳具・寺院跡からの出土・祭祀遺跡からの出土などがあり、特に伝世品は優品が多い[15]。1972年に高松塚古墳から出土したことにより注目を浴びて研究が進んだ[2]。
勝部明生によれば、1996年現在で拓本なども含めると日本・中国などで220面が確認されている[16]。また、海獣葡萄鏡は同じ文様を有する同型鏡が多い事も特徴で、高松塚古墳出土鏡は中国西安十里鋪337号鏡など3面と、香取神宮鏡は正倉院宝物南倉70の9号鏡と同型鏡であることが知られている[16]。
部分名称と特徴
[編集]研究史と名称
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海獣葡萄鏡は唐鏡の一種とするのが定説だが、この鏡式が当時どの様に呼ばれていたのかは明らかではない。海獣葡萄鏡は唐での流行とほぼ同時期に日本にも伝来していたが、これを宝物として記す﹃東大寺献物帳﹄には、鏡背の文様を﹁鳥獣花背﹂などと記すのみで、鏡式としての特定の名称はなかったと考えられる[21]。
北宋の皇帝で、美術品・文化財の収集を熱心に行った徽宗は、自ら収集した文化財の一部を﹃宣和博古図録﹄に編纂したが、この中に7面の海獣葡萄鏡が記録されている。この図譜では海馬葡萄鏡と記され、漢鏡だと考えられていた[22][11]。続いて清の乾隆帝は、蒐集した青銅器を図譜﹃西清古鑑﹄に編纂したが、これに海獣葡萄鏡の名称で、円鏡27面・方鏡1面が掲載された。これにも漢鏡の一種として分類されている[22][11]。
近代的な研究を行ったのはドイツ人の中国研究家フリードリッヒ・ヒルトである。1896年にヒルトは外国の影響が中国美術に及ぼした影響についての考察のなかで、海馬︵Hai-ma︶は、ゾロアスター教で酒の原料となる植物ハオマ︵Haoma︶が誤って伝わったもので、葡萄と共に中国に伝来したと考察した[23][8]。時代については、葡萄唐草文を漢の武帝の時代に西洋文化が流入した影響で産まれたとしたうえで、過去の図譜と同様に漢鏡とする見解を示したが[7]、そのルーツをグレコ・バクトリアに求めた点は特筆される[23]。
海獣葡萄鏡を漢鏡としていた従来の説に疑問を呈したのは、三宅米吉である。1897年に三宅は、日本の古社寺に伝来する海獣葡萄鏡は古墳などからの出土品とは思えない事などから、推古朝以降に唐との交流で伝来したものと推測し、唐代の鏡式である可能性を指摘した[7]。
1899年に高市郡高取町松山で起きた地崩れから海獣葡萄鏡が出土した。これについて1909年に高橋健自は、文様の特徴から唐鏡と紹介。これに対し同年喜田貞吉は、宋代に唐鏡を漢鏡に見誤るはずはないと異議を唱えて論争となった[7]。
1917年に原田淑人は、中国の古文献の記述から﹁海獣﹂﹁海馬﹂は当時の名称ではなく、宋代の学者の命名と推測した。その上で、葡萄文はササン朝ペルシャから伝来し、中国六朝末期に獣形文と結合して海獣葡萄文が成立。その盛期を高宗から玄宗としたとした[3][8][7]。
1926年に法隆寺五重塔の心柱礎石内に海獣葡萄鏡が埋納されていることが明らかになり、いわゆる再建非再建論争とかかわり注目を浴びた[2]。この海獣葡萄鏡は1949年に再調査が行われたが、これを調査した梅原末治は海獣葡萄鏡を隋末唐初に成立した鏡式とした。この年代観は法隆寺再建説の根拠の一つとなっている[24][7]。
1939年に浜田耕作は、ヨルダン東部のムシャッタ宮殿の文様から葡萄文と禽獣文の融合は西方ペルシアで行われたとし、これを禽獣葡萄文と称して禽獣葡萄鏡の名称を提唱した。また、時代観については隋末唐初としている。なお、当時ムシャッタ宮殿は5世紀から7世紀の造営とされていたが、現在では8世紀前半のウマイア朝の初期イスラム建築とするのが定説である[3][8][7]。
1940年に梁上椿︵りょうじょうちん︶は、禽獣葡萄文は西アジアの影響であることを認めつつ、そのルーツについては古代ギリシャやローマにも見られるもので議論が必要だと指摘した。また名称については禽獣葡萄鏡を採っている[3][8]。
1972年に高松塚古墳が発掘されるとその造営年代に注目が集まるが、その中でも出土した海獣葡萄鏡が有力な手掛かりとされて研究が進んだ[25][24]。なお、高松塚古墳出土鏡の年代については中国の墳墓から出土した海獣葡萄鏡との比較などから、樋口隆康は8世紀初頭、王仲殊や長広敏雄は7世紀末頃、勝部明生は680年前後などとしている[26]。
同じ頃に樋口は、海獣葡萄鏡を5つの様式に細分し初唐から晩唐までの編年案を提示。これをさらに発展させ、1976年には文様の変化を中心に8式に分けた編年を発表した[26]。また﹁海馬﹂の語源については西域からイランに伝わる竜馬伝説﹁青海の馬﹂と推測している[6][27]。なお編年については、1979年に勝部明生が発表した葡萄唐草文の変化に着目して4式に分類する編年や、1983年に秋山進午が発表した鏡胎の変化を軸に内・外区の形状や文様の変化から6式に分類する編年もある[26]。
1983年に秋山進午は、禽獣の表現に着目して対獣葡萄鏡と走獣葡萄鏡の2種への細分を提唱[6]。
一方で1984年に中国の孔祥星・劉一曼両氏は、海獣葡萄鏡の成立を﹁六朝から初唐にかけて製作された瑞獣鏡を祖型として西方から伝わった葡萄唐草文を中国で組み合わせた﹂とし、瑞獣葡萄鏡の名称を用いた。中国ではこの名称が定着している。また、その成立については高宗から則天武后を画期と捉えた[6][28]。
1992年に勝部は、古代中国で外国から移入した草木に﹁海﹂の文字がつけられていた事を指摘し、海獣あるいは海馬は西方に棲む異獣を示すとした[6][29]。
2000年に石渡美江は、漢鏡の神獣鏡に表現された神仙思想による楽園図像が、西方的・仏教的な楽園図像に置き換えられたものが海獣葡萄鏡だとした[13]。
製作法
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素材は銅と錫の合金︵青銅、もしくはいわゆる白銅︶で、銅80%前後に錫と微量の鉛を加えたものが多い。鏡は鋳造で、鋳型の製作法については諸説あるが[5]、原笵︵石もしくは木などの硬質な素材に陰刻︶から蝋型を写し取った後に細部を整形し、これを真土︵山砂と粘土の混合泥︶で包んで鋳型を成形する方法が有力である。また、文様が簡略化されたもの、特に仿製鏡については母鏡を直接真土で包んで文様を写し取る﹁踏み返し﹂が行われたと考えられている[16]。